2005年12月07日

コミュニケーションの意味がヘン!

コミュニケーション・ネタ、三度登場exclamation×2テヘるんるん

エントリ内に書いたのか、コメントに書いたのか、あまりに書きまくっていて忘れてしまったのだけれど、「コミュニケーション」とは本来「伝達」を意味する。
その「伝達」は大抵ナニカを目的とされている。

伝達⇒理解⇒共感⇒目的達成


これが「伝達」から目的達成までの基本的な?流れなんじゃないだろうか。
そして、理解・無理解、共感・非共感、目的達成・未達成が、それぞれ組み合わさるんじゃなかろうか、なんて思う。

一見、「無理解」の次は非共感⇒目的未達成、となるのかと思われるけど、私の経験は「そうじゃないでしょ」と言っている。
理解はされても共感されないこともあれば、理解されていないのに(誤解されているのに)共感されることもある。

理解や共感はどうであれ目的が達成されれば、伝達は成功したのだ、と言えるんだろう。
伝達と理解と共感と目的は、それぞれが全然別モノ、ということなんだ。
ところが「コミュニケーション」という単語には、それらを全部ひっくるめて考えてしまう魔力を持っている。
だからややこしやぁ〜、あ、ややこしやぁ〜るんるんなんて、ついつい謡ってみたくもなる。


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2005年11月26日

「間に合わない」の内と外

先のコミュニケーション・ネタに、motoさんがコメントを下さった。
で、ご自身のブログでも、コミュニケーションをネタに書いて下さった。
で、それを読んだ私は「コレだぁぁぁぁぁ!」と飛び上がった。

以下
motoさんpresents「左の耳掻き」
[コミュニケーションの共同体的スキル]より

解り合うためのコミュニケーションじゃなくて、殺し合わないためのコミュニケーション、
共感するためのコミュニケーションじゃなくて、違いを知るためのコミュニケーション。
あなたと私は違ってて当たり前、と本気で言えて、さらに、なにかお互いの最良をうんうん考えていくことができるような技術、それこそ、コミュニケーション・スキルなんじゃないかと。
そう考えると儀礼とかお祭りとか、そういうのって大事なんだなあとつくづく思う今日この頃でした。


以上!

そうなんだ、私が世間で声高に言われる様々な「人に優しく」的な声に感じる胡散臭さは、
「解り合うこと」「共感すること」をヨシとしている、というか、目的としている、というか、「こうすべきだ」とされていることに対しての胡散臭さだったんだexclamation×2

それに対しての「有り得ねぇ〜爆弾だったんだひらめき

なんとなくウスラボンヤリだった自分自身の正体を突きつけてくれたmotoさんに、
ムチャクチャ感謝しているかわいい
あ〜、スッキリしたるんるん


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2005年11月25日

満を辞して?コミュニケーション再び

ずぅぅぅっと以前、コミュニケーションについて、araiken師匠と意見が割れた。
というか、結局言いたい事は同じようにも思えるのだが、見ていたコミュニケーションが違っていたんじゃなかろうか、なんて私は勝手に思っている。
それがken師匠との出会いでもあった訳なんだけど、以来、師匠と勝手に呼ばせて頂いているけれど、kenさまにとってはご迷惑なのかもしれない。
だって、私とっても的外れぇぇぇぇドコモポイントな気がするんだ。。。
私自身は「そーそーそーなのよぉ」って思うんだけど、どうもken師匠の真意とは微妙にズレているようにも思う。
ナゼだか、ドコガだか、よく解らないんだけど・・・
そう、まるで出会いの頃の「コミュニケーション談義」の時のように・・・
それでも頷くことが多くて、ナゼなの?ドコなの?を見つけたくて、いろいろな意味を込めてやっぱり師匠と呼ばせて頂こう、と勝手に決めている揺れるハート

ken師匠が『バタイユ的視点で』とおっしゃっている「コミュニケーション」とは、要するに「人を操作する時に用いられるコミュニケーション術」のようなものを指しているんじゃなかろうか?
で、私が指している「コミュニケーション」というのは、まったく初歩的な、何の裏も表もなく他者とのコンタクトに用いるコミュニケーションを指しているんじゃなかろうか?
つまるところ、見ているコミュニケーションのレベルが全く違うんじゃなかろうか、なんて思う。

