2005年06月27日

学校を考えてみた @

とあるサイトで、「学校とは」みたいな議論をしているんだけど、私もそこに参加していて、かなり長いスレッドになっている。
そして不思議なことに、時期を同じくしてツネノさんのブログでも、Lazyさんのブログでも、「学校」について触れられている。
「学校」というのは、「教えてもらう側」が集まって「教える側」の指導のもとに、一定期間に一定の技能とか知識とかを組織的に学ぶ場所。
だから茶道教室だって空手道場だってパソコン教室だって「学校」なんだけど、ナゼか「学校」と言うとまず頭に浮かぶのが「小・中・高・大学校」のことであるのは、私だけじゃないはず。
多くの日本国民にとって最もポピュラーでスタンダードで、「学校」の典型例というのが、小学校とか中学校とか高校とか大学なんだ。
そりゃそうだろうなぁ、国民のほとんどはそこに関わるんだからね。

不登校を考える時、当然のことながら「学校ってなんだよ」を考えることは誰もが通る道、ってカンジなんだろうけど、これには二つの道があると思う。

その1 自分が否定したモノ、拒否したモノだということを肯定するために考えること。
その2 冷静な第三者的な視点から見直すこと。


自分にとって「学校とは」を考えるだけなら、その1だけでも良いのだと思う。
けれど、社会にとって、自分以外の様々な人にとっての「学校とは」を考えるなら、その2の視点から考えるべきなんだ。
実はこれはとてもシンドイ!
自分が拒否したモノ、否定したモノを冷静な第三者的な視点から見ることは、余程自虐的にならないと出来ないんだろう。

学校に限らず、自分の人生のイロイロを考える時、その時期というのも重要な役割を占める。
人は生きて行く中で、過去の出来事を意味付けしながら生きて行くのだそうだから、自分の現状によってその出来事の意味は変わってくるんだろうって思う。

更に学校は制度の上になりたっているし、社会の、人生の一部でもある。
そうなってくると、タカダカ学校なんてもんを考えるのに、義務・権利・個性・自由・平等・存在意義・自主性・自律性・適応・社会性。。。なんてことまでも考える。
そういった概念は個々によってその解釈の仕方や価値観が違ってくるものだから、一つ一つについて「自分はこう考える」を検証していかなくちゃならない。
考え始めると、まるで底なし沼みたいだ。
これらを一つ一つ「その1」の視点で考えるのか、「その2」の視点で考えるのか、両方で考えるのか、いずれにしても相当にシンドイ作業だ。
そんなシンドイことなんかしないで、「もっともだな」と思える人の意見を丸ごとゴロっと取り込んじゃう方が楽だ。
時にはそうやって流されてしまうことも必要かもしれない・・・

でも不幸なことに、私は心底「もっともだな」と思える意見に出会えなかった。
自分が登校拒否をしていた時には、幸いにも近所に引っ越して来て同じクラスに転校してきた友達が大きな支えになって、担任も変わって、なんとなく学校に行くようになったから、結局は何の問題も解決しなかったんだろうと思う。
ところが自分の子どもが登園拒否やら不登校やらになって、その深さや広さは人様よりは劣るのだろうけれど、私なりにいろいろなことを考えて、途中には「学校不要論」にまで行き着いて、最終的に今のところ
「個性的に生きることに、学校に行くことも行かないことも関係無い」
というところに流れ着いている。

Aに続く(近日公開。。。予定は未定
posted by チャマ at 21:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月02日

フツーってなぁに?を考えてみた A

ハルさんのコメント

「皆、人と一緒だと安心するのよ。
 違っていると不安になるわけ。

 だから、「不登校」なんていう言葉を作ったりして区別しようと
 してるんじゃない?」


このコメントは私にとっては的を得ているなぁ〜って思う。
「フツーってなによ!」って言いながら「社会は不登校を認めろぉ〜」って言ってる人たちって、結局不登校を例外じゃないフツーの存在にしようとしているだけジャン、って思っているからなんだ。
ナンダカンダ言っても、「フツーってなんだよ!」なんて言ってみても、やっぱり人って「皆一緒が安心」って生き物なんだろうな。。。
良いも悪いも関係なくて、「安心」なんだよなぁ〜。
つーことは、居心地が良いってことなんだよなぁ〜。ナンダカンダ言ってもさぁ・・・

私は緊急措置としての「不登校のナニが悪い!」はゼッタイに必要だと思う。
でも少し心に余裕が出てきたら、やっぱり「自分をしっかり見つめなさい」って働きかけをしてあげるべきだと思う。

直接的ではないのかもしれないけど、フリースクールで子ども達が自主的にいろいろなことをやっているっていうのは、結局そこから「素直に自分を見つめる」ことが出来るようになるんだと思う。そうやって巣立っていった人たちは、一度は逃げてしまったのだろう社会や集団やフツーってものに対して微調整が出来るようになっているんだろう。
でもあまりに社会に対して「不登校のナニが悪い!社会が、学校が悪いんじゃないのさ!」というメッセージを発信し過ぎることは、微調整することを否定することになってしまうんじゃないだろうか?そしてそれをそのまま受け止めてしまった人たちは、巣立って行かれなかったり、巣立ってもまたなんらかの問題を抱えることになるんじゃないだろうか?
なぁ〜んて、人ンちのことはいろいろ言わなくても良いのだけれどね。
これは余計なお世話でした。

でもやっぱり緊急措置としての不登校のナニが悪いは必要だと思う。
でもやっぱりいつまでもそれで良いのだとも思わない。
それがフツーとは言わないが。。。
不登校には確かに時間がたっぷりある。トコトン考えれば良いのだ。
でも親の側には時間がたっぷりある、とは言えない場合がある。

ウチのような待った無しのローンレンジャーには、残された時間はあまり無い。つーか、ほとんど無い。イヤ、もう既に無い。
それがフツーとも言わないが。。。

「オレ」の言動が他者に影響するように、他者の言動が「オレ」にも影響する。
それがフツーなの。
超特別優遇措置を当たり前と思っているらしいウチの2号は、このフツーをどう受け止めるのだろうか。
その時彼はどうするのだろうか?
「フツーってなんだよ!」って言うだろうか?
posted by チャマ at 15:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フツーってなぁに?を考えてみた @

フツーって何だろう?
ジョーシキとかアタリマエって何だろう?

自分にとっての普通や常識や当たり前は、他者にとっても同じだとは限らない。
なんとなぁ〜く社会の中での普通とか常識とか当たり前と言われているらしいことだって、特定の誰かにとってはそうじゃないことがある。
だから普通とか常識とか当たり前とか、そんなものは本当は無いのかな?
だからそんな訳の判らないものは否定しちゃって良いのかな?

そんなモノは実は無いんだから気にすんなよ、なんてことを言い出したちゃったら、正しい行いなのか悪い行いなのかなんていう基準だって「その人任せ」で良いってことにはなってしまう。
イヤイヤ、確かに普通とか常識とか当たり前の基準んなんていうのは、その人任せなんだけど、大体の線?ナントナクの線での「ここまで」というのはあるんだと思う。
だから、普通とか常識とか当たり前なんて細かい部分までの統一見解は存在しないんだろうけど、でも確実に存在しているものなんだと思う。
そして法律とかルール以前に、曖昧だけどなんとなくのそういうフツーから極端にはみ出ないことで、社会の秩序って保たれるんじゃないだろうかって思う。
でもそれだけでは保たれないから、明確な線引きとしての「ルール」が作られるんだろうって思う。
ルールを基にした普通とか常識とか当たり前じゃなくて、そういったものを基にしてルールが作られたんだろうって思う。

