2006年05月14日

超バカの壁のトラバ

超バカの壁にパパぱふぅさんからトラバを頂いた。
どうやらリンクがおかしいようで、元から修正しようと思ったけど元のURLはおかしくないので修正しようがない。
という訳で、とりあえず「超バカの壁」のコメント欄にURLを張り付いておいたので、興味のある方はそこから飛んで頂きたい。
ちなみにココである↓
http://plaza.rakuten.co.jp/pahoo/diary/200605030000/

いやはや申し訳無いっす。。。

Seesaaa調子悪いっすよ。
トラバ&コメントがあったらメールでお知らせしてくれるサービスがあるんだけど、ちょっと前のメンテ以前ではメールされてたのに、今は全然お知らせしてくれないのさ。
でも設定は「メールでお知らせする」になってるのさ。
どーなってるのさちっ(怒った顔)

えっと、Seesaaはまぁいいとして・・・

本題はパパぱふぅさんの記事に対する秘技トラバ返しをしようと思ったってことだ。

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2006年04月30日

脳内現象 by茂木健一郎

あれは小学生の頃だったかな。
生まれて初めて「色盲検査」というのをやった。
そしてその時初めて「赤緑色盲」というものを知った。
そして思った。
「んなこと言ったって、私が青って思ってる空は誰かさんにとっては赤かもしれないじゃん。そんなこと誰にも判らないじゃん。」

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2006年04月29日

しろさんのブログがぁぁぁ

先週4/22のエントリを書き終えた後、今日までパソコンの電源を入れなかったぐーたらブロガーです。
当然のことながら、新エントリなんてありませんわよ。
それでもアクセス数はガックリと減ることが無いのが不思議と言うべきか、もともと人気が無いってこんなもん?って思うべきか、ま、あまり大きなアクセス数の変動が無い当ブログです。
ブックマークからいらして下さる方が多いようですが、大抵は
不登校関係か
レース関係か
心理学関係か
リリー様関係か・・・
そんなあたりの検索結果からいらして下さる「通りすがり」さんが多いようです。

ところが、今週に限ってはなぜか更新していない平日のアクセスがいつもより多かったんですよね。
ネタ的にはそれほど力入れましたってモンでもなかったんで不思議に思ったんですが・・・
どんな検索結果からここにいらしたのかが判るツールを開いてみて、気になるキーワードを見つけました。
sirosanとか
しろのブログとか
ぼちぼちとか

どーやらココのお気に入りにも入れている、しろ先生のブログを検索されているようなんですね。
で、一緒に「炎上」なんていうキーワードもありました。

イヤなカンジがしたので、しろ先生のブログに行ってみようとしたんですが・・・

すでに閉鎖された後だったようです。

私も同様の検索をしたところ、どうやら卒業式の日の丸のことがきっかけで炎上していたらしいですね。
ブログが閉鎖になってしまったのでどんなやりとりがあったのか、なぜそんなことになってしまったのか、今となっては詳しいことは判りませんが非常に残念です。もうやだ〜(悲しい顔)たらーっ(汗)バッド(下向き矢印)

しろ先生はメゲルことなく教壇に立っていらっしゃるでしょうか・・・
おさむくんはその後どうしているのでしょうか・・・

ブログが閉鎖されてしまったので「お気に入り」からしろ先生のブログは削除してしまいますが、気が向いたらコメントでも頂けると嬉しいですぞ。
しろ先生。
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2006年04月22日

超気持ちい〜が強さの秘訣だったのね〜

先日、ナンちゃんの番組に、金メダリストの北島康介選手が出てました。
お隣りにはこれまた金メダリストの荒川静香選手が座っていました。

「いつ集中するのか」との質問に
北島選手は「選手控え席」
荒川選手は「リンクの中央で最初のポーズをしたとき」

これに対してナンちゃんが
「遅くないですかexclamation&question

北島選手
「ずっと集中してたら疲れちゃいますから」

本番直前の一瞬で集中できる・・・さすがは金メダリストだなぁ・・・
なんて思いながら見ていた。

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2006年04月03日

チャリンコ少年野球団

それは先々週の土曜日のこと。
少年野球の練習から帰ってくるなり、ウチの不登校次男2号は忙しそうに着替えながら言った。
「おかーさん、午後はSクンと○×高校の練習見に行くからexclamation

○×高校の野球部専用グランウンドはウチから車で3〜5分くらいのところにある。
近いっちゃぁ〜近い。
が、歩けば結構距離ありまっせ〜。
どーやって行くのかと尋ねると、チャリで行くのだと言う。

ほ〜、そりゃ珍しいこともあるもんだYと思いつつ、慌ててお昼ごはんにお湯を注いだ…
ちなみに、こーゆー食品は「ごはん」とは呼ばず「スナック」と呼ぶのだそうだ。
土曜日の昼くらい、スナックだっていーじゃんねぇ。
なんつって自分の手抜きを棚に挙げる母を尻目に、彼らはチャリで出かけて行った。
なぜかグローブを持って・・・

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2006年03月12日

Reflections

何故か今日、お掃除をしながらレコードを聞こうと思った。
CDじゃなくて、レコード。
そして何故か、寺尾聡の「Reflections」を選んだ。眼鏡
何故だかわからないけど、そんな気分だったんだろう。
いや、そんな気分でもなかったような気もするが・・・

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2006年03月11日

謙遜と守護神

今週冒頭、私はここ数年来の大きな誤解と過ちに気付いてしまったがく〜(落胆した顔)あせあせ(飛び散る汗)どんっ(衝撃)
結構動転して、結構凹んだ。
で、そのお陰で私は少々成長した………と思っているわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

週末ブロガーの私は、先週末我が家の「守護神」について書いた。
 ⇒http://ojachan.seesaa.net/article/14115127.html
で、その守護神ご本人からメールを頂いた。
「読みました。ですが、何度も言うように私は大したことは何もしていないのです。」

そーなんだ。
いつもそーなんだ。
「私は大したことはしてないっすよ。」
「私がやったことが少しでもチャマさんご家族の役に立ったなら、それは私にとっても幸せなことなんでっせ。」
我が家の守護神はいつもそー言うんだ。(そんな言い方はしないけど・・・)
口を酸っぱくしてそー言うんだ。
で、私はその度に思うんだ。
「まぁ〜たまた謙遜しちゃってぇ〜。ご自身はそうは思っていなくても、ホント、すンごいことをしてくれたんですってば。」
と。
何度かはそうメールに書いたこともある。
「謙遜し過ぎですってば!」
と。

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2006年03月04日

リリーフランキー絶好調?

