2005年06月21日

自由と平等

結構前から、araikenさんのブログでは内田樹さんを巡っての議論がなされている。
内田氏については私はなんの知識も無いし著書すらも読んだことが無いので、kenさまに誘われるままに内田センセーのブログを訪れてみたのだけれど・・・『サラリーマンの研究』と題された記事を読んだ時点で、私とは全く違う世界に生きていらっしゃる方なのだろうと思ってしまった。
「労働から得られるモノは対価としての賃金だけじゃないのになぁ・・・」なんて思った。
ナント言うか、このセンセーも教え子のOLさんも、「不当に安い賃金でよくあれだけ働くよなぁ」なんて思う時点で、「学び」から降りてるんだろう。
それに不当に安いって、本当にそうかなぁ?
こんなに下層階級が裕福な国なんて、世界中見回したって無いんじゃないかなぁ。
人間の欲求とか欲望とかって青天井というか底なしというか、そんなモンじゃないのかなぁ?
賢いサラリーマンは企業に搾取される以上に、金品以外のモノを企業から搾取してると思うんだけど・・・それを世間では学びとは言わないだろうか?
センセーは
労働=対価としての賃金を得ること、それだけでしか見ていないんだなぁ。
学び=学校でしか出来ないもの、としか思っていないんだろうなぁ。

なんて思ってしまった。

同じようなことは「階層化」なんて言葉にも思う。
階層化なんて、今更ナニを言っているのだろう?
昔も今も、私達がどうひっくり返っても足元にも及ばない上流階層は確実に存在していて、そんな世界をのぞき見ることすら無いじゃないのさ。見えないから存在してないんだろうなんて妄想よ、妄想。
財閥は今も存在しているし、巨万の富を持っていらっしゃるのよ。階層なんて周りが下層階級だらけだから気付かないだけでスッカリさっぱりずっとあるのよ。
今進行しているとしたら、それは下層階級内での更なる階層化ってことなんだろう。

階層化については『不登校、選んだわけじゃないんだぜ!』の著者の一人である常野さんのブログでも「階層化された社会を自然なものとして受け入れるという考えの人とは対話すること自体が不可能だ」というようなことをおっしゃっている。
私は常野さんの著書にヒドク共鳴したのだけれど、そんな私は階層化された社会を自然なものと思っている人間なので、彼と対話すること自体が不可能ということになる。
悲しいなぁ・・・
でもね、そこでチョット伺いたいんだ。
人種差別や階層化を無くすことができるのでしょうか?って。
これはaraikenさんの議論の中でも書かれている、「競争」なんていうことにも同じことが言えると思う。というよりも、競争があるから階層化も成されるんだろう。
人間に向上心がある限り、モノを識別する本能(というか、生得的な機能かな?)がある限り、人間が動物である限り、競争も階層化も人種差別もなくならないんじゃなかろうか。

でも、だから差別しても優劣をつけても良いのだ、と言っている訳ではないんですよ。
競争や階層化や差別なんていうものは、所詮人間が動物だっていう証拠なんじゃないのだろうか、それこそ自然の流れなんじゃないだろうか、ということ。
それを踏まえて、だけどより人間らしい生活にするために、理性とか理性的な概念とか知性とか、そういうモノを駆使しているのだろう、ということ。
ところがやっぱり人間というのは弱い生き物だから、差別されている人たちがその中で更に差別行動をしているのが実体な訳で、果たして「差別をなくそう」「みんな平等に」なんてことが可能なんだろうか・・・なんて思ってしまう。
そんな不自然なことが、成しえるのだろうか、って思う。
多少なりとも自由である以上、差別の無い社会も全ての人間が平等な社会も有り得ないと思う。