普通とかいうような曖昧なモノに対して、四角四面でガチガチに思えるルールにだって例外がある。
例えば、救急車や消防車が法廷速度を守っていたら意味無いしぃ〜、ってこと。
ところが例外である筈の緊急車両でさえ、交差点では徐行したりすることがある。
例外であっても「オレにとってはフツー」だから何でもアリって訳にはいかないってことなんだ。
「ルールを守ることが当たり前・常識・普通のこと」でもなければ、「例外だからなんでもアリ」でもない。
それはルールだけじゃなくて、普通や常識や当たり前にも言えるんだと思う。
どの程度ルールや普通に合わせるか、どの程度アリにするのか・・・
その時の状況に合わせて自分で考えて微調整する必要がある。
「こーゆー時はこうするのよ。」って、アレもコレもマニュアル化されていれば楽なんだけど、それこそそんなマニュアルが「フツー」とされてしまうことは人それぞれな人間にとって困っちゃうことになる訳で、だからこそその都度その都度、自分で迷ったり苦しんだりしながら微調整をする必要がある。
そしてその微調整を元に自分が行動することになるんだろうなぁ。
そして更にそういう微調整をするためには、自分自身のいろいろについて正確な判断が出来ていないと出来ないのだろうし、間違ってしまうのかもしれない。
まぁ、間違ったらやり直せば良いのだけれど、出来ないというのが一番困っちゃうんだと思うんだ。

そんな微調整を必要とするのは、自分以外の人間が関わってくるからなんだろう。
「オレ」の行動は確実に何らかの影響を他者に与える。
○○学なんて難しい見地から見なくても、生きていればそんなことはなんとなく判るもんだよね。
自分の周りにいる他者のことを考えすぎることは、結局自分が辛くなる。
あまりにも他者のことを考えないことは、結局自分の居場所を無くしてしまうことになる。

自分の居場所っていうのは、こういう微調整が大体同じようなところで落ち着く人たちが居る場所、ってことなんだろうって思う。
自分にとってのフツーがフツーである場所なんだと思うんだけどな。

Aに続く


posted by チャマ at 14:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月27日

シンプル イズ えくせれんとぉ=

当事者学なるものが存在することを、イワユルK祭りで初めて知った無知な私。
未だにヨクワカリマセン。
イワユルK祭りを眺めていても、「結局学校に行ったアンタなんかまがい物ヨ」みたいな感情があるように思えるんだけど、「そんな人は当事者とは言えない」なんて意見もある。
それこそ「悲劇の味わい」つーか、「私の方がより不登校らしいから、私の言っていることが当事者としては正しいのよ。」って言っているのと同じジャン。
不登校に、学校に、一番拘っているのはそんな不登校経験者じゃないの?なんて思う。

同じ辛い経験をした人間に対してどうして「オマエはまがい物」みたいなことが言えるんだろう・・・
「不幸比べなの?」なんて思ってしまう。

何度も書くけど、私は「不登校は終わらない」という本は読んでいません。
ココに書いている内容を批評するなら、ちゃんと読んでくれ。そこのキミ!
だからこそ、イワユルK祭りを思い切り真剣に受け止めている人の「関係サイト一覧」に、私のブログは入っていないのだよ。
あ、イヤ、ただ気付かれていないだけかもしれないけど。。。
Oさんの生の声を聞いて、世間で言われるところのシ○ー○信者の人たちと接して、もう一冊の「不登校、選んだ・・・」を読んで、そういう立場でこの騒動を眺めて思うことを書いているのです。
結局は学校に行った元登校拒否児・現不登校児の母として。そして不幸比べにはゼッタイに参加したくない者として。。。
いい加減、K擁護だのシ○ー○擁護だのなんて観点から抜け出しませんかねぇ。
学校から解放されませんかねぇ。


不登校は確かに不登校だから不登校なのだけれど、不登校だけをもってその人間を言い表せるものではないし、それだけが人格を形成している訳ではない。
子ども達が学校に行きたいと思うのは、学校には行くべきという慣習がそうさせている訳でもないと私は思っている。
社会に繋がっていたいという生得的なナニカがあるように思う。
向上心というものを持っているがために人と比べることもするし、そのためにとてつもなく曖昧な基準の、だけど確かにあるフツーなんてものを意識するんじゃないだろうかとも思う。
自分がどこに居るのか判らなかったら、どこに行きたいかも判らないでしょ?向上するには今の自分を確認する作業って必要なんだって思う。
それが学校という場所にあるから、そして学校という場所では確実にそういった欲求を満たすことが出来るから行きたいと思う、思うというよりもそういうナニカの働きがどこかにあるんじゃないだろうか?
口から出てくる「行きたい」とか「行きたくない」なんていう言葉は、あくまでも言葉でしかない。
言葉でナニを言っても、いろんなところにその「ナニカ」は現れてくる。自分では判らないのかもしれないけど・・・
学校に行かれなくて辛いのは本当に、世間がそうさせている、だけなのかな?

それは自然の流れなんだろうと思う。その流れを不自然な形で止められてしまうから、不登校や登校拒否は辛いんじゃないのかな?
不登校の正否、学校の正否、社会性の正否、適応の正否、などなどなど、こんなことを論じるのは学者さんたちだけで勝手にやってくれって思う。
大体がそういった議論で念頭に置かれているそれらのコトっていのは、極端過ぎるモノだと思うんだけどなぁ…現実味が無いっていうか、なんて言うか。

本当に楽しい人生を送るなら、そんなことはどうでも良い。
本当の自分はこうしたいの!ってことを貫けばいいんじゃないのかな。
犯罪はダメだけど。。。
あ゛〜間違えた!って思ったら、その時に「ごめんなさ〜い」ってやり直せば良いじゃないのかな?
シンプル イズ えくせれんとぉ〜、だと思う。



追記 H17.11.2 支障があると思われる固有名詞を記号化しましたゾ。
posted by チャマ at 23:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月25日

アチラを立てればコチラが立たず、ってことかな。

オルタナティブ大学=ばれいしあさんがコメントを下さった。⇒コメント

ばれいしあさんは、

>社会の構造または機能のシステム的な問題を中心に問題を立て、解いてゆこうと試みています。

というお考えのようで、ナゼならば

>子どもを学校に追いやる社会の政策や構造こそ問題なのではないでしょうか? それは登校・不登校を超えて同じテ−ブルで議論すべき問題だと思います。学校化された社会ということです。学校が学習資源を独占する。独学の価値をおとしめる社会がある。学校に行くほうが学習効率が悪いのにそうしなければならないことに法律や慣習上なっている。それこそが諸悪の根源です。子どもや親が悪いのではないのです。

だから、ということなのでしょう。

こういった考え方はばれいしあさんに限ったことじゃなく、そこかしこに見られますし、また、社会の政策や構造・機能のシステムの変革を叫ぶ声は不登校に限ったことでもありません。
当然のことながら、それぞれの方達がそれぞれの立場から要求しているそれらの全てを満たすことは出来ないのです。それぞれの立場から同じテーブルに座った方達は、それぞれに幾ばくかの妥協を迫られます。
学校制度一つとってみてもそれを変えようとする時には、教育者としての視点、被教育者としての視点、行政・管理する者としての視点、それを取り巻く地域としての視点、保護者としての視点…などなどなど、様々な立場からの視点があり、同じ立場の中にも更に細かい別の立場からの様々な視点があり、同じ視点からであっても様々な意見が存在します。
たった一つの制度を取り上げてみても、「登校・不登校を超えて」というだけでは不十分な議論なのだと思います。

社会というのは人間が生きて行くための便利ツールなのだと思うのですが、そのツールを便利に使うのが特定少数ではならないのだと思います。社会の中での「大凡こうあるべき」ということに関しては、その基準はそこに所属する者の最大公約数であるべきなのだろうと思います。
社会学などというモノを学んだことはないですが、今まで生きて来てなんとなく「こんなカンジ?」と思うのです。
そして不登校を抜き取った後に残る自分の置かれている様々な立場から「不登校関係者が社会に要求しているモノ」を眺めた時、あまりに不登校本意なその要求は不快でもあります。

