2005年04月17日

人生はドライブ 不登校は空気漏れ?

不登校にもいろいろなパターンがあるけど、いきなりある日突然「学校に行かない!」宣言をして、でもってそれっきりパッタリと行かなくなった、なんていうような、はっきりと「私、今日から不登校の仲間入りをしました。」なんて言えるようなパターンってあるんだろうか?

自分や自分の子どもや周りの不登校児童・生徒を見ても、そんなに劇的な変化を起した人を私は知らない。
大抵は行き渋りの期間を経てある日どうしても行かれなくなる、というパターンだ。
そして行かれなくなった後も、登校したり休んだりする期間があったり、すっかりさっぱり登校しなくなったり、同一人物であってもいろいろなパターンの不登校をしている。

逆に、それまで行き渋りもなかったのにある朝突然「学校に行かない!」なんて劇的な変化を起すような子どもの方が、翌日、少なくとも数日後には何事もなかったかのように「いってきまぁ=す。」なんて登校する。少なくとも私の周りを見ると、そうなんだ。
そんな場合は大抵「学校に行きたくない」理由も単発的な理由であることが多い。
仲良しの友達とケンカしたとか、先生に叱られたとか、宿題やってない、とか…人生の中でも突発的に起こったことが理由なんじゃないだろうか?
ドライブ中にブロック塀にぶつけちゃった、そんな感じの理由。
じゃあ不登校はどんな感じなんだろう?って考えると、
不登校はタイヤの空気漏れかな?って思う。

クルマを運転する人なら判ると思うけど、異物がタイヤに刺さったままでいると空気が抜けていく。今時のタイヤは急激には空気が抜けちゃうようなことは無いから、やけにハンドルが取られるなぁとか、ちょっとした溝でも衝撃を強く感じるようになったようなぁとか、なんらかの違和感をカンジながらも、その時その時で上手く対処してしまうし、その時が過ぎればそんな違和感は忘れてしまう。
でもいつかはタイヤの空気が無くなって、ニッチモサッチも行かなくなるんだ。

こんな道のど真ん中にクルマを停めるつもりなんてなかったんだけどなぁ。。。
停めちゃいけないなんてことは、百も承知なんだけどなぁ。。。


空気の抜けたタイヤは自分の心と同じだ。
自力でガソリンスタンドとか修理工場とかまで移動しようとするなら、今以上にタイヤにダメージを与えることを覚悟しなくちゃいけない。
そんなこと痛くてできる訳ないじゃないか!
でも治さないと人生っていうドライブの続きが出来ないんだから、なんとかしなきゃならなんだ。
ロードサービスを呼ぼうか?
でも、周りから白い目で見られてるし、恥ずかしくてクルマの外に出れないよぉ。。。
どうしよう・・・・・そう思いながらクルマの中でジ〜〜〜ッとしている状態が不登校って言えないだろうか。

親は子どもの人生に伴走していると言っていいのだろう。
親は子どものタイヤの空気漏れに気付かなくてはいけないのだろう。
それは「サインなんて判るか!」でも書いたけど、微妙な空気漏れに気付ける人間なんて神様みたいなもんだと思う。
気付くとしたら、結構抜けちゃった時なんだろう。

いずれにしても、伴走者である親の役目は、空気漏れをして動けなくなってしまった我が子を元気付けること。クルマの外に出られるようにすること。そして自走でもレッカーでもいいから、壊れちゃった箇所を治すことに積極的になるように働きかけること、なんだと思う。

具体的にどうすればいいのか?
それは運転手本人の状況によって違うし、性格や環境によっても違うだろうから、それこそ正解なんて書けないのさ。

ただ言えることは、空気漏れに気づかなかった本人や親を責めちゃいけないし、タイヤに刺さった異物が悪いって言う事も違う。それを踏んじゃった本人を責めることはもっと違うし、クルマから出られないことは当然のことで、それを「ナニやってんの!」って言う事も間違っていると思う。
「まぁ〜しょうがないじゃないの。いろいろなことがあるのさ、人生ってぇのはね、そんなもんさぁね。」