私は自由と平等はそれぞれ天秤の両極に置かれているモノだと思っているので、人間同士を完全に平等にしたいなら完全に自由を奪わないとならないんじゃないだろうか、なんて考えてしまう。
それよりも、人間は自由なのだから、もっと心を自由にした方が良いんじゃないんだろうかって思う。
ウチは貧乏でも、一年365日のうち360日働いているお金持ちよりも楽しい人生を、シアワセな人生を送っているよ。週末に家族皆でドロドロになってやる野球やテニスはメチャクチャ楽しいよ。
子ども達が赤ちゃんの頃、お父さんはいばっていて「クソおやじ」だったけど、子ども達が泣くと全然役立たずで、この時ばかりは「お母さんが一番エライ」存在だったよ。
そこに階層化は確実にあるけれど、優劣なんて自分次第なんじゃないだろうか。
シアワセな人生って、自分が幸せだなぁって思えればOKでしょ?
平等かどうかなんてことからして、人と比べないと判らないものなんだと思うんだけどな・・・
比べるなら自分の中にあるモノと比べれば良いんじゃないだろうか?
競争するなら人とじゃなくて自分と、なんだと思うんだ。

私はkenさまの『「居直り」という問題 その1』に書かれていた一節に全く以って同感。

 「価値観は多様なんだから「なんでもあり」なんだ、ってことは身勝手な判断をできるっていうことではなくて、反対に自分以外の多様な価値のあり方を認めるってことだ。自分は正しいはずだと開き直るのではなくて、間口を広げて可能なかぎり自分と異質な価値を受け入れようとすることだと思うのだ。つまりそれは異質さを認めたまま他者と共存することを目指すものであって、自分に都合のいい価値観の上にふんぞり返るような安易な状態だとは思えない。多様な価値のあり方(他者)を認めるということは、自分自身を絶対視しないということでもあるはずだからだ。」

そしてこれが平等ってことなんじゃなかろうか?なんて思うんだけど、果たしてどうなんでしょう?
更にそして、これは不登校と学校の双方に欠けているモノでもあるように思うんだけど、果たしてどうなんでしょう?
posted by チャマ at 16:08| Comment(4) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月11日

リセット

なんとなく、『おっ?!』って思ったことを書くカテゴリを追加しました。
どうでも良いようなことバッカなんだけど、覚書って感じです。
記念すべきエントリ第一号は、「気持ちを切り替える」というお題。

我が家に「禁煙セラピー」なる本がある。(KKロングセラーズ ムックセレクト)
カレン・カーという、元チェーンスモーカーの会計士にして現禁煙セラピストの第一人者(らしい)が書いた本で、結構「禁煙」関連の本では有名らしい。こんなのもあった⇒http://www.allen-carr.jp/index.html
いつもお世話になっている歯医者の待合室で偶然手にして、おもしろかったから歯医者のセンセーに「貸してぇ〜」ってお願いしたら「あげるよ」と言われて貰ってしまった本。
まだ最後まで読んではないけれど、今のところ「満ヘェ〜」で、なんかおもしろい。

本の65ページ。『ストレスを和らげるという幻想』という章がある。
「たばこは心の日曜日」なんてのは幻想なんだよ、というお話。
日常生活の中では大小関係なく様々なストレスと遭遇するし、自覚のないストレスってのもある。
たばこを吸っている人は「たばこを吸いたい」という欲求を持つ分だけ、たばこを吸ってない人に比べてストレスが多いんだって。ナニカの理由からストレスを感じている時に「たばこを吸ってリラックスした」とか「ストレスが軽減された」って思うのは、ただ単に「たばこを吸いたい」という欲求を満たしたからに過ぎなくて、つまりたばこに対するストレスが軽減されただけで、本質的なストレスの解消なり軽減にはなっていない。
ストレス解消をたばこという代替品でやっていてるに過ぎないってことらしい。
だから一服した後またまた本質的なストレスの素を直視した時には何の解決にもなってないからまたストレスを感じて、またたばこに火をつけて・・・ということになっていくんだろう。これがチェーンスモーカーへの第一歩ってことか?
「へぇ〜!」「ほぉ〜!」なんて思って、いつもの如くなんかスゴイ発見でもしたような気分になった。