人と接するために用いられるコミュニケーション。
人とぶつかり合うために用いられるコミュニケーション。
人をぶっ飛ばすために用いられるコミュニケーション。
人がそうとも思わせないで移動させてしまうように用いられるコミュニケーション。

ken師匠が言うところ(バタイユが言うところの???つーか、バタイユって誰?)
「コミュニケーションを突き詰めると、生存は脅かされる」
というのは、レベルアップされたコミュニケーションは生存を脅かされる、というような意味になるんじゃなかろうか?
私が放送大学で学んだ「コミュニケーションは生存に不可欠」というのは、こんなにレベルアップされたものを指しているのではなくて、ただ熱くて飲めないものを「これは熱くて飲めません」と人に意思表示をするような、そんなレベルでのコミュニケーションを指しているんだろうって思う。
「不味くて飲めねぇよ、でもそんなこと言えないし・・・」で「熱くて・・・」と言う。
こういうのをコミュニケーションスキル、なんて言うんじゃかろうか?

「コミュニケーションを突き詰めると、生存は脅かされる」
ここで下線を引くべきなのは、「突き詰めると」ではないんだろうか?
なんて思うんだけど。。。
今更?なんだけど・・・
ken師匠、どんなもんでっしゃろか?


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2005年11月19日

Love is blind

前々エントリでは「愛」というお題で、ブログ世界のご近所さま方をまたまた混乱させてしまったようで、大変申し訳無く思います。
ごめんなさい・・・
ここで、きちんと補足をさせて頂く事にいたします。

あの記事だけを読むと・・・
「愛」という御旗・大義名分の元に、ナンデモアリOKヨ、と言っているのだと思われても仕方がないのだろうと思います。
ですが、そーじゃないのよ、そーじゃ・・・



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2005年11月14日

家族を愛してナニが悪い!

昨日、お気に入りリンクに入っていただいた「yyymotot」さんのブログをザザっと読んだ。
睡眠時間の関係上、初期の頃のものをザザっと読んだ。
おもしろいなぁ。。。。。。

motoさんのおばあちゃん、サイコー。
私もイタ電には合いの手を差し伸べましょうかね。

(何のコッチャ?と思った方は、「左の耳掻き」へ急げ!)

で、一瞬ウルっとしちゃった記事があった。
最後の2行を抜粋

>修行する子供と祈る祖母。
>でもって母はといえば、なんだかありがたくてつい泣いてしまった。


どの記事かと思った方はmotoさんのブログで探して欲しい。




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2005年11月05日

しつこい&強引な勧誘お断り

にも書いた気がするんだけど・・・
世の中には様々な占いが存在するが、私が属する、例えば○○星人みたいな属性によく書かれているのが「八方美人」だったり「博愛主義者」だったりする。
若い頃は思ったもんだ。
「んなことあるわきゃねージャン。」
って。。。

キライな奴はキライ以外の何者でもなくて、好きな人や尊敬する人はそれ以外の何者でもなくて、「お宅のおねえちゃんってなんだか何でも知ってるみたいでコワイのよねぇ」とご近所のおばちゃん達に母は言われるくらい、その人に対する評価をそのまま態度に出していた。
らしい・・・本人は目一杯お愛想振り撒いてたつもりだったんだけど;・・。
そのせいかどうか知らないけど、母にはよく言われた。
「100%悪い人もいなければ、100%良い人もいない。
 あんたはどうして人を好きか嫌いか、良いか悪いかにしか分けないのだ。」
って。
だって、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、って言うじゃんねぇ。
ヤな奴はどうやってもヤなんだってば・・・




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2005年10月29日

オンリーワン・・・再び?三度?

ここ2・3日、てりい智子さんから長文のコメント沢山頂戴している。
自分が書くことに対してご意見・ご感想を頂けることはそれが反論であっても嬉しい反面、時間・体力ともに絶対的に足りない月末の週末の風邪っぴきともなると、少々辛いというのがホンネ。。。
実は明日も8時には学校に行っていないとならない。
とは言え、誠実に・・・とまではいかないだろうけど、お答えするのがスジってぇものだろうなんて思うので、決して寄り添ったお返事ではないにしろ(つーより、激反抗的だけど)お返事コメントを書かせてもらっている。

そんな最中にあって、今日、本当にしみじみ思ったことは
「私って岩石岩子兜鉄子か、ってくらいに強い人間だと思われているんだなぁ」
ってこと。



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2005年10月02日

強固な信念は欲求を変える?