昨日、地元のTSUTAYAに行った。
私は本屋でブラブラするのが好きなんだぁ。
でも日常に追われてあんまりそんな時間が作れないのがチョイと悲しいんだぁ。
昨日もね、ブーラブーラし過ぎて、一緒に行った家族全員に
「もう帰るよぉ〜exclamationちっ(怒った顔)exclamation
と怒られてしまった。
まだ来たばかりじゃん・・・もうやだ〜(悲しい顔)たらーっ(汗)

結局何も買わなかったさ・・・

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2006年02月11日

超大人気=リリー本

かなりエログロで、中学生の息子にはどーかなぁ〜と思いつつ、言葉の端はしにすでにエログロのかなりを知っているような風が見られるので、息子にリリー本を薦めてみた。
「名言集」をチラ見して、息子は大爆笑していた。
でも大切な本を貸すことは、モノを大切にしない我が子にはせずにいた。

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2005年12月18日

案外ウッチー先生って・・・

araiken師匠が何度となくそのエントリ内で書き記されている、ウッチー先生。
私としては、ウッチー先生には今のところあまり興味も無く、以前の労働者が不当に搾取されている云々というエントリーを読んでも、「え〜、そうかなぁ〜。そればっかじゃないですぜ、世の中は」なんて思ったけど、どうも私とは無縁の…というか違う?世界を見ている方のような気がしていて、先生のブログも著書もちゃんと読んだ試しは無い。
出発は一緒なんだけど、なんかどっかで枝分かれ・・・みたいな感じがして・・・

先日、ひょんなところからウッチー先生のブログにフラフラと立ち入ってしまった。
それがココ右斜め下
『生き延びる力』http://blog.tatsuru.com/archives/001425.php

読んで頂ければ、と思う。
素直に、おもしろい。

読んでまず思ったのは、「まったくもっておっしゃる通りです。」ってこと。
ケラケラ笑うためにモード変換することへの疲労も、「強い個体」とは「礼儀正しい個体」だとおっしゃることも、実践として解るし職場で私という人間は毎日そうしている。
そして毎日疲れているたらーっ(汗)
そしてそれらが今のところは功を奏していると思っている。
ここでの物腰からは想像も出来ないとは思うけど・・・
でも、それもこれも、正真正銘、ウソ偽りのない、私という人間なのですね。
だから先生のおっしゃることは、まったくもってその通りだと思う。
それが良いか悪いかは置いておいて、その通りだって思う。

確かにその通りなんだけど、でもそれは通り一遍の、というか、ごく一部の、というか、つまりは全てに通ずるものではない、って思う。
それは以前の「労働者は搾取されている」というエントリにも共通する。
先生のおっしゃることは確かにその通りなんだけど、それが全てに適用されるかと言えば、ごくごく標準的な一部でしかないって思う。
実際に生きて行く中では、適用されないことの方が多いように思う。
人間なんてそんなに画一的なものじゃなくてもっと複雑なものだし、その人間が作り出す社会や日常はもっともっと複雑なものだし、なにをそんなに四角四面に切り取った場面ばかりを「全て」と見なして語られるのか、私には理解に苦しむ。

というよりも、先生は何も「これが全てだ、正解だ」とはおっしゃっていないのかもしれない。
「大学教授」という「人にモノを教える立場に置かれている人」という肩書きが、読む者にそう思わせているだけなのかもしれない。
なぁんだ、コレって講演会と同じジャン。
受け手が心して読めば良いのだよ。
と思ってまた読んでみた。


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2005年11月07日

柔らかい頭

先日、子ども達にパソコンを教える、という機会がありました。
ここ数年、何度かやっているんですけどねぇ・・・
小学校の1年生〜6年生の子ども達に、一度に同じことを教えるってどーよ?
年齢差が幼稚園児と中学生ってこってすよ。
無理だぁ・・・って思います。
しかも「パソコンを教えて下さい」なんて、チョーあばうとなご注文で、、、
やっぱ無理ダァ・・・
いつもMaxの20人でっせぇ・・・
私には無理無理、ゼッタイ無理。

大体パソコンなんて「道具」なんですよ「道具」
道具ってぇのは、まず使い道があってこそ必要な訳です。
字を書きたいからエンピツが必要な訳で、エンピツを持ちましたからさぁどーにかしてくれ、なんて言われてもなぁ・・・



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2005年10月26日

油断大敵???

今日はいつもよりチョビットだけ早く帰宅できるハズ・・・だった。
それなのに、あぁそれなのに、それなのにぃぃぃ!
もーどーにでもしてちょーだい。
ナゼ退社が遅れたかというと・・・ここ最近の愚痴グチエントリをお読みになってご想像下さい


でもって、予告通りに『少年野球って???』に着手しようかと思いきや、てりい智子さまから盛り沢山のコメントを頂戴しておりました。
てりいさん、いらっしゃいませ。
でもって、カニ味噌に血の汗を滴らせながらがんばってお返事しているうちに、思考低下・・・
なんとも情けないったら。

でもって、臨時トピックスということで?今週の我が家のお題を一つ。

「油断大敵」という言葉がございます。
文章の中にタダ「油断大敵」と挿入されることもございますが、標語のようにしても使われることはないでしょうか?

先週末の野球の大会でのことでした。
新人戦に出場できない6年生選手も、応援ということで2軍のチビッコのお世話役などを兼ねてグランドにユニフォーム姿でおりました。
登録選手はベンチに座っておったのですが、6年生とチビッコ達は、保護者応援席団の前に座って応援なぞをしておった訳です。
ところがコイツ等!
試合に出ないことを良いことに、ジャレルわ騒ぐわ・・・
いつもでしたら超温厚で優しくて、まるで羽毛のようなワタクシではございますが、流石にこの姿には見るに見かねるものがございました。
ツイツイ・・・
「あなた達ィ〜!いったいナニしにここに来てんのよ!」(青木さやか風)
などと、お下品なお言葉遣いをしてしまったのでございます。
すると6年生キャプテンがこうノタマイやがったのです。
「エ?応援だけどぉ〜?」
カチカチカチ〜〜ン!
「だったらちゃんと応援してちょーだい!」
すると、別の6年生が更にノタマイやがりました。
「エェ〜、もう5点差だから、大丈夫っしょ。」
ドカァ〜〜〜ン!
「ナニ言ってんのよ。
油断大敵 屁がプップって言うでしょ!!」