ばれいしあさん
>わたしはシュ−レをはじめフリ−スク−ル、ホ−ムスク−ル、親の会その他の公教育以外の教育や子育ての方法を求める活動が、世間の圧力や政策によってつぶされることを危惧して
とおっしゃっていますが、そういった圧力や政策の基になっているのは、活動やそれに関わる方たちの言動に「他の立場からの異論を認めない、考慮しない」という姿勢が見て取れるからなのだということは考えられないでしょうか?
「ホームスクーリングしてますからぁ〜」なんてことで言い逃れて、子どもの教育を受ける権利を守らない親がいないとも限りません。法を整備したところで、児童虐待やネグレクトですら無くならない現状を考えると、いったいどこまで守られるやら。。。。。
誰からも不満が起こらないように考慮し、あれもこれも要求された通りになったとしたら、税金負担ってどうなるんでしょう?すでに借金地獄のわが国ニッポン…下世話な話で恐縮ですが・・・
不登校からすれば前進的な変革が、他者からしたら後退的な変革に成り得るのだとしたら?
だからこそ、社会学者などと呼ばれる方たちが関わってくるのではないかしら?なんて。。。これまたナントナクですが、そう思うのです。

いずれにしても、2号や他の私の周りにいる不登校の子ども達は、学校に行くとか行かない以前の問題を解決するべきなのだと思えます。
学校という存在が無かったら表出しなかったかもしれないし、不登校になったがためにそうなってしまったのかもしれないし、その問題を抱えていたからこそ不登校になったのかもしれない。
いずれにしても、何らかの形で学校に絡んではいるのだけれど実は学校とはかけ離れたところでの、彼等・彼女等の人間らしい部分?の問題なのです。
自分本意だったり、すぐにキレたり、なんでも「自分は悪くない」だったり、必要なことでも嫌なことはゼッタイにやらなかったり、ウソをついたり、お金で吊って友達を作ったり・・・
そこに学校制度とか社会とか適応とか、そんなものは関係ないように思えるのですけどね・・・
子ども達がそれぞれの問題をクリアーした後、学校に行くならそれも良いし、「いやぁ〜、もうコリゴリ!」と思えばそれも良いのではないですか?
ウチもお世話になっている「適応支援教室」のお陰で、どちらの選択もできるような状態になっていますよ。
ただし、これも税金による行政サービスですけどね。。。
納税者の皆様、すみません(^^;)
posted by チャマ at 15:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月23日

逃げて良いモノ、ダメなモノ

結局私の中での不登校は、学校なんてどうでも良い、の一言に尽きる。
行きたきゃ行けば良いのだし、行きたくなきゃ行かなきゃ良いのだ。
学校制度でどう決まっていようとも、本人が権利を放棄したのだから何の文句もないでしょ?
国力が落ちる?
オイオイ、そういうことは高学歴なエリート上層部のお歴々が税金を温泉のかけ流しと勘違いしなくなってから言ってくれって話じゃないかい。国力を落としているのはいったいどっちだって話だ。
どんなに腐った国になっても、どんなに腐った星になっても、人間は今のところこの星からは逃げ出せない。
どこの国に行ってもどこかしら腐った部分はあるだろうし、例え今すぐ新しい星に逃げ出せたとしても、今と同じ生活を送ることはできない。
さてどこで生きて行くのか、それは本人の自由。
何に妥協し、何に妥協しないか。
それはほんのチョットした身の回りのことにだって当てはまる。
自分がしたくない妥協は出来るだけしないで済むように、脳みそ全開で考えれば良いんだろう。
自分が望むものを手に入れるために、何を捨てて何を残すのか。
何物をも妥協せずに望むものが手に入るならそれに越したことは無いけれど、世の中全てがそんなに都合良くは無いのだから、自分が持つ価値観に合わせて選別するしかない。


ウチの2号に関して言えば、「妥協はしたくない、でも望むものを手に入れたい」の一点張りなのだ。彼が望むモノとは「学校に行くこと」
なぜそんなに学校に行きたいのか、私は未だに判らない。
2号にも判っていないらしいけれど、「学校に行きたい」という気持ちだけは強いらしくて、その狭間で苦しんでいる様子を見かねて「学校に行かない選択」もアリなのだと説得してみても、ガンとして「学校に行きたいのだ」と譲らない。
ヤレヤレ、おとーさんに似てガンコだなぁ・・・
そんな彼は、「学校に行くこと」にも妥協できず、「学校に行かないこと」にも妥協できない。

彼が苦しい原因は、学校に行きたいけど行かれない、なのだ。
そんな彼が解決すべき問題は不登校なのだろうか?
私には学校に行くとか行かないとか以前に、人間としてのもっと基本的な部分、妥協できないことに問題があるように思える。
学校に関係しない日常の小さなことにでも、あれもイヤ・これもイヤ・でもこうしたい、という場面があるのだ。

2号の学校に行かれない理由は時期によって違うけれど、今は「漢字が覚えられない」ことだそうだ。
そんなに行きたいのなら漢字を猛勉強すれば良いのじゃないだろうか?
漢字なんて出来なくても良いじゃないか。いっそのこと、漢字なんて捨てちゃえ。
でもそのどちらもイヤなのだそうだ。
だったら学校に行かれないことを受け入れて、学校に行かないという選択をすれば良いじゃないか。
望むモノを捨てれば良いのじゃないだろうか?
でもそれもイヤだと言う。
どれにも妥協できず、「つまらない、つまらない」と言っては家に居る。
「中間教室よりも学校の方が楽しい。中間教室では国語をやらされるからイヤだ。」と言いながら、最近では行ったり休んだり、忘れた頃学校に行ってみたり。。。
野球をやっている時以外の彼の日常は、まことにつまらなそうだ。
でも「中学に行かないと野球を続けられないのなら、野球は辞める」と言っている。
アラアラ・・・
彼自身だってそんなつまらない人生は不本意らしいのだけれど、だからと言ってイヤなことをやろうとか、掴めそうに無い望むモノを捨てようという気もない。

登園拒否以来、周囲の大人からは
『背中をポンと押せば行かれそうなのにね』
と言われ続けているけれど、未だかつて「背中をポン」の具体的なやり方を教えてくれた人はいない。なんなんだ、背中をポンって・・・雰囲気じゃなくて具体的に言ってくれ。学校に行くでも行かないでもどっちでも良いから、実際にポンとやって見せてくれよ、と言いたい。
おっと、脇道にそれてしまった・・・

2号のこういった行動というかは、登園拒否をする以前では考えられないことだった。
どちらかと言えば、自分が望むものを手に入れるためには猪突猛進だったんだけど。。。
そんな彼があれもこれもイヤだとなってしまった原因は何なのか、私には判らない。
年齢とか成長とかというものに関係するのか、登園拒否や不登校というようなイベント?が原因なのか、それともそういった一連のイベントで私が取った行動がまたは、ガラリと変わってしまった環境が原因なのか・・・いずれにしても過去は変えられないのだから、原因が判ったところで現状が変わることはあまり期待できないのだろう。
よく言われる「幼児期に泥んこ遊びしなかったでしょ?」なんてことは、今更言われても仕方無いことなのだ。2号はドロ玉名人だったのだけど、泥んこ遊びをしてなかったとしたら、だったらどうだと言うのだろうか?今からやれば良いのかい?そしたら彼の問題も解決するのてぇのかい?
おぉ〜っと、また脇道だぁ。

私は2号に自分で決めて欲しい。時間がかかってもいいから、どれでも良いから、自分で考えて自分で選択し自分で行動して欲しい。
流石に毎日ではないけれど、たまにはあらゆることから逃げまくっている2号にを入れる。
「いい加減腹を括って自分で動け!」って。
「それは2号クンの年齢ではまだ無理です。酷ですよ、お母さん。」
何度学校の先生方から言われただろうか。
その通りなのかもしれない。
そんなことは放っておけば自然に身につくものなのかもしれない。でも身に付かないかもしれない。
2号にとっては余計なお世話なのかもしれない。でも必要な働きかけなのかもしれない。
先生達は「登校」への誘導をするべきだと言う。
う〜〜〜ん、登校であれ不登校であれ、どちらかの方向性に誘導くらいはするべきなのだろうか?
より2号が選択しやすいようにするべきなのだろうか?
我が家の基本方針は、2号が学校に行きたいと望む限りは登校に向いている。
それに学校という場所は、「行きたくない場所」だというタダそれだけで存在価値があると思っている。(適度に)行く価値はあると思っている。
でも私達が望んでいるのは、登校でも不登校でもなくて、2号が自分で歩き出すことなんだ。
無理だとしても、2号が自分で選ぶこと・動き出すことが解決なんだと思っているんだ。