で、早速これをウチのおとーさんに言ってみた。「だからたばこなんて吸っても何の解決にもならないんだとさ。」って。
すると彼は。。。
「それでいいんじゃねぇの。どっちにしても楽になんだろ?それに、幻想でもなんでも気持ちが軽くなればイイ考えだって浮かぶんじゃねぇの?だったらそれでいいじゃん。」
おお!これまた大発見したような気分だった。おとーさん、スゲェ〜!
たばこは止められないだろうけど・・・
嫌煙家の皆様には大ヒンシュクの回答だろうけど、こういう考え方もアリだと思う。
身体には悪いけど・・・
日常の中で、こういう代替品を使ってのストレス解消ってよくやっている。
気分転換っていうのは、そういうことなんだろう。音楽鑑賞とか散歩とかっていうのは健康的な代替品で、たばこっていうのは身体に有害な代替品ってことなんだろう。

昨日、ロッテの清水選手が完全試合を逃したそうだ。http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/headlines/20050611-00000015-spnavi_ot-spo.html
時折こういうニュースはよく聞くけど、痛恨の一球のその後、ボロボロになってしまう投手もいれば清水選手のようにきっちりと抑える投手もいる。
完全試合じゃなくても、プロ・アマに限らず、野球に限らず、たった一回のミスプレーでボロボロになってしまう選手もいれば、何事もなかったようにプレーし続けられる選手もいる。
水が低いところに流れ込んでくるのと同じように、凹んだ気持ちのところにはなぜか「これでもか」というほどソレは集まってくるような気がする。凹んだままの気持ちだと、またまたエラーをしやすい。また凹む。また来る。またエラーする・・・最悪スパイラルに突入だぁ!以前ソフトボールの試合でこんな最悪な経験をしたことのある身としては、実質的な練習よりも、気持ちを切り替える練習の方が大切だぁ、なんて思える。

そんな時の気持ちを切り替えるっていうのは、どんなことだろう?って考えてみると、決して代替品で気分転換をすることじゃないんじゃないかって思う。
気分転換というよりも、「なかったことにしちゃおう!」ってこと、リセットじゃないだろうか。抑圧ってことになるのかもしれない。忘れちゃえ!ってことなんじゃないだろうか。
でも、プロ選手はリセットしっ放し、抑圧しっ放し、なかったことにしっ放しじゃぁないはず。
試合が終わったら、痛恨の一球とか痛恨のエラーとかを再び引っ張り出してきて、反省やら練習やら、次に備えることをしているんだろう。
新庄選手なんて、ああ見えて(^^;)ムチャクチャ練習する人らしい。
それはたまぁ〜にTVで見られる彼の肉体美が物語っているんじゃないだろうか。
っと、これは脱線・・・

抑圧とか、リセットとかという言葉には、なんとなく負のイメージがある。
「今時の若者はゲームのごとく人生やらナニやらもリセットしたがる」なんて少し前にはよく言われていた。無責任を象徴するような行為、みたいな言われ方をされていた。
でも、抑圧にしろリセットにしろ、そうした方が良い時がある。そうすることで次に繋がって行く時がある。
そしてそれは、頃合を見計らって反省なり検証なりして同じミスを繰り返さないようになんらかの策を講じることが前提なんだと思う。
リセットってのは電源OFFとは違うのだからね。


気分転換という切り替え方、リセットという切り替え方。
気持ちを切り替えるのにも、こんな風に使い分けることが必要なんだと思った。
でもどちらにも言えることは、いつかは大元にあるソレと向き合わなくちゃならないってこと。
そういう覚悟をしてこそ、気持ちも切り替わるのかもしれないなぁ。。。
さぁて明日も子ども達は試合だぁ〜!
こんな『おっ?!』をどうやって子ども達に伝えて行けばいいんだろう?
難しい〜〜〜〜!!!

ってことで?
書くだけ書いて気持ちも切り替わったことだし、明日に備えて仕事しよ・・・
posted by チャマ at 15:04| Comment(0) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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