・・・・・
一瞬の沈黙の後、私の周囲は大爆笑の渦と化したのです。
「????????なんで?なんで?????」

のお隣りには、同じ4年生選手のおばあちゃんが座っていたのですが、泣きながら
「おもしろいこと言うネェ〜〜〜ヒィ〜」
とか言って笑っているんですね。
その向うには、そのおばあちゃんの娘さんである、同じチームのおかーさんが座っていたのですが
「なんてお下品なこと言っちゃってんのよぉ〜」
とか言って笑ってるんですね。

「ゲッ!お下品とか言われちゃったゼ」
と思いながらも
「エッェ〜、だってそうに言うでしょ?」
と聞きましたら、子ども達・保護者の皆さんが声を揃えて
「言わないよぉ〜〜〜〜」
と大合唱されるではないですか。

ウソ!言わないのか?
「じゃ、なんて言うのよぉ〜」
と言っても、誰も答えてはくれないかったとです。

帰宅後、我が家では家族会議でございました。
「ねぇ、フツーは何て言うの?」
おとーさんは
「そりゃおまえ、油断大敵・・・屁のカッパ?かな?
 さすがに屁がプップじゃねぇだろ。」
子ども達は
「そんなこと聞いたことないよぉ〜。
 油断大敵は油断大敵しか言わないよなぁ。」

でもね、でもね。
私が産まれ育った家でも、母の実家でも、油断大敵屁がプップだったんですよぉ。
今までずーっとそうだと思ってたしぃ。。。
そりゃね、さすがにうら若い頃は『屁』なんてお下品なことは申しませんでしたよ。
でもね、でもねぇぇぇぇぇ〜〜〜〜。

へぇ〜、そーですか、言わないんですかぁ。そーですか。。。。

そして今日は水曜日。
3日経った今日現在でも、「フツー」が解らないのでございます。

みなさまのお宅ではナントおっしゃってます?
油断大敵 ?・?・?
posted by チャマ at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月16日

「祭りの戦士」が「祭りの貴公子」になってるしぃ〜

我が心の師匠?araiken氏のブログが移転されました。

新居はコチラ⇒http://araiken.blog8.fc2.com/

つーか、前々から「移転しまっせぇ〜」ということは、そのブログの中でおっしゃっていらっしゃったのですが、いよいよ新居に引っ越された模様です。
とは言っても、引っ越されたのは結構前・・・らしいです。。。
お引越しと共に『祭りの戦士』から『祭りの貴公子』に生まれ変わった模様???

昨晩、早速お宅拝見にお邪魔したところ、いきなりW様の微笑みが・・・
あまりに面食らって、引っ越し祝いの祝辞も述べずに帰ってきてしまいました。
あ゛〜〜〜ビックリしたぁ・・・
別の人ンち行っちゃったかと思ったぁ・・・

ということで、あまりにビックリしちったから、ご紹介ついでに書いてみました。

ってことで、ken様お引越しおめでとうございます。
って、ナニがめでたいのか?
私にも解りませんが、社交辞令ってヤツですわぁ♪

ちなみに、私はおばちゃんですが、4様はキライです。。。
posted by チャマ at 13:05| Comment(2) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月19日

絶妙なファジーさ

その昔、「ファジー」という言葉が流行った・・・よね?
「曖昧」というような意味だったと思うけど、ファージ炊飯器とか、あったよね?
真偽(1か0か)という二者択一じゃなくて、0〜1までの数字を連続的にとる数学理論=ファジー理論をシステム制御とかコンピュータとかに応用されてるのだそうで・・・
って、今更ナニを、と思われそうだけど、私にとってはこの死語になりつつあるかもしれないファジーさというのは重要な課題なのだ。
機械がファジーになっている代わりに、人間が真偽二者択一型になっているような気がする。
自分自身、勧善懲悪的、真偽二択的に走りやすいと思う。
でも、住みやすい社会って絶妙なファジーさの上に成り立つんじゃないだろうか、なんて思う。





自分の気に入らないことがあると、その相手にツバを吐きかけたり噛み付いたり(それも全力で噛むのよ)する子どもが居る。
自分の周りに、あるいは自分の子どもの周りにそんな人間がいたら、どうするだろうか。
どう思うだろうか。
何ら悪意もなく接していたのに、突然ツバを吐き掛けられたり、膿んでしまう程噛まれた人はどうするだろうか、噛んだ方噛まれた方、双方の親はどうするだろうか。
噛まれた人は噛んだ人とのその後の接し方はどうするだろうか。
何も変わらないだろうか。

それでは、噛んだ人が発達障碍者だと告げられた時、周りの人や被害にあった人のその気持ちや行動はどんな変化を起こすだろうか。
変化なんて起こらないのだろうか。

平等を謳う人、自由を謳う人、個性を謳う人、人権を謳う人、それらを羅列して謳う人・・・
それぞれご自身の主張に基づいてどういう行動を起こすだろうか。
自分ならこうする、というコメントがあると嬉しいのだけれど、なにせアクセス数の決して多くない当ブログだから、期待はすまい・・・と思いつつ、チョット期待したりしてみたりする。

「障碍は個性だ」
「みんな違ってそれが良い」
そんな言葉を「ステキ!」とか「そうよ、そうなのよねぇ!」と感じている人たちにも同じことを伺いたい。
あなたなら、どうする?と。


このツバを吐きかけたり噛んだりする子どもは、私の甥っ子で、ダウン症で、今実際にこんな状況下にいる。

「よける」という言葉がある。
自分に危害を加えそうな人間を「よける」のだ。
今の学校では「よける」ことすら「差別」とか言われる。
でも、保育園の皆さん、ウチの甥っ子をよけて下さい。
お願いします。
障碍児の保育園に戻りたくても、戻してもらえないのです。
周りの大人達は一生懸命解決への努力をしています。
本人だって噛んでしまうことはショックなのです。でもどうにも抑制出来ないのです。そのことも本人にはショックなのです。
ですからお願いです。よけてください。
それがお互いのためなのです。