学校は逃げて良いモノだと私は思っている。
でもどれにも妥協できずに望むモノを手に入れたいと思っているような有り得ない生き方からの解放からは逃げてはダメなんだと思っている。
2号が抱えるそんな問題を解決した結果が学校に行くという不登校の解決と被っていることは有り得る。
逆に、学校に行かないという不登校を解決できない結果であることも有り得る。

不登校が全てウチのようなのだとは言わないけれど、不登校の解決と自分の中にあるナニカの解決が被ることはあっても、それらは分けて考えなくてはいけないのだろうと思う。

posted by チャマ at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月22日

いい加減食傷気味

オルタナティブ大学さんからトラックバックを2つ頂いた。
2つ共にSー○関連の話題なのだけれど、正直な話、これでもか!と言うほどに「Sー○を理解しろ・認めろ」=「理解できないのはダメ親だ」=「あなたは不登校を理解していないのよ」的なエントリーにはうんざりしている現状であるダメ親な私でございます。
それらのエントリーを見るにつけ、それがそのままTBされてきた「悲劇の味わい」に書かれている人々の姿とダブってしまう。
そして、どうしても馴染めなかった「Sー○ご当地支部」的な地元の一親の会の人々の姿もまた、「悲劇の味わい」に書かれている人々の姿とダブる。
過去にSー○に足繁く通った彼女たちが行なっていることは、そのままTBされたエントリーに書かれている
『うまくいかないと、「あなたのせいだ」と目の前の本人を責める。あるいは、自分好みの信仰や信念をイデオロギ−注入することもある。
 本人が本当に自立的に抑圧に立ち向かおうとする。あるいは冗談ではなく本気で個性的に生きようとする。そうすると真っ先に怒りを示し、やみくもに反対してつぶそうとするのもこの種の人々だ。』

に当てはまる。

私は学校崇拝思想にもSー○思想にも縛られない不登校の親でありたいと思う。
それ以前に、不登校にも縛られないタダの親でありたいと思う。
だからこそ、ココでも不登校のことを書いても「不登校の問題に学校に行く行かないは関係無い」なんて耳タコな程書いているんだけど・・・
子ども達が自ら望むモノ、コト、自分の姿、それは彼等が自分自身で掴み取るしかない。
それが学校という場所にあるのなら、そこに行くしかない。それだけの話なのだ。
学校に行かないことで掴み取れるのなら、そうすれば良い。それだけの話なのだ。
どんなことであれ、それらを手にするためには彼らが自分で考え行動を起すしか無い。
けれど、何もせずに望むモノが手に入らないことに対して四の五のゴチャゴチャと文句を言う事は、おとーさんにも私にも許せないことなのだ。

これだけはタダの親として譲れない。

でも、こんな「学校に行かないことに拘らない」私達に「不登校を理解していない」という烙印を押すのは、誰でもない「Sー○に関わってきた人たち」なのだ。
私達は確かに「不登校の親」なのだけれど、それ以前に「我が子の親」なのですよ。なんでもかんでも不登校に結びつけるのはやめて頂けませんかねぇ?
それ程まで不登校に、学校に、学歴信仰に、社会に、いろいろと必要以上に面倒なモノに拘っていれば、そりゃー不登校なんてのは悲劇だわなぁ、なんて思ってしまう。

不登校の子どもを持つ親は、あらゆることを不登校を基準に考えなくてはいけないのかい?
学校に行くなんてことを、適応だとか学歴信仰だとか個性の埋没だとか、是非ゼヒそんな小難しいことに絡めて考えなくてはいけないのかい?

お腹が空いたらご飯を食べればヨロシイ。
野球の試合に勝ちたかったら練習をすればヨロシイ。
親が出来ることといったら、子どもの食べるモノや練習する環境を用意することなんだろう。
「食べるのが面倒くさい」とか「練習は嫌いだ」と言うのなら、空腹をガマンすれば、試合に勝つことを諦めれば良いのだ。その時は空腹にも負けた試合にも文句を言ってはいけないのだよ。
どちらを選択するのかは、子どもが決めれば良いのだ。
「ご飯を食べるなんて面倒なことはしたくないし、でも空腹はイヤだ」
「練習なんてしたくない、でも試合には勝ちたい。」
なんて言っている子どもには、そんな都合の良い生き方なんて有り得ないのだということを教えるのが、親の・大人の役目でもある。
ウチの場合、それがたまたま「学校」に関してのことだったというだけのこと。

タダ単に「学校へ行く」ということだけを考えると、私達親の1号と2号への扱いは全く逆の方向性なんだけれど、それは当たり前でしょ?別の人間なのだから。
学校へ行くとか行かないとかなんてことの前では、人格も個性も抱えている問題の別も、全く関係無くなってしまうらしい。
それこそ悲劇だと思うけどなぁ。。。
不登校という悲劇の味を思い切りかみ締めちゃっているように思える。
そんなガチガチにコリ固まったモノの考え方はいやだなぁ・・・
人と付き合い始めるとき、まず適応だとか社会性だとかナントカスキルなんてことを考えるかな?
そうじゃないよね?
でももしそうなのだとしたら、それこそ悲劇だよなぁ・・・
というよりも、やたら疲れる人生だよなぁ・・・

なんだかいつも同じようなことを書いているような気がする。
詰まるところ、言いたいことはいつも同じなのだと言う事なのだけれど、それは何度書いてもきっと変わらないんだと思うよ。
Oさんが講演会でおっしゃられたことの大半(全部じゃないけど)、私が自分で体験したS○ー○を支持している人たちの言動、こういう事に対して私自身が納得も賛同もできないのだから。
そしてそこにこそ、オルタナティブ大学さんがおっしゃるような悲劇を味わっているなぁと感じられる人たちがいるのだから。
Kさんの本を読んでS○ー○に対して賛同できないという感情を抱いたのではなくて、賛同できない体験の後にKさんの本を読んだ。
Kさんの本、でも話題になっている方じゃなくてもう一方の「不登校、選んだ…」なんだけど、これには私は賛同できたという、タダそれだけのこと。
彼女のバックに誰がついていようが、どんな思想だろうが、どんな学問だろうが、どんな手続きをしたものだろうが、そんなことは全く関係無くて、もっと言うならば彼女が金髪だろうが白髪だろうがスキンヘッドだろうが全然関係なくて、「あらヤダ、私と同じ感想をお持ちのようだわぁ〜」って思ったんだというのが事実なのだから。
Kさんに関する難しそうないろいろな問題をいくら議論したところで、それらが解決したところで、Oさんがどんなに暖かいお手紙を認められる方だと判ったところで、私の実体験が無くなることはない。
不登校を経験した人の不登校体験が、Sー○に通った人のそういった体験が、天地がひっくり返っても無かったことにはならないのと同じように。。。





追記 H17.11.2 支障があるだろうと思われる固有名詞を記号化してみました。
posted by チャマ at 23:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月13日

不登校が苦しいのはなぜだろう…

前にも書いたけれど、不登校というのは学校に行かないから問題なのですよね。
でもそれは社会にとっての問題であって、学校にとっての問題であって、子ども自身にとっては問題でもなんでもないとは言えないのだろうか?

