kiwi-arohaさんからのトラバから、今度は評価について考えてみようと思う。
教師の格付け制度の提案だった。
やりすぎ?とか違和感とかあるけれども、大学では、
既にやっていることではないか。
私の大学では期末に学生が「授業評価アンケート」を書き、
不評が多かった先生は講義からはずされたりするという。実は教師への評価というのはその方法に違いはあれど、既にアチコチの公立学校でも行なわれていて、ウチの息子が通う小学校でも行なわれている。
放送大学でさえ、「講義評価」を行なっているのだ。
今や教育現場と呼ばれる場所は、「評価流行」とさえ言えそうな気配だ。
私個人としてはこの「評価」というものは実に怪しい、と思っている。
授業が遅れまくり、いじめが横行し、給食の食べ歩きを黙認しているような野放し教師をクラスの大半の保護者が「いい先生よねぇ〜」と評価していたという現実の中に身を置いた経験がある者とすれば、普段使いの学校を知らない保護者の評価程信頼のおけない怪しいものはない。
大体が、「良い」「悪い」という評価の基準は何だ?
人に対する評価などと言うものは、人によって違うものじゃないか。
最終的な判断を下す校長によっても、「良い教師」「悪い教師」という基準は人によって違う。
いったい何をもって教育の良し悪しを、授業の良し悪しを、教師の良し悪しを、学校の良し悪しを決めるというのだろうか?
評価する人間の「感覚」のみをその基準とした評価など、正当な評価と呼べるのだろうか?
考えられる評価基準はと言えば、TVで言っていたような人気投票でしか有り得ないか、クラスのテストの点数とか、進学率とか、「どこからも文句が出ない」ということ、なんていうようなことなんだろう。
人気を得たいと思ったら、生徒・保護者のそれぞれに口当たりの良いアメダマをしゃぶらせれば良いのだ。
「子どものため」なんてことは何も考えず、何もせず、言われたことを言われた通りにこなしていれば、どこからも文句など出ないのだ。
私が学生の頃は、クラスのテストの点数や偏差値の高い学校に何人進学したかなんてことが教師の間では競争されていて、それが当たり前だった。
だからこそ、私が担任の提示した高校よりも偏差値の低い高校を選択したために、母は以後担任から「口さえ聞いてもらえなかった」のだし、自分で思っているよりも成績が悪くなかったらしい私が大学に進学しなかったことを、「オマエには裏切られた」と担任が酔っ払って電話しきたのだ。
「私」というポイントが加算されなかったことを、当時の彼らは怒っていたのだ。
ふざけんな、私の人生は私のものだ。好きにさせてもうらうさ!
そしてこんな「ポイント制」を「悪しきこと」として葬った結果が今、ではないのか?
教師のレベル低下は、学校の機能低下は、決して評価などというものでは改善されない。
改善どころか、更に悪い方向に向かうんじゃないだろうか。
評価する側にいかに上手く取り入れるか、なんてことが、評価を決めるようになるんじゃなかろうか?
なんて思う。
学校や教育者や学校管理者が物分りの良いインテリを気取っている限り、何も良い方向になんて向かわないんだろう。
その物分りの良さの典型例が、「評価」だと私は思う。
チョット話は変わるけど、未だに釈然としないのが「台形の面積」
1号が「ゆとり教育」によって削除されてしまった「台形の面積」を教わらずに進級した翌年、「台形の面積」が復活した。
1号達はすでに進級してしまっているから、教科書には載っていない。
どーすんだよ?台形の面積・・・
1年遅れで教科書には載っていない「台形の面積」の授業が行なわれたような、結局放置されたような・・・どーしたんだっけなぁ・・・?
ま、息子が困ったら教えてやればいいんだけどね。
台形の面積の出し方くらい親が教えられるし、他愛の無いことかもしれないが、こんなことの積み重ねが「教育不信」を招くんだよね。
こんな文科省の不手際さえ、フォローするか否かで教員の評価が変わるってことにはならないだろうか?
そんなのたまったもんじゃないゾ。
だから、格付けとかして「下を切る」よりも、洗練された教育ができるような
教員の教育に力を注ぐべきではないだろうか。私も同感だ。
本来、そうあるべきなのだ。
ところが「教育格差」でも書いたように、公立学校は「平等」の旗印の下、良くも悪くも教師のスタンドプレイには極めて厳しい目が光っている。
それは「規則」としての目と同時に、身を粉にして子ども達への教育を研究する教師に対する周囲の教師の「足を引っ張ろう」とする目でもある。
ウチの小学校では、卒業式の後に行なわれる謝恩会に担任の姿は無い。
「学校で残務整理がある」というのが表向きの理由だが、実のところは謝恩会に呼ばれる教師と呼ばれない教師がいては都合が悪い、というのが本当の理由だ。
何の都合が悪いかって、呼ばれなかった先生が凹むから。
「謝恩会にも呼ばれなかった先生」というレッテルは、次に受持つクラスの保護者にとって決して良いイメージを植え付けないから。
感謝される教師も、感謝されない教師も、みんな揃って呼ばれないようなシステムを作ってしまえば、感謝されない教師には不都合が生じないって訳だ。
そして一時が万事、この調子って訳だ。
「あんたみたいに独身ならいいわよぉ〜。身軽でしょうからね。
私なんて同じことをしたくても出来ないのよ!
あまり出過ぎたことをしないで頂戴ね。」
なんてことなんだろうか。
そして学校を管理する側も、「当たり外れ」なんて言われると困るから
「程ほどにね、周りの教師に合わせてね」
なんて言うんだろうか。
いずれにしても、突っ走ろうとする教師は、どこそこ足を引っ張られるのだそうだ。
若い教師が多い学校では、お母さん教師は悲鳴を上げる。
お母さん教師が多い学校では、若い教師は骨抜きにされる。
その両者を「対等」とすることに無理がある。
もし、kiwi-arohaさんが書かれたようなことを公立学校でやろうとしたら、確実にそこからこぼれ落ちる教師が公立には存在するんだろう。
でも公務員である彼らは、余程の問題を起さない限り辞めさせることはできない。
不登校児の数を見せかけだけ減少させることさえ出来てしまう彼等だから、役に立たない教師をそうと見せないくらいのことはなんとも思わないのだろう。
果たして正当かどうかも判らない「評価」なんかで、低下した意識を向上させられるのだろうか。
その「評価」を元に、逆に出る杭が打たれることのないように祈りたい。
kiwi-arohaさんが言うような、洗練された教育ができる教員を教育する、という体質は、今の横並び体質の公立学校ではどうしたら出来るようになるんだろうか・・・
元凶はこの横並び体質だと私は思うのだけれどねぇ。