でも、これ↑は身内としての意見。
私の周りにこんな他人がいたら、私は迷わずよける。
さけるのではなくて、よける。
この微妙な違い、判ってもらえるだろうか・・・

私は自由か平等か個性か人権か、それらは完全態では連立できないものだと思う。
「障碍は個性だ」と言い放つ時、そこから生まれる問題はどうするのだろうか。
「みんな違ってそれが良い」と言い放つ時、そこから生まれる問題はどうするのだろうか。
それらの言葉には、ナニが満たされ、ナニが欠落しているのか、考えてはもらえないだろうか。
そんなマヤカシのお陰で、住み難くなっている障碍者を生み出していることに気付いて欲しい。
それは障碍者のみならず、社会のいたるところで起きているんじゃないだろうか。
多少人権を侵害してるかもしれないけど、自由を束縛するかもしれないけど、個性を尊重してないかもしれないけど、不公平かもしれないけど、お互い丸く収まるには四角四面では出来ない。
だから「丸く」収まる、んだよね。
こんな感覚が絶妙のファジーさかな、って思う。

posted by チャマ at 14:11| Comment(0) | TrackBack(1) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月09日

カウンセラー 追記

私は「人にモノを伝える能力」について、男尊女卑の考えを持っている。
講演会などを聞いても、ナニカをご教授して頂くにしても、男性の語りと女性の語りにははっきりと違いがある。
男性のソレはストレートそのもので、余分な栄養素もない変わりに、とても的を得ている。判りやすい。
女性のソレは消える魔球のようで、おまけの部分も多い変わりに、結局なにが言いたいのか要領を得ないことも多い。

これはなんら根拠もなく、私のン十年間の人生で「そんなカンジぃ〜」と思っていることなんだけど、まんざら全否定されるようなことも無いんじゃないか、案外そう思っている人も存在するんじゃないか、なんて思っている。
そして私自身、自分が評する女性像にぴったりはまっているように思う。
自分で書いた記事ながら、なんと的を外しているのやら、とあきれることが多い。
時間は「コーチ!もうこれ以上は無理です!」ってくらいかけているのだけれど、その結果となるや惨憺たるもので、毎度惨敗・・・
う〜む、ウチの死んだじーちゃんがまだ生きている頃、将棋をやるといつも言われていた。
「下手な考え休むに似たり」と・・・
まさにその通りの現状。
これは少々腹を括って、現状を打破せねばならないなぁ・・・

ということで、手始めに直前のエントリである「カウンセラー」に追記してみることにした。
このエントリには2つのコメントを頂いたのだけれど、案の定、真意は伝わっていない。
というよりも、電柱の陰の隠れているもう一人の自分が真意が伝わらないように思っているんだろう。
「あえて書かないけど、判ってね」という甘えがあったことは確かなんだ。
そしてそれは「逃げ」とも言う(><ゞ)
どうせ逃げるなら、書きたいことを書きたいように書いて、ケツを捲くればいい、と気付いた。
ネット世界では、そんなことも出来るじゃないのサ、と気付いた。

で、ぶっちゃけ、書きたかったことはこういうこと。

カウンセラーに対して・・・
カウンセリングなんていう人の人生を左右しようってことを商売にしてるんだから、クライエントが自殺したことに対して「残念です」なんて言葉一つで片付けるような無責任な姿勢でいいのかよ!
「助けられなかった」ことに、責任を持たなくてもいいのかよ!
人一人の人生を左右するんだったら、自分の人生もその結果で左右されるくらいの気合いで望んでみせろよ!

クライエントに対して・・・
自分の人生の最後の最後までの責任までは負ってくれないような者に、人生左右されていいのかよ!
自分の生き方の答えまで他人に出してもらって、それっていったい誰の人生なんだよ!
そんなことしてっから、後になって「アイツのせいだ、コイツのせいだ」なんて言ってんじゃねぇのかよ!

言葉が乱暴だから、必要以上に挑発的かもしれないけど、そう思う。
っていうか、私って「さまーずの三村」かよ。。。

カウンセラーっていうのは、クライエントが刺激を受けたことを気付かずに、「自分で結論を出した」「自分で解決した」という意識を持って問題を解決させるために存在するモンじゃないんだろうか。
そういう意識を持てるか持てないかで、クライエントの人生のその後は大きく変わるんじゃないんだろうか。

私は不登校なんてものは、まさに「選んだ訳じゃないんだぜ!」と思っている。
でも、不登校の中には「学校に行かないことを自分で選択した」と言う人がいる。
それは本当でも思い込まされたマヤカシでも、どっちでも良いじゃないだろうかって思う。
「自分で選択した」と思えることに意味があるんじゃないんだろうか。
選択した、しない、に関わらず、自分でそういう経験をしたことに納得出来れば、不登校という経験は無駄にはならないんじゃないだろうか。
それが自分の人生を引き受ける、ということなんじゃないだろうか。自己の物語を編み上げるってことじゃないんだろうか。
それが出来ないからこそ、「アイツのせい、コイツのせい」なんて、いつまでも自分の中に問題を残してしまうんじゃないだろうか。
「アイツのせいでもコイツのせいでも何でもいいんだよ。自分は自分で人生決めたんだから。」って思えてこそ、その先に「自分の人生」があるんじゃないだろうか。
人に決めてもらった人生なんて、その時点から「自分の人生」じゃなくなるんじゃないだろうか。
なんて思うんだ。


特定の他者に刺激を意図的に与えると自覚してそうする時、刺激を与えた人間は刺激を与えようとしている人間の人生に責任を持たなくてはならない。
だからこそ、子どもの責任は親にあるんだと思う。
同じだけの責任が、教師にも、カウンセラーにも、近所のおばちゃんにも、友人にも、兄弟にもあるんじゃないんだろうか。
でも、その責任を追究する刺激の受け手は、刺激の与え手の立場や評価によってその人に対する責任の負担率を心得ているんじゃないだろうか。
だからこそ、近所のおばちゃんの刺激には反応も鈍いかもしれないけれど、責任を追及することもない。
でも、親、教師、カウンセラーなんかには、その立場故に、刺激の受け手は責任を追及する。
そして親も教師もカウンセラーも、なんとかしてその責任から逃れながら刺激を与えようとやっきになっているように思える。


それ相当の責任を負う覚悟がないクセに刺激を与えようなんてすること自体、大人として情けないとは思わないのだろうか。
刺激の受け手だけに「自己責任」を押し付けるとしたら、それはそこら辺のキャッチセールスと同じじゃないのかい?


ハイリスク・ローリターン・・・もしかしたらノーリターン。
それが子育ての基本だと思うんだけど?