学校や社会や対人関係において、異常なくらい過剰な適応を求めれられる現代にあって、そんな状況の中に居続けられることの方が私には摩訶不思議・・・不登校になることの方が正常なんじゃなかろうか?なんて思える。
そんな中で不登校になることの、どこに問題があるというのだろう。

ところがそんな摩訶不思議・理解不能な学校であるにもかかわらず、そこに行かれない自分を一番認められないのは当の本人なのだろうと思えるのだ。
いやいやそうじゃないよ。周りが不登校を認めてくれないんだよ。とおっしゃる現役不登校や不登校経験者がいるかもしれない。
でもチョット冷静になって自分が不登校になった時、その最初の頃のことを思い出してみてはくれないだろうか。
周りの大人が不登校をしている自分を理解してくれない、なんて考えるようになれるのは、不登校になってからしばらくしてからじゃなかったかな?私はそうだったんだけど・・・
最初の頃の、なんとも言えないイヤァ〜な感覚、今どんなだったのか思い出そうとすると吐き気に似たようなナニモノかゾワゾワしたモノが記憶なのか今の感覚なのか判らないけれど、そんなおかしなモノがこみ上げて来るのは、当時の親や社会や周りの無理解がそうさせるのだろうか?
なんか違う、もっともっと切羽詰ったような、なんか違う・・・よく判らないけれど…

例え学校がどんな場所であったにせよ、行かなくてはならない場所である以上、そこに行きたくないと思う自分がいて、そんな自分に負けてしまったダメな自分というような、でもそんな確かな気持ちじゃなくて、なんとなくモヤモヤしたトゲトゲしたイヤァ〜な気持ちは不登校の最初には誰もが持つんじゃないだろうか?私だけだろうか?
他の人はどうなんだろうか?
自分が登校拒否した最初の頃、戦う相手というか、なんとか消化しようとするモノはそんな自分自身だったように思う。
だからこそムチャクチャ苦しかったのじゃなかろうか、とも思う。


じゃあ学校が行っても行かなくても良いような場所だったらどうだったろうか・・・
息苦しさは少しは軽くなっただろうけれど、やっぱり苦しかったんじゃないだろうかって思う。
その息苦しさというか、モヤモヤ感は、学校という存在が原因ではないような気がする。

不登校の原因は学校にある。そりゃ不登校だから当然だ。
でも不登校が苦しい理由は、本来ならば打ち勝つべき自分に負けてしまったダメな自分の存在にあるんじゃないだろうか?
そんな自ら「ダメ」と決め付けてしまった自分自身を、真っ先に受け入れなくてはならないのは親でも社会でもなく、紛れも無く自分自身なのだと思う。
それが出来て初めて、親が、学校が、社会が、なんてことを考えられるようになるんじゃなかろうか?
いやいや、もしかしたら自分自身を受け入れることができないからこそ、親が、学校が、社会が悪いという発想になるのかもしれない、とも考えられるのか?
そう言えば、自分自身の登校拒否でそう思い当たる節も・・・ここら辺りはもうちょっと考えてみようと思う。

自分自身をどうやって受け入れるのか、どんな自分を受け入れるのか、それは人それぞれ違って当たり前だし、そこにも正解なんてものはないのだ。
自分はダメじゃないんだと受け入れることも、ダメな自分として受け入れることも、どちらも間違ってはいないと思う。今のままで良いと思うことも、このままじゃダメだと思うことも、間違っていないと思う。
自分を受け入れる、ということ、ただそれだけが正解なんだと思う。

それが出来ない時、誰かの助けを必要とするのだろう。

支援してくれる人(時には複数だったり団体だったりだろうけど)が、「親の育て方が悪かったんじゃない。」とか、「あなたは決してダメな子じゃない。」という言葉を伝えてくれることは有り難いことだと思う。
「学校が悪い、学校にナンゾ行かなくても良いのだ」という意見に、「学校に行きたくないという気持ちは当然だよ、決してダメな自分なんかじゃないんだよ」という意味も含まれているのだとしたら、まったくその通りだと思う。
ただしそれを伝えるための言葉の選択は思い切り間違っていると思うけど。。。
そういう支援によってやっと息苦しさから抜け出せるってもんだ。

でもその一方で
「そんなダメな自分を乗り越えなくちゃ!」なんて思っている子どもだっているのだ。
ウチの2号はどちらかと言えばこっちなの。
マニュアル通りに「学校にナンゾ行かなくても良いんだよ。」と言ったところで、そんな子どもにはなんの効果もなかった。逆に「ボクは行きたいんだ!」と泣かれてしまった・・・
更にたまぁ〜に行く学校は、2号にとってそれはそれは楽しいところなんだから、始末が悪い。
こういう不登校にはそれなりの支援が必要なんだろう。
学校に行きたいけれど行かれないという不登校。
2号に関して言えば、彼の望みをかなえるためには逆に学校に行くことを無視しないことには、彼の望みをかなえる道はない。
登校支援というよりも、一言で言うならば、育て直し、ということになる。
親としては登校するしないはどうであれ、育て直しが必要だなぁということはその通りなのだから、
育て直しを登校支援に絡めることは一石二鳥ということなんだ。誰からも文句を言われる筋合いはないのだ。

やっぱり「学校なんて行かなくてもいいんだ。」と思っている不登校にも、「学校に行きたい。」と思っている不登校にも、学校なんて関係ない、って思う。
不登校の原因は確かに学校にある。
でも解決するべきことは、自分の中にあるのだと思う。
posted by チャマ at 22:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

不登校支援

不登校支援・・・この言葉の意味を考える時、そこにはその人が持つ「不登校」というモノへのスタンスが見えてくるのだと思う。

不登校を否定し、登校への支援をするという意味を当てはめる人。
不登校を肯定し、不登校のままを支援するという意味を当てはめる人。


これは流石に極論だろうけれど、前者を登校支援、後者を不登校支援、という言葉に分けられるのかもしれない。
あえて分類すればそうなるのだろうけれど、それぞれの人の中には例えば7対3とかいうようなカンジで、登校への是非、不登校への是非、学校への是非などについてそれぞれの比重というか、割合というかが存在するのだと思う。
不登校をしている本人も、その親も、周りの人間も、支援しようとする人間も、「これからどうしようか?どうしたいのか?」ということを考える時、出てくる結論はこれらの比重というか、割合というかに関わってくるのだと思う。
どういう方向性が正しいのか、どれが正しい支援方法なのだということは無いのだろう。
子ども自身、親自身の考え方に即しているか否かが問題なのだと思う。


何故ならば
子どもが皆「学校に行きたい」と思っている訳でもないし、不登校の子どもが皆「学校に行きたくない」と思っている訳でもない。親もまた然り。

子どもの人生なのだから、方向性への決定権は子ども自身にあるのだろう。
でも親は子どもを育てるという義務がある。
周りの人間にも立場によっては義務があったりする。
子どもが示した方向性を重視しながらも、親や周りは適度に微調整するべきところはそうするべきなのだと思う。
しっかりとした方向性さえ見極められれば、自分次第で周りにいるあらゆる人をこちらが密かに&勝手に支援者として認定することが出来る。
(いや、実ところ、この見極めが難しいのだ、ってことなんですけどねぇ・・・(~~+)
近所のばあちゃんからだって、茶のみ話の隙間から「おお〜!これはこれは!!」というような的確なアドバイスを頂くことができるのです。
そして支援をしようと言うのならば、支援する側の意向ではなくて、支援される側の意向に即するべきなのだと思う。


一元的に学校に行きたい不登校の子どもや学校に行かせたい親を「間違っている!判っていない!」として矯正しようとすることは、学校に行かれない不登校の子どもや学校に行かなくても良いと思っている親を「間違っている!判っていない!」として矯正しようとすることと全く同じなのだ。

ところが、支援をしてくれる人の中には自分達の考え方に賛同する不登校に対しては「アンタは悪くない」と言ってくれるけど、自身が理解できない不登校に対しては世間以上の冷たい態度を取る人がいる。この人の考え方を理解できないのは、そしてこの人が理解できない不登校の姿は、そう育てた親が悪いのであり、そういう親は不登校を理解していないからだなどと言う。
「不登校支援」というカンバンを掲げている人からそういう扱いを受けると、ごく一般の世間様から受けるよりも何倍も深い傷を受けることなる、ということを覚悟しておくべきだ。
散々人を傷つけておきながら、「賛同できないなら他所へ行けばいいじゃないか。何もウチだけが支援している訳ではないのだから。」なんて言い放ってくれるのだから、近年もっぱら評判が悪い学校よりも始末が悪い。
自ら支援してくれるような人ならばいざ知らず、こちらから支援を請うその相手を間違えるとこんなことにもなりかねない。
藁にもすがりつきたい気持ちの不登校&親に「支援者選びは慎重に」なんて言わなくてはならない現状があることは嘆かわしいといえば嘆かわしい・・・