実際に我が子が不登校になった時、こんなに冷静でいられる親なんていっこない
必死になってタイヤの異物に文句を言い、子どものお尻を叩いてクルマから引っ張り出して、レッカー呼ぶなり自走するなりクルマを押すなりして、なんとか元に戻そうとするものだ。
親が先頭に立って、お子どもを後ろに従えて、考え付くことは全てやってみる。
恥ずかしながら(?)、私はその通り全部やったゾ。
でも、本当に子どもにとって大切だったのは、親が周りのクルマの交通整理をしてやって、子どもが自分でどうするべきか考える時間と選択肢を与えてやることだったんだ。

その選択肢は「学校に行くべき」でもない。「学校になんて行かなくてもいい」もまた違う。
そんな目先のことじゃない、もっと先の、これからの人生を考えた時、キミは何を選択するんだろうか。


「お母さんがお子さんの歩く道を先回りしてキレイに掃き掃除し過ぎです。」
何度言われたことだろうか。
これ以上我が子を傷つけられたくない、壊されたくないと思った。しょーがねぇじゃん、って思った。

でも例え壊れかけた世の中であったとしても、そこで生きていかなければならないのが現実なんだ。
理不尽だと思っているのかもしれない学校は、そこにいる人たちはそのまま将来の社会を作っていく人たちだってことなんだ。
今は中間教室という理想郷を手に入れたのかもしれない。
でも社会に出た瞬間、そんな理想郷はどこにも存在しなくなるんだよ。
posted by チャマ at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サインなんて判るか!

専門家の先生がたはこうおっしゃる。
「何か問題が起こった時、子どもは必ずサインを出している。親はそれを見逃してはいけない。」
言うは易しなんだ。専門家のお前らにだって出来る訳ない!って思う。
後から思えば「あぁ、あれがサインだったんだ。」って判るけど、今現在「これはサインだ!」なんて判るような人間はまずいないだろう。

親が「あ゛!」って思った時には、すでに問題は結構なレベルに達しているもんだ。専門家の先生がナニをもってサインと言っているかは人によって違うけど、少なくとも身体的症状なんてサインは、そんなことになっている時はすでにかなり拗れてしまった後なんだ。
それ以前の段階で判りやすいサインを子どもが出す時なんて、まず大した問題じゃないってことも言えると思う。
だって、子どもって心のどこかで「親に心配かけちゃいけない。」って思ってる生き物だからなんだ。
子どもっていうのは、本当に深刻な問題はなんとなく自分の中で解決しようとしちゃうんだ。
サインが出ていてもそれは余りにも微かなモノで、それは何故かっていうと子どもは無意識的に親には知られないようにしちゃうものだからなんだ。
子どもは親が心配するような子どもになっちゃいけないって思っている。親の期待を裏切ってはいけないって思ってる。
でもそれは親の期待が大き過ぎるってことじゃないんだ。それに「思ってる」って言うよりも、そういう生き物だってことなんだ。


余談
(年齢が小さければ小さい程、子どもは親の期待が過度であればある程、その期待=当たり前、だと思う。自分はそれだけ優れた人間だって思ってる。
必死になることも、当たり前、だって思っている。
年齢を重ねていくうちに親自身の姿が客観的に見えてきて、そんな親と過度の期待を天秤にかけて
「お前がやってみろよ!」って思い始める。
そうなった時にはもう子どもとは言えない年齢になってきてるから、それはそれで大変なことになっちゃうんだろうけど。。。まぁ、ウチには関係の無い話ってば話だ。)


親に気に入られようとするのは、動物の本能なんだ。
動物の子どもは小さい時には自分だけでは生きて行かれないから、
自分を保護してくれる存在=命綱
なんだ。だから自分の保護者から捨てられないように必死になる。それは意識的にそうするんじゃなくて、本能がそうさせる。正確には本能というよりも動物の特性?長い間かけて学習してきたこと?とかって言うべきなのか?まぁどちらにせよ、生存のためにはそうするべきだ、という教えが人のDNAに組み込まれていることだけは間違いないんじゃないかって思う。
だって、動物の親は生れた子どもが身体が弱かったりして成長しても一人では生きてはいかれないだろうと思うと、そのまま世話をしないで捨てちゃうんだから。
人間はそんなことはしないけど(最近はネグレクトが問題にはなっているけど…)、動物の特性としてまだまだ人間にもそういう部分が残っているということは言えると思うんだ。