じゃあオマエは実践しているのかよ!
と問われると、痛い!!!
少なくとも努力はしている。としか書けない自分が不甲斐無い。
でもだからこそ、日々是勉強なんだと思う。
?これも逃げ・・・か・・・
posted by チャマ at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月07日

カウンセラー

またまたゆみままさんコメントを基にエントリを書こうと思う。
まだ前のコメント関連のエントリも書き終わってないのだけど・・・
特別編ってことで???

お題は「カウンセラー」

人間というのは他者の刺激を受けながら、それに影響されながら成長していく。
それは刺激の与え手が意図して刺激を与えてる場合もあるだろうし、意図していない場合もある。
特定の人間に刺激を与え自分の想定している状態にしようとすることを、教育、というのだろう。
教育、とはつまり、刺激を与えた人間そのものを操作しようとすることであると思う。
親も、教師も、近所のおばちゃんも、友達同士でさえ、誰かに対して意図して刺激を与えること=1人の人間のヒトトナリを操作することには、その刺激の結果にはそれなりの責任が伴う筈だ。
刺激を受ける側は、加齢と共に受ける刺激を選別するようになる。
その選別の大きな基準が、与え手への評価にある。
近所のおばちゃんの与える刺激には、話半分の変わりに責任も追及しない。
近所のおばちゃんも、責任が追究されない範囲での刺激しか与えない。
刺激の与え手と受け手の間には、そんな暗黙の了解があるように思う。

一方で、誰かの言葉や行動から、それを勝手に刺激と受け取ることもある。
それは「学び」であって、与え手には自覚がないことがほとんどなんだろう。
刺激の受け手が一方的に刺激と判断し、自分の中に取り入れるのだから、責任の所在もなにも、あるとしたら受け手の「自己責任」ということになるんだろう。
ただし、大人は子どもが真似をするということを知っている以上、意図的に与えた刺激でなくても自分から学んだだろう好ましくない刺激については責任があると思う。
そこまで真似をした人間の「自己責任」を追究するべきではない。学んだ側と学ばれた側、双方お互い様であるべきだと思う。
そんなことまで一方的に「自己責任」と言われてしまったら、人間は「学び」を止めざるを得ない。
人間が他の動物よりも優れた文化を持っているのは、「模倣」という能力に優れているからに他ならないのだから、それはつまり、人類の成長を止めることになる。

さて、刺激の与え手としての責任の所在だが、カウンセラーに果たしてあるのだろうか。
それにはカウンセラーとはいったいナニをするために存在するのだろうか、ということを考えなくてはならないんだろうと思う。
私はこれまでに3人のカウンセラーに会ったことがある。
クライエントとしてはたった一人としか会ったことが無いし、そのカウンセラーの口からは「カウンセラーというのはこういうモノです」と聞いた事は無い。
他の2名のカウンセラーは、共にこんなようなことを言った。
「カウンセラーの仕事というのは、クライエントに直接指示して何かをさせるとか、問題を解決してあげるとか、そういうことではありません。クライエントの話をひたすら聞いて、クライエントの心に余裕を持たせてあげることが仕事です。そして問題の解決はクライエント自身が答えを見つけ出し、行なうのです。」
カウンセラーの仕事とは、クライエントの話を聞くことに始まり、聞くことに終わる、のだそうだ。

もしこれが本当なら、責任の所在もなにも、刺激なんて与えていないということになる。

ところが、実際に私がクライエントとして接したスクールカウンセラーは、実によく喋り、実にアレコレと指示し、実によく私や息子に対する分析(感想としか思えなかったが)をした。
私自身こんなカウンセラーを必要とはしなかったし、個別に面談した息子も疲れ果てて帰ってきたので、早々に手を切った。
同じ学校の不登校の子どもを持つ親の多くは、心理治療を始めた人、中間教室に通わせるようになった人などなど、このカウンセラーの指示に従い行動をしたらしい。
そして、その結果以前よりも深刻な状況になってしまった人も存在する。
そんな時の責任の所在は、いったいどこにあるのだろうか?

ゆみままさんのコメントへのお返しコメントにも書いたのだけれど、
カウンセラーはカウンセラーであるが故に、クライエントに刺激を与えてはならないのだと思う。
その結果の対して、いったいどれだけの責任が負えるというのだ、と言いたいのだ。

そして
クライエントはクライエントであるが故に、カウンセラーに直接的な刺激を求めてはならない、つまり問題解決のためのヒントや解答を求めてはならないのだと思う。
それはカウンセリングの本分とはかけ離れたことを望むことなのだ、と言いたいのだ。


カウンセラーがその領域より逸脱して、クライエントに何らかの意図する刺激を与えることを職務と考えるのなら、責任の所在は自らにあると覚悟するべきだ。
クライエントがカウンセリングの本分を逸脱して、ヒントや解答を求めるのなら、責任の所在は自らにあると覚悟するべきだ。


現代社会においては、カウンセラーの刺激によって起こる変化の責任も、クライエントの「自己責任」と言われるのだろうか?
カウンセリングの領域を逸脱してカウンセラーの「自己責任」は問われないのだろうか?
だとしたら、随分片寄った「自己責任」じゃないか。
でも、それが現実ってことなのかなぁ。あぁ、世知辛い・・・

カウンセリングを受けるにしても受けないにしても、問題を抱えた時にそれを解決するのは自分自身以外の誰でもないのだということを忘れてはいけないんだと思う。
誰かに解答を望むことは、自分の人生をその人に左右されるということだから。
それでも良いなら、解答を求めれば良い。
私はまっぴらゴメンだけど。
そしてその結果が思わしくなくとも、今の社会では「自己責任」と言われるのだということも忘れてはいけないんだろう。
カウンセラーという存在が一概に領分を侵しているとは言えないだろうし、クライエントの利用の仕方でとても役に立つ存在だと思う。
カウンセラーもクライエントも、用法用量を守って有益な?カウンセリングにしたいものだ。
posted by チャマ at 22:49| Comment(17) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月01日

自己の物語

放送大学の単位認定は終了したけれど、不合格の可能性が大!なので、まだまとめている。
テキストを読んでいる時も「おっ!」と思ったのだけど、丁度今日まとめたところがソコだった。
「おっ!」と思ったのは、Bruner,J.が言うところの「自己の物語」
Brunerは、文化の中に生きる人間の生涯を「意味ある全体」に編み上げて行くプロセスとしてとらえている、のだそうだ。