「行動までのメカニズム」では、自分の勉強した範疇のみで、そのタイトル通り「行動までのメカニズム」を考えてみた。
実のところ、こんなことは人間をン十年もやっているとなんとなく感じているだろうことでもある。
頭では判っているけれど心がついていかない、なんてことがあることは知っているし、経験もする。
こんな時の「頭」というのが「信念」で、「心」というのが「欲求」なのかもしれない、なんて思う。

ン十年モノの人間としてもう一つ思うことは、「果たして人間は自分の欲求を正しく認識しているものだろうか?」ということだ。
ということで、チョイと考えてみよっかな。

先日ホームセンターに行った時のこと。
入り口にある自販機で缶コーヒーを買った。
500円玉を入れて、ポチっと押すと100円の缶コーヒーが出てきた。
(ここの自販機は100円なのだ♪)
おつり口に手を入れると、???なんか多い。
100円玉を数えてみると、なんと700円もあるじゃないか。
300円儲かったことになる。
さて、私はどうしただろうか?
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2005年09月20日

行動までのメカニズム

直前のエントリでは、少年野球に絡めて「動機」と「動機付け」なんてことを書いてみた。
それらが人間のすべての行為の原動力であるのだろう。
まだまだ勉強し始めの分際ではあるが、浅い知識から「どうしたら行動に移せるか」を考えてみようと思ってみたりする。

先日想定外に良い成績で単位を取ることができた放送大学の「学習科学」では、第2回目の講義で『「心の理論」の発達』を勉強する。
放送大学で私は「教育と発達」コースを専攻しているが、今まで3つの科目を選択している。
その3つ「心理学初歩」「生涯発達心理学」「学習科学」のいずれにも、この『心の理論』について触れている。
心理学って言うのだから、そりゃ「心の理論」抜きでは語れないんだろう。

『心の理論』については何度かエントリの中で書いているが、簡単に書くとこんなカンジ。
外界の出来事⇒認知⇒信念+欲求⇒行為

(放送大学のテキストでは、「認知」ではなく「知覚」として図解されているが、私はあえて知覚以外の感覚も含めて「認知」と表記してみた。認知ともチョット違う気もするけど、適当な言葉が思い浮かばないので悪しからず。)



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2005年08月30日

切り刻まれた仕事・誇りの持てない仕事

先週のこと、地元であったらしい講演会を地元CATVでやっていた。
「キャリア教育の構築」というようなお題で、どこかの大学の先生が自分でも「興奮してまして…」なんて言いながら熱く語っていた。
私はと言えば、洗濯物を畳みながらTVをチラ見しながら聴いていた。
「そこまで手取り足取り人間を思い通りに操作したいんですか?」なんて思いながら・・・



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2005年08月23日

ミクロ闘争 −おまけ−

新しいカテゴリを作りました。
「いろいろ考える」 です。
前2つの「ミクロ闘争」を、日記カテからこちらへ移動しました。
「日記」というにはあまりにも考えることが多いですのでネ。


直前2つの「ミクロ闘争」は、「祭りの戦士 araikenさま」「(元)登校拒否系 toledさま」にトラックバックさせて頂きました。
祭りの戦士
では、その次のエントリで更に掘り下げて書いて下さっています。
(元)登校拒否系では、率直に私の疑問を投げかけてみました。まだご解答は頂いていないようですが、そのうち頂けたら嬉しいな、なんて思っています。

私にとって興味深いのは、お二人が同じ「マルクス」というキーワードを持っていながら、お一人はミクロとの闘争を書き、もうお一人はマクロにより近いシステムとの闘争を書いていらっしゃる、ということでしょうか。
お二人共に、サヨク、なのでしょうか?