運悪くそんな人に出会ってしまっても、その人が正解でもなければ全ての支援がそういうものでもない。当たり前のことだけど・・・
同じ支援の元で楽しい人生を送れる人もいれば、もっと辛い人生になってしまった人もいる。
人から支援を受けるということは、支援する人の持つ価値観や人生観やいろいろなモノに対する考え方の影響を受けるのだということを覚悟しなくてはいけない。
すべてを支援してくれる人の言いなりになることはないのだし、支援してくれる人に頼りきりになったり任せきりにするのは全く以って論外の外のはずれだと思う。誰の子どもだぁ!ってことだ。

支援してくれる人によって、支援してもらうのはココマデという線引きを変えることも必要なのです。



当然のことながら、支援はあくまでも支援であって、それ以上でもそれ以下でもない。
たまにそれ以下はあるかもしれないけど・・・
学校と同じでタダ利用するためにあるというだけのモノなんだ。そこにはなんの正解も存在してはいない。
自分は本当はどうしたいのだろうか?
正解があるとしたら、この答えのみが正解なんじゃないだろうか。

そのために・・・なんてことは二の次・三の次でいいのだ。
どうせ不登校になったんだから、良いチャンスなんだ。
時間はたっぷりある。
ゆっくりと考えてみることを誰が止める権利があるものか!なのだ。


<余談>
ウチも「学校に行かせたい親」VS「学校に行きたくない子ども」なんていう簡単な図式に当てはまれればいっそのこと楽なんだけどねぇ・・・
必ずと言って良いほど「親が学校に行かせようとヤッキになっているから子どもが行かなくちゃって思うんだ」と言われてしまう我が家の不登校・・・
どうしてこういう決め付け方をしちゃうかなぁ…
当方所詮サルヂエしか持ち合わせておりませから、難しいことは理解できないでごザル。
ウッキッキ〜
<余談終わり>
posted by チャマ at 19:10| Comment(0) | TrackBack(1) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月11日

心の理論

「誤った信念課題」実験というのがある。
Aさんが箱の中にチョコレートを入れた後、席を外し部屋の外に出る。
Bさんが箱の中のチョコレートを引き出しに移し入れる。
Aさんが戻ってくる。
さて、一部始終を見ている人は、Aさんがどこにチョコレートがあると思っていると想像できるだろうか。

当然のように、「箱の中」と答えるだろう。
ところが自閉症患者は「引出しの中」と答える。
他人が知っていることが自分の知っていることと違っている可能性を考えることができないのだ。
自閉症患者というのは、心の理念理論が欠如しているのだそうだ。

ただし一口に自閉症とは言っても、その病態はとても幅広い。
私が知っているアスペルガー症候群の子は、一見しただけでは判らない。話をしてみたり、しばらく様子を見ていたりして、初めて「アレ?なんか違和感」といったカンジだ。
多少手間隙かけて?コミュニケートすれば会話には問題ないけれど、マナーというかエチケットというのか、そういうことには全く疎い。「こんなことをしたら相手の人は嫌な気分になるだろう」ということは一切考えないらしい。その都度その都度、根気良く教えていくしか無いのだろう。
一方で自閉症と診断された知人の子は、私のような素人にはまことにコミュニケーションが取りづらい。こちらの都合をいくら判ってもらえるように説明しても、理解をしてはもらえない。一旦パニックを起すと勉強不足の私などでは取り付く島もなくなってしまう。
とても人懐こくて可愛い子なんだけど、どうしても壊れ物のように見てしまう自分がいる。

話は大きく反れちゃったけど、そうそう、心の理念理論っていうのはそんなカンジのものだそうだ。
手元のテキストによると
「人間は心の理論をもつことで、心の理論を使って他者の行動を解釈し、また自分と他人との行動を調節することができる。」ということらしい。

さて、先日オルタナティブ大学さんから、「“K祭り”をあおらないで」というトラックバックを頂いた。ご自身がSュー○に送ったメールがコピペされていて、コメントなりトラックバックなりをど〜ぞ、ということだけど・・・
Sュー○には別のブログの方もメール連絡をしたようなことが書いてあった。私が知っているだけでも2名。この広い世の中で、いったい幾つの「ご連絡」がOさん宛に送られたのだろう・・・
オルタナティブ大学さんにはお返事が着ていないらしいけど、数が多すぎて?Oさんは物理的に書けないんじゃなかろうか、って、他人事ながらチョット心配になってみたりもする。

申し訳無い事に、私は未だに「不登校は終わらない」を読んでいない。世間様の不登校問題よりも、我が家の不登校問題の方が当然優先順位が上なのだから、更に申し訳ないのだけれど、ここ数週間ドタバタしている我が家にあっては本の感想なんて、社会の喧騒なんて今は構っていられないのです。

本を読んでいないことを前置きして・・・
正直なところ、いろいろな意見を読ませて頂いて言われるところの“K祭り”にはあきれ果てているのが私の現状だ。
それぞれの意見はそれぞれにもっともだ!と思える。
だって、書いている人達はそれぞれに「フリースクール関係者」とか「Sュー○出身者」とか「社会学関係者」とかその他モロモロ、自らが置かれている立場に即して語っているのだから、もっともなのは当たり前なのだ。
同じ本の感想文が全員全く同じだ、なんてことは在り得ないのだから。
当事者学とかいう難しいことは判らないけれど、誰もが皆なんらかの当事者なんだからそれぞれの立場で意見が違うことはそんなに困ったこと、大問題なんだろうか?
そんな違う感想を手に手に意見を交換するのは大いにやるべきだ。
でもそこに相手の意見に耳を傾ける気持ちが存在しないのなら、意味も価値もないことだと思う。

社会学であれ心理学であれ当事者学であれ、まるきり別の学問なのだろうか?
根底には人間という同じ題材しか存在しないのではないだろうか?いろいろな意見を読んでいると、根底の人間がすっかり忘れ去られていて、学問のための学問、異論を打ち崩すための意見になっているような気がする。
そんなモノより、じいちゃんばあちゃんの「今の若いもんは」なんて言うお小言を聞いていた方が私にとってはずっとも実践的で有り難いって思う。
学問っていうのは利用するためにあるのではないのだろうか?学問をするために学問があるのだろうか?
当方サルヂエしか持ち合わせていないので、私には頭の良い人たちの考えることは理解しようにも想像すらできない。申し訳ないでござる。

私は今でも不登校なんて選んでない!と思っている。
でも「私達はそんなにバカじゃない!」という意見を持つ経験者も確実にいる。「選んだんだ」と言う経験者がいる。
本人がそう言うんだからそうなのだろう。
でも、少なくとも私の周りには最初から学校という社会や制度を批判して登校を拒否したような人間はいないと断言しておく。
ただそれは私の小さな世界での事実であって、広い社会の中には私にとっての例外が存在するんだな、という認識くらいは私のような服も着ていないらしいサル並みの高卒者でもできる。

学校や社会に対して「少数意見を認めろ」と言うならば、それを認めない社会に反旗を翻したのだとしたら、自らが同じ態度をとるべきではないと思う。
だって、それはそっくりそのまま自分が批判してきた姿そのままなんでしょ?
自分が吐いたツバを自分で被っているようなもんじゃない。
そこには「心の理論の欠如」が感じられないだろうか?更に悪いことに、相手に対しては心の理論を持つことを要求してはいないだろうか?