どこかで聞いたことがある。
そうそう、貴戸さんと常野さんの共著「不登校、選んだわけじゃないんだぜ!」だったよなぁ。
そうかそうか、貴戸さんは不登校だった過去を意味ある全体の一部として編み上げて行こうとしてるってことなんだな。
でも、多分、ムリだと思う。
だって、彼女は不登校を、不登校した自分を肯定し過ぎていると思うから。
学校を否定し過ぎていると思うから。意識し過ぎ、といった方が良いのかな?
だからこそ、彼女は多分、一生不登校という呪縛から離れられないなんじゃないかって思う。一生不登校に関わって生きて行くだろうって思う。そんな人生、私だったらイヤだけどな。
学校なんて、不登校なんて、一生を捧げるような大それたモンじゃないと思うけど・・・
なんてね、現役不登校児を持つ親の発言としては不適切かもしれない。
でもね、学校に行くも行かないも、一つの経験だと思えばいいんじゃないのかな。
それをどう意味のある全体に編み上げて行くか、それは学校や社会がどうこうするんじゃなくて、自分自身がやるべきことなんだって思う。
だから、学校のシステムがどうした、なんてことは、どうでも良いかな、なんて思う。
一方で、そういう学校を過剰に意識した人たちがいてくれたからこそ、ウチの息子が中間教室を利用したりできるっていうのは感謝しなくてはいけないんだ。
難しいところだなぁ・・・最近チョット整合性がつかなくなっている部分でもある。

と、話を戻して。自己の物語。
「今ここ」にいる自分を、将来「あーそういえば、ブログなんてものを書いてたっけなぁ」と思い出し、それがその時の自分にとって、またもっと将来の自分にとってそれがどんな意味があったのか、思い出すたびに評価し続けるんだろう。
そしてその評価には、評価している時点での「自分」が強く影響するんだろう。

話はチョット変わるけど、私はこれまでに名字が3回変わった。
今の名字で4つめ、ということになる。
古い知人に会うと、声をかけるときに一瞬考える。
「アレ?あの人と一緒だった時って、名字は・・・エットォ〜」
てな訳だ。
それは妹も同様で、いつか2人で
「なんだかまるで、落ちこぼれのスパイみたいだよね。」
なんて笑ったことがあった。
今じゃアナタ、そんなことは当たり前にあるんだろう。それだけ離婚し再婚する女性が増えた。
でも30年以上も前の日本では、特に田舎では、死別はあっても離婚はほとんどなかった。
同じ母子家庭であっても、死別した母子家庭の子や母親にしてみたら、離婚して母子家庭になった我が家は格下扱いできる少ない存在だったんだろうって思う。
母親同士の関わりから、母子家庭同士の子どもの関わりから、そんな空気がプンプンしていた記憶がある。
でも、それだって怪しいものだ。
こちらの一方的な被害妄想かもしれないし、今となっちゃぁ確固たる証拠も現場を押さえることもできないのだから。


大人になって、途中入社で入ってきた男性社員が同じ年だと判った。
彼とは全然学校とか住む地域とかはカブらなかったけど、同じ中学の同級生が彼の高校の同級生で仲が良かった、なんて話になった。
後日、「アイツに聞いたんだけどサァ、そんな名前のヤツ知らねぇ〜って言ってたぞ」と言われた。
そりゃそうだ。名字が違うんだからさ。
でもって、これこれこうでさぁ、今とは名字違うんだわサァ、なんて言った。
そしたら彼は言った
「よくそんなこと人に話せるよな。オレんちも離婚組みだけどさぁ、オレなら恥ずかしくて人なんて絶対に言わネェ。
いやいや、今から20年も前の話だからね。今じゃ考えられないんだろうけど・・・
でもこの時思ったんだ。
「恥ずかしいって、なんだよ。」って。
ウチのかーちゃんも、私も、妹も、何も恥ずかしいことなんてしてねぇゾ。って。
「オメーのかーちゃんは恥ずかしいことしてっかもしんねぇけど、ウチのかーちゃんは恥ずかしいことなんてしてねぇぞ。」とか言ってやって、それっきりヤツが会社辞めるまで、口も利かなかった。

自己の物語って、こういうことなんだと思う。
結局はライフイベントの解釈や評価なんてものは、その人次第でどうにでもなっちゃうんだ。
その人のこれまでの人生で築かれた価値観とか、考え方とかですっかり評価は変わる。
今の自分が置かれている状況がほんの一端でも過去の出来事が関わっている以上、今の状態が過去の出来事、過去の自分への評価を変える。
同じ出来事であっても、それを人生の中で何度も思い出し、再評価するたびに結果が変わっていってしまうんだろう。
そしてその評価が、今ここにいる自分にも影響する。
そんなことを繰り返しながら、歳をとっていくんだろう。
でも例えば不登校なら、不登校に縛られている限りその評価はあまり変化することもないんじゃないだろうか。違った視点を持てなくなるだろうから。
自分のライフイベントへの評価は、誰でもない自分がするんだ。
自分自身が沢山の視点を持つ方が、より多角的に見えてくるんじゃないだろうか。


どんな辛いことも、悲しいことも、意味のある全体に編み上げてしまうのが人間なのだとしたら、今ある辛いことや悲しいことが将来の自分にとって、過去のそれらが今の自分にとって、決して傷ついただけじゃなかった、経験したからこそ成長できたんだというものにしたいって思う。
それは社会や世間のためじゃなくて、自分のため。
そして私の周りにいる大切な人たちのために、そう思う。


posted by チャマ at 14:20| Comment(0) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

そこまで要求されるのか?

もう半月程前のこと、結構共感しながら読ませて頂いている上山和樹さんという方のブログにこんな記事を見つけた。
Freezing Point 2005-07-14 義務付けられた「滅私奉公」

その記事を読んだ時、またいつもの「なんじゃそりゃ?」って思った。
その記事に書かれている「ある人物」というのがどなたかは知らないが、人の稼いだ金の心配なんぞしなくても宜しい!って思った。

SMAPの「世界に一つだけの花」で歌われているところの
「その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」
それをそのまま実現させているのが、「ある人物」(これからはXさんと呼ぼう)の言っている「乙武洋匡さん」ではないんだろうか。
スポーツ選手がその能力をもって年報やら賞金やらを稼いでいるのと同じように、芸能人がそのネームバリューを逆手にとってプライバシーを暴露する本を書いて稼いでいるのと同じように、女性が子どもを産むのと同じように、乙武さんもまた彼の「個性」を活かして活動しているんじゃないのだろうか。
それがたまたま大金を生んだ、ということじゃないんだろうか。

それをなぜ障碍者に還元しろというのだろうか?