サインには身体的なものもある。頭痛・腹痛・吐き気・発熱・・・などなどいろいろあるけど、発熱以外は本当かどうか本人以外には判らない。
親としてはその対処は難しいんだ、実際の問題として…
本当ではなくてもそういう時は休ませるべき、という意見も聞く。
でも少なくとも我が家の1号に関しては、そんなことしてたら不登校になっていたと思う。
だって宿題をやってない日の朝は、大抵頭痛か腹痛か吐き気を訴えるんだから。
「行けば治る!自分のお尻は自分で拭いて来い!目いっぱい怒られてらっしゃい!」と私に言われて半べそかきながら学校に行ったこと多数なのだから。
ここら辺は人の意見に振り回されることなく、自分の匙加減でやっていくしかないのだろう。

大体が、起きてしまった問題への正しい対処の仕方とか、正しい育児の仕方、なんてもんは無いんだ。
正解なんて無いんだ。
正解を探そうとすること自体が間違いだ。
誰かに答えを求めようとすること自体が間違いだ。
専門家の本を読んでもいい、講演会を聞いてもいい、でもそこに正解を求めちゃいけないんだ。
それは一般論であり、誰かの一つの例であるだけなんだ。我が子のことを語っているんじゃないんだ。
そこを間違えちゃいけない。

サインを見落とさなかったって誇らしげにしている親に引け目を感じてはいけない。
サインを見落としちゃいけないなんていう専門家の言う事を盲信してはいけない。
だって、もうサインは見落としちゃったんだから、今更そんなことを気にしている時間があるなら、今目の前の自分の子どものこれからのことを考える時間に使うべきだ。

今度こそサインを見落とさないゾ!なんて神経質になってピリピリしちゃいけない。
判ったらラッキー!私ってスゴイじゃん!くらいでいいんだ。
大切なのは問題が起こった時に「待ってました!ここから私の腕の見せ所!」ってドデェ〜ンと構えていられるような親の度量なんだ。
私自身、まだまだそんな度量は持てないけど、持とうという努力は大切なんだ。
posted by チャマ at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月15日

不登校のメカニズムを考えてみた −意図せざる結果−

学校には行かなくちゃいけないの?」で書いた
『不登校になった瞬間っていうのは
実はまだ
「不登校を選択した訳じゃない」』

ということについて書きたいと思う。
ただしこれは、イヤこれまでもこれからも、あくまでも私個人の考えであって、専門家が裏付けしている訳ではないから学術的に正しいのかどうかは判らない。ここだけは間違えないで欲しい。

「不登校、選んだ訳じゃないんだぜ!」という本がある。
この本を買ってきた時、2号は本の題名を読み上げた私にニッコニッコしながらこう言った。
「そんなの当たり前ジャン!」

確かにその通りだろう。
不登校は自らの選択じゃないという心理学的考察?は、不登校全般についても出来得ることだし、不登校になった瞬間についても出来得る。
そしてそれらを考察することはイコールで不登校への理解と問題の解決を促進するだろうと私は考えている。
と言う事で(どーゆー事かなんて突っ込まないでネ)、不登校になった瞬間についての考察を書き綴っていこう。

人間は誰しも問題が起こった時、その問題を解決しようと試みる。
問題を解決しようと試みた結果解決できればそれでOKだけど、解決しなかった時は自分が取った方法を分析し反省し、別の方法を試みる。それが試行錯誤。
試行錯誤を繰り返しても、なおも問題が解決出来ない時、人はどうするだろうか?
「洞察」という言葉を聞いたことは無いだろうか?
心理学で言うところの洞察とは、一言で言うと「状況認知の再体制化」だ。
今自分がクリアすべき課題は何か、自分はどんな状況に置かれているのか、周りの状況はどうだろうかなど、目の前の問題を解決する為に自分を含めた全体を見渡せる場所に留まって、解決へのヒラメキを導き出そうとする。その為には考えることに最大限集中しなければならない
全神経を集中しなければならない時、動物の本能として一番安全な場所に留まることが大前提なんだ。
集中するということは周りに気を配れなくなることを意味するから、安全な場所じゃないとエサとなって喰われてしまうキケンがある。
喰われるキケンのない人間も動物である以上、そういう行動を取らなければならない時は本能として一番安全な場所でそうするだろうと考えられないだろうか?
中々思い出せなかったことが、お風呂とかトイレで「あっ!そうだった」と思い出せるのは、そういうことなのかもしれないって思った。

不登校という問題は学校に行かれないという問題以前に、行かれなくなるような状況に置かれるだけの問題が既に本人には起こっている。
不登校になる以前、本人は試行錯誤を繰り返しているかもしれない。実際に試行はしなくても、問題を解決するためにあれこれ考えていることは確かだ。
それでも問題が解決出来ない時、一番身の危険がない「家」という場所で問題解決のための徹底的な集中の上での思考をしようとするのは、本能ではないだろうか?