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2005年08月21日

ミクロ闘争 −A−

ブロンフェンブレナーの原理によるところのリューベン・ヒルが描いたという図を参照すると
(この図は入れ子状に書けなかったものの、過去のエントリ「生涯発達心理学まとめ5」に書いてあるので、興味のある方はご覧くだされ。)
例えば「子どもの遊びのための全国組織」や「教育機関」や「宗教団体」「国家政治組織」などは外部システム(社会構造)とあり、その内側が「学校」を含む中間システム(マイクロ=マクロシステム間の結びつき)とある。
この図ではマイクロ=マクロシステム(直接の相互作用関係)とは「家族関係」「親子関係」「同輩・仲間」などとあるけれど、私はあえて「自分の内側」もそこに含ませた。
「学校」というマクロシステムより一回り大きなシステムと闘争するための体力をつけるために親子関係や家族関係や自分と闘争する、ということとして考えてみた。
つまり自分も含めた身近な人間の意識を変える、ということ。
「不登校の解決は自分にある」ということ。

全国組織や国家政治組織の力をして制度的・構造的な変革を迫ることは、大きなシステムからの力を使って小さなシステムを変革することではないんだろうか?
そんな構図はそのまま、学校というシステムがそのシステムが持つ力を使って、より小さなシステムである家庭や個人に対して思うがままに変革を迫ることと同じことだと思う。
そしてそういった構図を拒絶したのが、不登校を選択した多くの子どもではないのだろうか?
そういう構図を「それっておかしいよ!」と言っているのが、そんな子ども達を支援している大人達ではないのだろうか?
自らが「おかしいよ!」と叫んでいることと全く同じ行動をとっていては、説得力も信頼性もなにもない。
「学校なんて行かなくてもいいのよ」「学校が社会が悪いの」と言いながら、それらの中でエリートになった人間を「成功例」と引き合いに出すのと同じくらいの矛盾を私は感じる。


そんな矛盾を、そう発している社会の中にいる人たちも確実に感じているらしい。
そう感じることが出来るのは、その社会が自分達の居場所となり余裕を与えたくれたからなのだろう。ミクロ闘争の結果とは言えないだろうか。
それだけでもそういう居場所は必要だと思う。
でも、その居場所の存在意義はそれで十分じゃないのかな?
更なるミクロ闘争を抑圧してしまうような、子離れできない親のようなその姿勢には、やはり私は疑問を感じてしまう。
そしてそんな親になれと押し付けられることにもガマンならない。

なぁ〜んて、散々書いておきながら、kenさまが別の人にあてて書いているこの一言。
『ミクロ闘争の何たるかも掴んでいないのに』
そのまま私に当てはまったら・・・
どーしよ〜〜〜!!!



追記しました(2005-08-21 12:31)

 私は不登校の解決は自分の中にあると思う。って、しつこいようだけど。
 でも、『不登校、選んだ訳じゃないんだぜ!』 の著者の一人である
 常野さんはそのブログの中で
 「そうじゃないんだぜ!」とおっしゃっている。
 そちらにもTBしつつ、コメントしつつ、「私にも新しい見地が開けるかな?」
 なんて、今後の展開が楽しみだったりする。


余談を読む
posted by チャマ at 05:06| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ミクロ闘争 −@−

今日、我が家の不登校児2号がこんなことを言われてきた。
「小学校になんて行ってなくても、中学校からウント勉強して今では学年トップになった人もいるし、短大にトップで入学した人もいるのよ。だから、中学・・・2年生の今頃からチャント学校に行って勉強すれば、全然大丈夫よ。小学校なんていいわよ、行かなくて。」

息子にそうおっしゃった方は、以前から何度か登場している東京にある某不登校支援団体?居場所作り団体?に通じていらっしゃる方で、私はこの人は嫌いじゃないし、お世話にもなっている。
彼女は本当に一生懸命、学校社会から逸脱した・しそうな子ども達を救っている。
その献身振りには頭が下がるし、そのバイタリティーにも頭が下がる。
でも、上記のようなことさえ言わなければなぁ・・・なんて思うことが正直ある。
今日のように。
だって、その言葉は「学校に行かないことを」も「学校社会」も肯定してしまっているんだもの・・・
やっていることはとっても素晴らしいことなのに、言ってることは矛盾の塊・・・
それを子ども達に伝えてしまうことがとっても残念なんだ。