そんなことを思いつつ、忙しさにカマケテ今日まで来てしまったのだけれど・・・

要するにXさんは、障碍者という立場を利用して金儲けしたんだから、他の障碍者に還元するべきだ、ということなんだろう。
なんじゃそりゃ、って思わない?
そしたら、スポーツ選手は全員「そのスポーツをしている人間」に、稼いだお金を還元しなくてはいけないのだろうか?
確かに、プロ選手には少年チームを指導したり、ボランティア活動や寄付なんかを活発に行なっている人が多いけど、それはあくまでも選手の「厚意」じゃないのだろうか。
「やって当たり前」とか「やるべきこと」ではないはずだ。
だからこそ、「表彰」されたりするんじゃないのだろうか?
やらないよりはやった方が良い、ってことじゃないのだろうか?
「やってもらってありがとう」ってことじゃないのだろうか?
そんな奇特な行為をしないからって、誰からも批難される筋合いは無いと思うのだけれど?

人間関係はよくキャッチボールに例えられる。
投げる時は、いかに相手が捕りやすい球を投げるか、を考えなくてはいけない。
自分が「これは捕りやすいだろう」と思って投げた球を相手が「捕り難い」と感じたら、それは「捕りづらい球」ということになる。
受ける側は、どんなボールが来ても最大限の努力をして球を捕る、体勢で受ける。
例えキャッチボールであっても、体で止めるくらいの気持ちがあって良いんだと思う。
だからこそ、練習になる。
「捕れないお前が悪い」「いや、ちゃんと投げないお前が悪い」なんて、言いたければ言えばいいけど、そう言っている限り上手くはならないだろう。
相手に要求する前に、まずは自分から、ということじゃないのかな。

今の世の中ってどうよ?
「やってくれない」「自分に合わせてくれない」という文句がムチャクチャ多くは無いだろうか。

社会に対して要求ばかりが多くはないだろうか。
要求する理由は「オンリーワン」だったり、「マイノリティ」だったり、してないだろうか。
社会的認知を求めるならまだ話は判る。賛同もできる。
でも、社会システムを変えろ、という要求は違うと思う。
だれかの「オンリーワン」を立てれば、その陰で誰かの「オンリーワン」が立たなくなる。
一つの「マイノリティ」を中心にすれば、その陰で別の「マイノリティ」が排除される。
みんなそれぞれ好き勝手な球を投げて、捕りきれない社会に文句を言う。
社会なんてモノの実力を過大評価しているんじゃないだろうか。
社会が社会である以上、出来る訳がないじゃないかって思う。

スポーツでも、会社でも、社会でも、集団というのは個人の技量が高ければ、集団全体のレベルも上がる。
個人の技量を高めることは、即ち集団のレベルを上げることになる。集団のことまで考える、考えないは別にしても、自身の向上に心掛けていれば、そういう個人が構成する集団であれば、自然と集団のレベルも向上するのだ。そしてまた、それが集団に属している個人にも還元される。
本来、日本の集団主義というのは、こういう考えゆえに集団を重んじるということなのだ。
誰かから与えられることを望む限り、それが当たり前だと考えている限り、自分を向上することはできないんじゃいかなって思う。
それはそのまま、生き辛さに繋がって行くんじゃないのかなって思う。
それは集団が悪いのだろうか?

「オンリーワン」だと胸を張るならば、そこから生じてくるリスクも引き受ける覚悟をして、初めてそうなれるんじゃないだろうか。そんなリスクも含めて、個性なんだろうからさ。
障碍は個性だろうか?
私は違うと思う。
個性は変えることが出来るけど、障害は変えることが出来ないからこそ障碍なんだろう。
どんなに耳障りの良い言葉に替えても、どんなに文字を替えても、障碍が障碍である以上は、いつかまたその言葉や文字に不満を持つのだろう。
本当に障碍を個性だと思うなら、健常者には出来て障害者には出来ないのだという、辛いかもしれないけれど現実であることの認識を必要とするのだと思う。
そこから逃げている限り、障碍は個性には成り得ない。オンリーワンなんていう言葉を使って逃げてちゃダメだ、って思う。そもそも、健常者と同じになりたいと要求することする時点で、オンリーワンにすら成り得ないのだから。

乙武さんにとって「障碍」は個性ではなくて、個性の中の一つでしかないのだろうと思う。
その他の個性や特徴を見ずに、障碍というただ一つの彼の特徴をもってして「障害者に還元しろ」というのは、なんともはや、おかしな話だ。
「五体不満足」の最後の方には、乙武さん自身、障碍者の支援運動のようなものに携わっているようなことを書いていて筈だ。
今はそんな活動はされていないのだろうか?
状況が判らないのでナントも言えないが、あまりに「要求」ばかりが先行するそれらの活動にウンザリしたのかもしれない、なんて思ったりもする。

上山さんが書いていた。
「人の人生を何だと思ってるんだ!」
ホント、その通りです。
人様や社会をドーコーする前に、まずは自分の人生を最大限の努力をもってして良きものとしたいものです。
社会に向けて何かを発信することもまた良いですが、それが自分の立場ばかりを強調するものであってはいけないのだと思います。
社会はオンリーワンの集合体、なのだから。


posted by チャマ at 00:34| Comment(0) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月07日

テレホン・セールス

個人情報保護法が施行されて数ヶ月…
にも関わらず相変わらずセールス目的の電話が後を断たない我が家。
特に多いのが子どもの教育関係。
家庭教師、通信添削、教材の売り込み・・・
「換気扇のお掃除を・・・」なんて電話は電話帳の上から順に電話しているのかもしれない可能性は否定できないのだけれど、「小学校4年生を対象にした…」とか「中学生になると定期テストがありますよね?その対応策として…」なんて言われると、「はぁ?どしてアンタがウチの子どもの歳知ってはるねん?」と思ってしまう。
「○○大学の××と言いますが、家庭教師の・・・」なんて言われると、「ゴメンナサイ、ウチは結構ですぅ〜」と丁寧にお断りするんだけど、それだって本当は怪しいんだよね。
第一、なんでウチに子どもがいること前提で電話してきてるんだい?って話だし。

個人情報保護法では、
・個人情報を収集する時(申込書などに記入を求める時とか)は、事前にその使い道を説明しなくてはならないし、それ以外での使用もしてはならない。
・たとえ系列会社と言えども、収集した個人情報を教えてはならない。