“K祭り”を眺めていると、なんだかバベルの塔の話みたいだと思う。
バベルの塔を作ろうとした時には言語から社会を分断されたように、奢った現代人は心の理論の欠如から社会が分断されていくのだろうか・・・そんな気がしてくる。
私自身社会の中に居て、なんだかとても傍観者的に社会の行く末を見ている自分がいる。
有識者の方々からしたら、「アンタみたいな人が居るから」などと言われてしまうのだろうけれど…
所詮サルですから、相手にせんでくだされ、と言いたい。
ヒガミからではなく、思い切りあきれているんですワ。


あ、ちなみにオルタナティブ大学さんを指しているのではありませんよ!!!
誤解の無いように、ちゃんと書いておかねば!!!
TB頂いた+1つ2つのエントリーしか読んでいませんが、素晴らしいお考えだと思いました。私自身も別エントリーのコメントに書かれていた「知識優先」への警鐘?と同じことが言いたいのですよね。必要以上に長々と・・・(^^;
知りたい・学びたいと思った時に学べるということは、本当に楽しいことだと放送大学を受講していて思うのです。そうして手に入れた学問は、実践的に利用可能なんだということも実感しています。
意志あるところには自ずと道は開けるのでしょうが、自分の意志の弱さを棚に上げて道が開けないと嘆くような人生にだけはしたくないものだと思いますです。
過去にそういう失敗を犯してしまった者として、切実に思うのです。
posted by チャマ at 16:07| Comment(0) | TrackBack(1) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月25日

コミュニケーションと生存 C

やっぱり私の中では不登校にとって学校なんて関係無い。
世間で言われる不登校論とか言うものに纏わり付いているらしい、社会がどうの、学校がどうの、体制がどうのこうの、なんてことも関係無い。
もっと言ってしまうと、社会への適応なんてこともさっぱり関係ないのかもしれない。

私が2号を学校に戻そうと思うこと、それはイコールで2号に強く生きて欲しいからなんだ。
周りがどんな状況であっても、オタオタせずに生きて行かれる力。
これを今時では人力っていうのかな?な〜んて、今日、中間教室の先生がスクラップしている新聞の切り抜きを眺めながら思ったりした。
(結局のところ、新しく仕入れたモノを使ってみたくてしょーがなかったんだけど、って話しだ(^^)子どものオモチャと一緒だなぁ〜…)

生きて行く上では何らかの社会との繋がりを絶つ事は出来ないけど、だからと言って必要以上に依存することもないだろう。
所詮友達百人できるかなぁ〜って、そんな歌を歌う神経がおかしい。つーか、そう思う気持ちは判るけど、それを本気でやろう、それが正しいなんて思ってしまう、そうなるように努力しちゃうような人間っておかしくないか?そんなことあり得ネェ〜って思わないことの方がおかしくないか?
でも確実に社会はそういう社会になっているような気がする。
そんな社会には、バッカジャネーノ、と言い放ちながら、利用できることは利用して、最低限繋がりながら力強く生き抜いていって欲しいなぁ。
でも、これって一番贅沢というか、ワガママというか、とんでもないことなのかもしれない…
まぁ、いいや。それもまた自分だってことだ。

でもね不登校は、学校という社会、学校という体制を拒否した、なんつーような、そんなカッコ良いもんじゃないヨ。
不登校の理由なんて、本人だってホントのところなんだかよく判らない。
タダ、本当にタダ単に強烈に行きたくないって思っただけなんだ。
その原因はいろいろで、きっかけもいろいろで、でも本当の理由は行きたくないから行きたくない、ってだけのことなんだ。
それをあーだこーだと、大人が自分の理論を推論を主義主張を正当化するために、いろんな理屈を根拠にもっともらしい理由やカッチョ良い理由を作り上げちゃったんだ。
それをなんとなく「そうかもしれない・・・」なんて不登校してる本人が思っちゃってるだけなんだ。
だってその方が自分にだって判りやすいし、自分も弁護できる。自分も納得できる。
どんな行動だって、理由が判れば受け入れてもらえる。その逆に、理由が判らなかったり想像できないことは、どんな行動だって理解してはもらえない。
でも不登校にはその理由が最初から無い。聞こえてくるその理由がカッチョ良ければカッチョ良いほど、不登校にとっては居心地がいいのは当然だ。
殺人犯が無罪を訴えて続けていると、本当はやっているのに自分自身が作り上げた冤罪物語を本当だと思い込んでしまうような、そんなカンジに近いものが、不登校が自分で受け入れ納得するような理由にはあるように思う。
それはそれで功績はあるんだけど、でもやっぱりそこからは何も解決することはないだろうって思うのです。

これこそ私が作り上げたコジツケた理屈なのかもしれないけど、私は自分の登校拒否を正直に振り返った時に確実に、的確に、120%、私はそうだったって思う。
担任がとんでもないヤツで、大嫌いだったことや理解できない状況だったことは本当だし、過去のエントリーで書いたことは全部本当だけど、でもやっぱり正直に言うと、登校拒否してた時、その瞬間(瞬間にしては長いかったけど)はそんなことコレっぽっちも考えたりなんてしなかった。
考える余裕すらなかった、とも言えるのかも知れないけど…
後になって、あ〜あの時はきっとあ〜だったからなんだな、とか、そんなもんだ。
でもそこに自己弁護がないかって言えば、多分ある。
タダ単に宿題をやるのが嫌だっただけだったのかもしれない。
カッチョ良い理屈をつけているのは、誰でもない自分自身なのかもしれない。
そういう自分を直視することは、はっきり言ってしたくない。認めたくない。
自分はそんなチッチャイ人間じゃないって思いたい。
でも・・・これが現実・・・あ〜あ、認めちゃった・・・ヨクアツしておこうと思ってたけど、今が潮時ってことだったんだろうなぁ・・・いやいや、今だからヨクアツしたものが表出しても大丈夫なだけの体力があるんだろうなぁ・・・

防衛機制は問題の解決にはならない、と放送大学のテキストには書いてあったけど、その通りだったなぁ・・・って、今頃カイ!

なんだかどんどん祭りの戦士さんのトラックバック記事からは遠ざかってしまっているんだけど、その上まとまらないんだけど、現状ではこんなことを思っています。
posted by チャマ at 21:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コミュニケーションと生存 B

私が思っているところの2号を学校に戻すということは、「コミュニケーションと生存A」で書いたような過度なコミュニケーションを持つことを言ってるんじゃない。

過度なコミュニケーション・スキルを使わない・使えないけど、それはそれで社会と繋がって力強く生きて行けるんじゃないかって思うんだ。
そうすることを社会に媚びるとか、社会に融合するとか、体制に従順だとか、そういう見方をする人もいるらしいってことがこの数日で判ってきた。
不登校に対する2つの代表的な?方向性にも言えることだけど、結局はどれも社会とか学校とか体制というものに獲りつかれてしまっているんじゃないだろうか?
あまりに極端過ぎやしないだろうか?
自分が必要とする部分だけ繋がっていれば、そしてそうやって社会とか学校とか体制というものを上手に活用して付き合っていったって良いじゃないか。
例えばオリックス時代のイチローのように・・・なんて思った。

自分の信念を曲げずに、でも最低限社会と繋がっていく。
これは私が人生の師匠と一方的に思っている人から言われた言葉だ。
3年も経って、やっとどういう事なのかが明確に判ったような気がする。
そうやって社会と関わってきた結果、自分が社会や学校や体制というものにナニカ寄与できるようなことがあったらば、そうなったらそうなったで良かったな、でいいのではないだろうか、って思うんだ。

決してナニカ特別な才能を開花させて偉人になれ、と言っているんじゃない。どこにでもいる凡人でいいんだ。

例えいつか学校や社会を変えることが出来たとしても、それよりずっと早く子ども達は大人になってしまう。
昔に比べたら不登校は選択肢が増えたし、学校になんて行かなくても勉強することも出来れば、家で石地蔵になっていなくても行かれる場所も出来た。でもそれは『子ども』の時だけであって、学生の時だけであって、大人になったらどうすればいいのだろう?
社会に繋がれない大人は、どこに行ったらいい?