そして2号がそんな今日の出来事を私に告げたのは、ナゼか「女王の教室」を見ている時だった。
数時間前に言われた言葉を思い出すナニカが、ドラマの中にあったんだろう。
このドラマについては思うことは沢山あるんだけど、実は見られなかった回が結構あって、あーだこーだ言える程見てないんじゃないだろうか、なんて思っている。
一つ言えることは、私はこのドラマに関しては今のところ肯定派です。
で、今日、
「デモとかストとかは、『ゼッタイ勝つぞ〜』なんて言うだけの自己満足で終わってしまう。そんなことして私から逃げないで、正面切ってかかって来い!」
なんてことを真矢は子ども達に言った。
そして紆余曲折の末、子ども達は「逃げないで戦う」ことを、自分達から選んだ。
というか、真矢がそういうレールを敷いていることに気付かずにその上を走った、というのが妥当なんだろうけどね。
ドラマはさて置き、真矢が言った「デモとかストとか・・・」の下りはその通りだと思う。
それは今の政党政治にも言える。勝手にやってろ!
数さえ集めて団結すればナニカが変わる、ってもんでもなかろうに・・・

いや、変わるかもしれない。
社会も法律も常識も、多数決の世の中だから、変わるかもしれない。。。変わるだろう。
でもそんな上っ面の変化・変革・改革なんて、所詮先が見えている。

そんなことを祭りの戦士kenさまが言っているんじゃないだろうか、なんて、結構がんばって解読した最新のエントリー『思考停止ではなくて』と直前のエントリ『スキゾ・キッズ』を読んで思った。

私にとって「祭りの戦士」はとぉ〜〜〜っても難しいことばかり書いてあるので、正直全部解読できたぁ!とは思えないけれど、彼が言うところの「逸脱」とか「祭り」というのは、私が2号に望む「不登校の解決」に通じているように思った。
腕力で学校や社会を変えるんじゃダメなんだ。その中に居る人間の意識を変えなければ。
確かに制度という腕力をもってすれば見た目には変わったように見えるかもしれないけど、多少住みやすくはなるだろうけど、根本的には何も変わっていない。
同じような過ちを何度繰り返せば判る?
そんな竹を雪の重みで撓らせるような所業が、いつまでも継続できる筈がないと思う。いつもそうやって失敗してきたじゃないのさ。
祭りっていうのは「踊りゃなソンソン」って訳で、自分が踊って神輿を担ぐんでしょ?
学校や社会を変えたいと思うなら、そこから逃げずにいられる体力を蓄えて=自分を変えて、ヘンテコリンな社会に乗り込み、その逸脱した姿のままにその社会に居座るべきだと思う。
正面切って向かって行け!ってことなんだと思う。
そんなことしても何も変わらないだろうか?
そんなことではすでに手遅れなんだろうか?
そんなことを言っている間は、ナニをやっても手遅れにしか思えないんだろう。
子どもはそんな大人の考えをどう思うだろうか?
そんな大人を見てどう思うだろうか?
子どもはとりあえずやってみることで、いろいろなことを学んで行くんだよ。

自分を変える、ということは、学校社会において「良い子」でいることを肯定することじゃない。
まさにkenさまが書いているところの
『でもそれは政治の欠如でも、思考停止でも、現状肯定でもなくて、そういうビジョンを出すことの困難さってことを言いたいのだと思う。』
であり、
『ただ、それはボンヤリと待ってるんじゃなくて、徹底したミクロな闘争によって裏打ちされていなければならないってことだが……。少なくとも僕はそのようにイメージしている。』
ということになるように思う。
結局それが最終的に何をビジョンしているのかは判らないけれど、学校に居座れない自分との闘争(ミクロ闘争)を経て学校というヘンテコリンな社会に「異端者」「逸脱者」として居座ることで、現状を「当たり前」と考えている(または何の疑問も持っていない)学校社会の住人に一石投じることになるかもしれない=中間システム(ブロンフェンブレナーが言うところの)との闘争に繋がる。
何がどう、どれくらい変わるか判らないけど、何かは変わるんじゃないのかな。



ミクロ闘争−A−に続く

余談を読む
posted by チャマ at 02:22| Comment(2) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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