なんてことが書いてる。
他にも事細かに決められているけど、この2つだけでも売り込み電話には十分対応できる。

ウチはこんな風に撃退している。
相手が的確に自分の家庭内の事情を知っていると判る場合。
例えば「○年生のお子さんがいらっしゃいますよね?」とか「○○ちゃんのお母さんですか?」とか具体的なことを言ってきた時。
これは即、突っ込みを入れる。

タダ単に「小学生を対象にした…」とか「家庭教師のご案内で・・・」と言ってきた時には、とりあえず「ウチにはそんな年頃の子どもはいません。」と言ってみる。
すると「失礼しました。」って切る時もあるし、「えっ?あの、小学校○年生のお子さんがいらっしゃいますよね?」なんて具体的なことを言ってくる時もある。
具体的なことを言ってきたら、そこで初めて即突っ込む。じゃないと、「電話帳を片っ端からかけてます。」なんて言われて逃げられてしまう。でも、本当はそれも保護法に引っかかるらしいって聞いたような気もするんだけど・・・自信がないからとりあえず具体的なことを知っているんだということを引っ張り出す。
で、「どこからそんな情報を得ているんでしょうか?お宅様とは取引したことが無いのですが?」と聞いてみる。

反応がそれぞれおもしろい。

「よく聞かれるんですよねぇ〜。・・・・・業者リストです。」
「はぁ?業者リストってなんですか、ソレ。」
「業者のリストです。判らないならもういいです。」ガチャリ。

「私は渡されたリストから電話しているので、判りません。」
「でしたら、判る方に聞いてきて下さい。」
「(どんなリストか聞いて来いって言ってますけど・・・ゴニョゴニョ)」ガチャリ。

「ウチは学校の学力検査とかをやっておりますので、そこからの資料です。」
「そんな資料に載せて良いですかなんて誰からも聞かれてないんですけど、会社名もう一回教えて下さい。」
「・・・」ガチャリ

「ウチは要りません」とか答えても、同じ商品や同じ社名で別の人が電話してくることがよくある。
「もう何度もお電話頂いて、その度にお断りしてるんですけどぉ〜」なんて言っても、それでもまだ電話が来る。
でもね、「どっからそんな情報手にいれてんすかぁ?」って詰め寄ると、大抵同じところからは電話が来ない。
多分、そうやって断った会社のリストの我が家の欄には、「要注意」とか書いてあるかもしれないヨ(^^v)

これでもう、夕食の魚を焦がすこともなくなるって訳だ・・・多分・・・
posted by チャマ at 16:21| Comment(2) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月01日

スクールカウンセラー してその目的は?

「スクールカウンセラー」の記事に対して、不登校社長Lazyさんからトラックバックを頂いた。
読んでみてみて、おもしろいから♪
大人がいかに「子どもというのは子どもらしいものだ」という幻想を抱いているか、よく判る。
カンセラーという「人間」を専門に扱う人であっても、なのだ。
学校にはそんな「大人が持つ幻想」を演じる子ども達で溢れている。
親の前で、教師の前で・・・それぞれが求めている幻想を演じ分ける。調子イイったらありゃしない。
子どもだって疲れる訳さ。
ストレスも溜まるさ。
そしてストレスは弱い方に流されて行くのさ。
不登校の多くは、そんな演じ分けをモノの見事にやってのける周囲に嫌気が差したり、演じ分けのとばっちりを受けたり、ストレスが流れ着いた先だったりするんだろう。

で、そんな学校にはスクールカウンセラーを設置することが良かろう、ということなんだろう。
スクールカウンセラーが息子の学校に設置されて3ヶ月。合計3回お世話になった訳だけど、ナニをしようとしているのか判らない、ってのが本音。
ウチの場合、多分に呼び水効果的にカウンセリングを薦められたというカンジなので、初っ端から「お宅は必要ないですけどね。」なんて言われて薦められた。なんだそりゃ・・・もしかしたら「一応不登校の家庭には全員受けてもらう」ことが行政から指導されているのかもしれないな、なんて思ったりもした。だから一層「ナニを目的としているのか判らない面談」、になっているのかもしれない。
ウチ以外のご家庭には実践的な助言をしているようだし、実際にその助言通りに行動を開始したウチもある。
そのお陰かどうかは知らないけれど、2号が通っている中間教室にはこのところ、週に1・2人の割合で新規入所やら見学の子どもがいる。
不登校対策とすれば、機能していると言ってよいのかもしれない。
でも今の方法じゃぁ、警察と同じで防犯効果は皆無に等しい。虫歯を治さずに鎮痛剤だけを処方しているのと変わらないんじゃないだろうか。

ウガッタ見方をすれば、不登校が出ないような学校になってしまったら、スクールカウンセラーの設置の必要性はなくなっちゃうかもしれないってことなんだ、とも言える。
だったら不登校になってしまった子ども達への対応だけやっていれば、結局はオオモトの学校は変わらない限り不登校も無くならないんだから、仕事には困らないってことだ。
臨床心理士が余っている現状にあって、こんな美味しい市場は手放せないだろう。。。


いずれにしても、大人が子どもに幻想を抱くことが良い結果を生まないのと同じように、私達はカウンセラーとかスクールカウンセラーという肩書きに幻想を抱いてはいけない。
スクールカウンセラーは相談者の話を聞きながら欠伸をするものなのだ。
スクールカウンセラーは自分の質問に相談者がちゃんと答えないと態度を豹変させるのだ。
スクールカウンセラーは理論的には人間をよくご存知だが、目の前の生身の人間とのお付き合いはまことに下手なのだ。「こんなことを言ったら・やったら、相手はどう思うだろうか」なんてことは全くご存知ないのだ。


人間をいかに分析するかはそのカウンセラーの知識や能力によるのだろう。
でもその分析のためのデータをより多く引き出すためには、カウンセラーの人間性によるところが大きいのだと思う。
どんなに分析のための知識や能力が高くても、素になるデータが不足していたら出てくる結果は正しいものとは言えないし、対応を間違えることになるんじゃないだろうか。
Lazyさんが出会ったカウンセラーは、そんな人間性に欠如したカウンセラーの良い例じゃないのかな。知識に溺れた、とでも表現すればいいかもしれない。
もしかしたら、私と2号が出会ったスクールカウンセラーも・・・

posted by チャマ at 13:35| Comment(5) | TrackBack(1) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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