つまり「学校に行かない!」と言い出した時点では、子どもはまだ不登校を選んだ訳じゃないってこと。
タダ単に目の前にある大きな問題を解決したいと思っているだけなんだ。
ところがそういう気持ちが、本能である「一番安全な場所=家ですること」を呼び起こしちゃうもんだから、その上子どもだから難しいことはなんだかよく判らないから、本能が要求するままの「家にいたい=学校には行きたくない」だけしか、自分の中の確かなことが判らないじゃないだろうか。


不登校になった子どもに、親は必ず「なぜ行きたくないの?」と聞く。原因が判れば解決の糸口は見つかるから、当然と言えば当然だ。私もそうだった。
でも子どもは「判らない」とか「行きたくないから行きたくないの」とか、親にとっては満足のいく答えは出てこない。
親はそんなことはあり得ないと思う。だって自分のことなんだから判らない筈がないと思う。何か隠しているか、ウソをついているか、何か裏にあるんだろうと思う。確かにそういう場合もあるだろう。
子ども自身がはっきりと「行かない理由」が判っている時は、問題の解決も早い。
そういう「行きたくない」には、そしてそれが絶対的に間違った判断じゃない時は、布団を引っぺがして学校に行かせればいいんだろう。

でも、自分でもナゼなのか判らないから「判らない」と言っている時は、本当に判らないんだ。だって、本当の自分は学校に行くために家でゆっくり考えたい=学校に行きたいのに、学校に行きたくないって思ってる自分がいるんだから、自分自身に対して「訳わかんないよ〜」って状態なんだ。
そんな自分に対して子ども自身がパニックを起していると言っても良いのだろう。
そんな子どもに「なぜ?どうして?」を追究することは、子どもを追い詰めることになる。
第一問い詰めたところで、子どもだって本当に判らないんだから、聞くだけ無駄というものだ。

理解出来ない自分というのは自分でコントロール出来ない自分と言う事だ。人間にとってこれ以上の不安はあるだろうか?
理解できないモノに不安を感じるのは、それが自分の生命を脅かすものなのかそうでないのか判らないからだ。
不安というのは動物にとっては生命の危機に直結する。
本来は学校に行く為にじっくり考えるという本能に準じた行動が、結果としては自分が希望していた結果とは全く逆の「学校に行かない」という結果を選んでしまうことになるんだから、そりゃ子どもじゃなくてもそんな状況は「訳がわかんない」状況だ。
「行きたいけど行かれない」という不登校は、学校というある意味余計な存在が介入してしまったために、その分だけ余計に追い込まれてしまうのだろうと、私は考えている。
posted by チャマ at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月14日

不登校のメカニズムを考えてみた −矛盾した心−

不登校ってなんだ?そりゃ学校に行かないことさぁ〜ね。
自分の胸に手をあてて、よぉ〜〜〜く考えてみる。
「学校には行きたくないの?行きたいの?どっち?」
「学校は行かなくちゃいけないの?行かなくてもいいの?どっち?」
ナゼ、ドウシテ、なんてことは考えなくてもヨロシイ!
良いこと、悪いこと、なんてことも考えなくてもヨロシイ!
はてさて、自分の心はなんて言っているだろうか?

ウチの不登校児2号は、登園拒否の時も不登校になったばかりの時も、結構明るく元気な楽しい不登校生活を送っていた。
今日は何しようかな?ドコに行こうかな?てなカンジで、結構二人であちこち遊び回っていたように思う。障害者の支援施設にお邪魔したり、手を繋いでブラブラ散歩してて学校をサボっているらしい怖いコワイ高校生の集団の真っ只中に入り込んでしまったり…イヤ=あの時は怖かった…
学校では出来ないだろう社会勉強をするには丁度良い機会だった。
私は何か問題が起こる度に、「あんな所には行かなくてもヨロシイ!」と言い放った。
フリースクールや転校や、果ては海外移住さえもおとーさんと一緒に考えていた。
ある日そんな計画を2号に伝えてみた。どれがいい?と。
驚いたことに、2号は泣きながら叫んだ。
「ボクはあの学校に行きたいんだ!
みんなと遊びたいんだ!」

ガガガガァ〜〜〜ン。。。ショックだった。

そうなんだ、2号は学校に行きたいけど行かれなかったんだ。
行きたくないけど行きたかったんだ。
タダ行きたくない訳じゃなかったんだ。不覚にも親である私達には判らなかった。
なんじゃそりゃ?!
訳が判らんゾ。困ったなぁ・・・
でもね、一番訳が判らなくて困っているのは本人なんだ。
だって、こんな矛盾した気持ちをどうしたら良いのかなんてことは、大人だって判らないもん。
大人だってこんな時は「うつ病」になっちゃうくらい、とってもとっても難しい問題だもん。
だから最近では「小児うつ」なんて病気があるんだ。


こんな風に自分の考えが両側から自分を引っ張ることを「コンフリクト」と言うらしい。
「ゲームやりたい」「宿題やらなきゃ」さぁ、どうしよう?なんてのもそう。
「ファミレスにしようか」「回転寿司にしようか」なんてのもそう。
生活の中ではいつもこんないろいろな沢山の「コンフリクト」と闘っている。決して珍しいことじゃない。
でも大抵はどちらかに引っ張られてしまう。
長い時間引っ張り続けられて、動けなくて困っちゃうことはあまりない。
それは自分の経験やなにかが、「こっちを選んだ方が良い」って決めてくれるから。

不登校って言うのはある意味「究極の選択」なんだ。
その上経験なんてしたこと無い
学校に「行きたくない」も「行きたい」も、同じくらいに、それはそれは強く引っ張ってるから、引っ張られている自分は痛いし苦しいし、しかもそれを自分がやってるからどうして良いのか判らない。
そんな自分が理解できない。
自分を理解できないなんてことは、人間にとっては生存に関わる問題なのだ!
こんなことは多分長くて短い人生でも滅多にあることじゃないのに、そんな状況に置かれているのが子どもなんだから、本人にとってはパニックなんてもんじゃない。それこそ生きるか死ぬかの問題なんだ。

だからまずは引っ張っている方のどちらかに引っ張られちゃうことが大切なんだ。
posted by チャマ at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

学校には行かなくちゃいけないの?

私の中でこの答えはYesでもあり、Noでもある。
時と場合によるだろうよ、そりゃ。

不登校にはその不登校をしている人の数だけのパターンがあると思っている。
その全部が全部、学校に行くべきとも言えなければ、学校に行かなくてもいいとも言えない。
たった一人を見てみても、行くべきとも言えなければ、行かなくてもいいとも言えない。
今は行かなくてもいいけど、行かれるようになったら行った方がいいのかもしれないし、行かない方がいいのかもしれない。
少なくとも、ウチの2号に関しては、行かれるようになったら行くべきだ。
でもそれは、誰にでも言えることじゃない。

ただ一つ不登校に対して一貫して言えることは、
まずは休みなさい!
ということ。

細かい話は追々書いていくけど、不登校になった瞬間っていうのは実はまだ
「不登校を選択した訳じゃない」
ってことなんだ。
別の問題を解決しようと思ったら、それがたまたま学校に行かないことと同じだったってだけなんだ。
「学校」っていう存在が間に入っちゃうからヤヤコシイだけの話なんだ。

学校には行くべきだという意見も、学校になんて行かなくてもいいんだという意見も、どちらも不登校の問題を解決なんてできっこない。
だって、そこには不登校になった本人の問題よりも、学校をどうしようって考えしかないから。
本当の問題解決は、学校とは関係ない自分自身の中にあるんだ。
学校に行こうが行くまいが、そんなのはどっちだって良いんだ。今はそんな余裕ぶっこいたことを考える時じゃないんだ。もっと自分のことを集中して考えるべき時なんだ。
posted by チャマ at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

学校制度ってなんだ?

学校制度というのは、文科省のサイトによると、教育の機会均等の理念の実現を目指して発足したのだそうだ。
学校教育法では、市町村は学校を設置しなければならない、とされている。
保護者が子どもに教育を受けさせる義務を履行する為に学校制度という制度を利用できるようになっている、と考えても良いんじゃないかな?
でも、義務を履行するために「学校制度」を利用することは必須なのだろうか?
ホームスクーリングだって無認可学校だって学校に行かないで塾通って勉強してたっていいんじゃないの?
義務教育は履行されるジャンねぇ。
ただ学校制度を利用していないってだけでしょ?公的な制度を利用するかしないかは個人の判断で良いんじゃないのって思うんだ。

「ホームスクーリングでも無認可学校でも、子どもに教育の機会を与えているんだから、そういう選択をすることは法律上問題ない。」というのが、多くの不登校支援団体や不登校児童の保護者の言い分だ。
ほんとうにそうだろうか?
結構がんばって調べてみた。

学校教育法には、保護者は子どもを小・中学校に就学させる義務を負うと明記されていて、義務違反にはちゃんとした罰則も書かれていた。
ありゃりゃ、知らなきゃよかったなぁ〜、なんてチョット思ってみたりした。
就学できないという認定をされない以上、どんな形で教育を受けていても学校に行かない限りは義務の履行違反なんだ。

「義務教育ってなんだ?」では「法の目を掻い潜る」って書いたけど、本当は全然掻い潜ってなかったんだね。なんだかチョット残念だったりする。
だって、「学校なんて行かなくてもいいんだ!」って大声出してる元気なおばちゃん達が「学校制度の変えるかもしれない」って、なんとなく思ってたところがあったから。
私自身は学校制度なんて変えたって意味ないしぃ〜と思っているけど、おばちゃん達の思惑通りになったらどんな社会になっただろうかって想像すると、結構おもしろかったりする。
そして多分、あのおばちゃん達は現実として失敗しないと判らないだろうとも思うから(失敗しても他人のせいにするだろうけど)、一度やってみたら?って思うんだ。
posted by チャマ at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月12日

義務教育ってなんだ?

私が子どもの頃は「登校拒否」と言われたけど、今は「不登校」と呼ばれる。
学校に行かれないのは不登校で、学校に行かないのは登校拒否なのだろうか?

「学校制度がなかったら、義務教育でなかったら、『学校に行かないこと』が問題になることはない。」
とある児童心理学の本には、こんな風なことが書かれていた。
そりゃそーだ、学校が無いんだから。あったとしても義務じゃないんだから。
その昔、日本という国にとっての結構最近まで、学校などと言うものはなかったし、存在していても少なくとも一般庶民が国民の義務として行くようなところではなかったんだよね。

でもここで勘違いしてはいけない。
義務教育っていうのは、保護者が子どもに教育を施す義務なんだ。
子どもにあるのは、教育を受ける権利、なんだ。
学校に行くことは子どもの義務じゃない。

でもでも、更に勘違いしてはいけない。
今の日本社会に学校は確実に存在してるんだ。昔を懐かしんでも仕方無いんだ。
学校に行かないことってーのは、自分にとっては権利放棄でしかないけど、自分の親にとっては義務違反になってしまうのだ。
義務違反したからって親に実際の罰則があるのかどうか、ちょっと調べてはみたけど判らなかった…
学校に行かれない正当な理由があると認められれば義務違反にもならないらしい。
でも確実に世間の風当たりは過去最大規模で強風になることは間違いない。

ホームスクーリングっていう手もある。
学校に行かないで家で勉強する。学校に行かないでそういうことを勧めている団体の施設などで勉強する。
その方法も、親が先生になる方法、誰か先生に家に来てもらう方法、自分が「やりたい!」って思った勉強だけをする方法…いろいろあるらしい。
アメリカあたりじゃ特別なことじゃぁないらしい。

個性の尊重が声高に叫ばれる現代にあって、義務教育のスタイルも個人の選んだ自由なスタイルで行えばいいんじゃないの、というような風向きが見て取れる。
自由!
ステキな響きだ。
でも本当の自由とはいったいなんだろうか。
少なくとも、自分勝手とは違う。好き勝手とも違う。やりたい放題とも違う。
反社会的な行動を正当化するために使う言葉とも違う。

確かに日本の法律では「子どもが学校に行く義務」はないけど、だから行かなくてもいいんだ、と言ってしまうことは、まるで法の目を掻い潜る悪徳商法みたいじゃないか?
自分だって不登校の親じゃないか、って言われるかもしれないけど、「学校になんて行かなくてもいいんだ」と言われることは実に不快だ。
私は自分の子どもにそんなマルチ商法みたいな小ズルイ生き方をして欲しくは無い。
posted by チャマ at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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