だからこそ、ネットだけで社会に繋がっていて秋葉原にだけは買い物に行かれるんだからいいじゃないか、なんてことを言っちゃうんじゃないだろうか?
それで本当に良いって思っているのだとしたら、私には不思議でたまらない。本人は正真正銘本当にそれで幸せだと思っているのだろうか?
そういう生き方は人間らしい生き方をしているって言えるんだろうか?
確かに最低限社会と繋がって、自分の信念は曲げていないのかもしれない。本人が正真正銘それで幸せだと思うなら、それはそれでいいのかもしれない。
でも、無理矢理そう思い込もうとしているのなら、そこから出ることを考えるべきではないのだろうか?

そんなことを考えると、祭りの戦士さんの言っていることと私の言っていることは、そんなに違わないんじゃないだろうか?って思えてくるんだけどなぁ・・・
違いの判らない女、ってコーヒーのコピーのようになっていないことを願っているんだけど…

2号の不登校仲間に「将来の夢はホームレスになること」と言っている子がいる。彼は小学校6年生だ。
でもホームレスにはホームレスの社会が確実にある。それはある意味、会社で働くよりもシビアな社会じゃないかって思う。そう言ったら彼はホームレスになることをビビッてしまった。彼の夢を壊してしまった悪い大人になってしまったのかも…(~~;)

もし社会に繋がれない人間同士がネットワークを築いたら、同時にそこには新しい社会が生れる。
現に不登校の集まりである中間教室にだってそこでの社会が成立している。同じ不登校という悩みを抱えた同士であっても、そこに適応できない子が確実にいる。
どこに流れ着いても、人間はなんらかの社会からは逃げられない。
だったら、自分が今持っているコミュニケーション・スキルだかソーシャル・スキルだか、そういうものがそののままであっても、どんな社会であっても、そこで力強く生きて行こうって考えることを選択肢に入れても良いじゃないか、って思う。

でもその選択肢は決して楽な選択肢じゃないんだろうって思う。
ある意味イバラの道なのかもしれない。
そして本人がその気になることが大前提なんだと思う。
周りの大人がヤイノヤイノ言ったところで、それは祭りのお囃子であるだけで、神輿を担ぐのは本人なんだ、ってことなんだと思う。
同じアホなら踊らにゃソンソン♪って思う。

そしてそうする為に必要なもの、それを昨日のシューマッハとアロンソの二人に教えられたような気がする。
強靭な精神力・・・強靭でなくても良いんだ。でも確実に今よりも強い精神力が必要なんだと思う。

Cに続く・・・
posted by チャマ at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コミュニケーションと生存 A

祭りの戦士さんのトラックバックされた記事を読んで、祭りの戦士さんの言っていること
「コミュニケーションを突き詰めると、生存は脅かされる」
その通りだと思う。
私がリンクを貼らせてもらったずっと以前のエントリーでも、私はそのことに共感したし、納得したんだ。人間らしく生きるということは、ある意味生存を脅かすものでもある、ということに共感した。
私が答えを見つけたF−1なんて、その典型例ってことだ…だよね?

でも新しいエントリーを読んでいて、フっと思ったんだ。
コミュニケーションなんてモノはそんなに突き詰めなけりゃいけないんだろうか?って…
一般的にコミュニケーション・スキルというのがどの程度のことを言うのかは知らないけれど、大体が人間は生まれながらにしてコミュニケーションをとる術を知ってるじゃない?表情、というものがそれを教えてくれるでしょ。
不思議なことに、表情ってもんは誰が教えた訳でもないのに赤ちゃんは目が見えるようになると人の表情から相手の感情を察することができる。それも表情から読み取れる感情というものは、人種や文化に関係なく万国共通なんだそうだ。
だからやっぱり人間というのは生まれながらにコミュニケーションをとるべくしてとってるんだってことなんだろう。
そしてそれは最低限のコミュニケーションとも言える。
人間の生存には社会が必要不可欠で社会適応にはコミュニケーションが不可欠、というのは、そういった最低限のコミュニケーションが必要だ、ということなんだろうと思う。
それは当然だよね?

祭りの戦士さんが言っている「計算と処世術」的なコミュニケーションっていうのは、それ以上のコミュニケーション、つまり過度なコミュニケーションとは言えないだろうか?
コミュニケーションを突き詰める、過度なコミュニケーションということは、即ち社会や人に対する過度の依存を意味しないだろうか?
そんな突き詰めたコミュニケーションなんて必要だと思う人だけ使えばいいんじゃないだろうかって思う。

不登校には、いやいや、少なくとも私や2号を含めた私の周りの不登校には、確かにこういう過度なコミュニケーション・スキルが不足していると思う。それが不登校の原因になっているんだ、と言ってしまっていいかもしれない。
祭りの戦士さん言うように、純粋なコミュニケーションを行なっている、もっと言えばそれしか出来ないというのは、そういう意味ではその通りだろうと思う。
でも、だからと言って学校に行かなくてもいいのか?行かない方がいいのか?ということを、不登校をしている本人の人間性を無視するというようなことを抜いたところで考えてみて欲しい。
私はやっぱり行くべきだと思う。
社会に融合するにしても、しないにしても、逃げ場があるうちにいろいろと試してみることは悪くは無いと思う。
学校なんて、所詮は人間様のための教材でしかないのだから。それ以上でもそれ以下でもないんだから。利用できるモノは利用しようじゃないか、って思う。



じゃあどうするか・・・
今世間で言われている不登校論?には、大別して2つの方向性があると思う。

1.過度なコミュニケーションを学習し(または行なえるようにする為に)、
  学校・社会に戻ることを肯定・支援する。

2.現存する学校・社会が受け入れないことを不服とし、
  学校・社会そのものの意義を問いただす。
  適応できない者には適応できる場所を用意する。

こんなカンジではないだろうか?
でも、私はそのどちらも違うんじゃないの?って思う。

両者共に、何をそんなに学校やら過度なコミュニケーションやらに拘るのだろう?って思う。

Bに続く・・・
posted by チャマ at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

コミュニケーションと生存 @

祭りの戦士さんからトラックバックを頂戴した。
以前こちらからトラックバックしたのだけれど、それに対する「おいおいそれはチョット違うぞ」ということをエントリーして伝えてくれている。

事の成り行きは祭りの戦士さんのずっと以前のエントリーに書かれていた

『………厳密にいうと、「生きること(コミュニケーション)」と、「生き延びること(生存)」とは分けて考えないといけない。』

を読んで

『椅子から飛び上がってしまった(くらいの気持ちだった)。
だって、私がほんの数ヶ月前に学んだことと違うんだしぃ。。。少し前に自分が「ほぉ〜!」と思ったことを『いけない』とされてしまったしぃ。。。
私が学んだこととは、人は生存のために社会が必要で社会に適応するためにはコミュニケーションが不可欠、ということだった。そんなことを今までのエントリーではおテンコモリで書いてきた。
。。。これは捨て置けん!』


と思ったものの、読み進んでいくうちに、自分と違う意見に納得してしまったことにある。
そしてコメントを通して何度かのやり取りのあと、今回のトラックバックを頂いた。

わーい!初めてのトラックバックだみょ〜ん、なんて呑気に覗いてみたら…
アリャリャ、これは痛い!なにがどう痛いのか判らないけど、なんだか痛い・・・

ここ数日、私の中の「不登校とそれに関わるいろいろ」を改めて考え直している。
そのきっかけが祭りの戦士さんの以前のエントリーだったことは確か。
自分は2号をどうしたいんだろうか?なぜ学校に戻そうと思うのだろうか?そういう考えは間違っているのだろうか?私は2号の人間らしさを奪おうとしているのだろうか?世の中の意見はどうなんだろうか?
やっと自分の方向性が定まってきた、と思っていた矢先だったから、カニ味噌はカニ味噌なりに結構考えた。
すっかり方向性を見失って、ある意味迷子になってしまったとも言えるんだろう。
でもそれは結果的に良かったと思っているんだ。今まで曖昧だったことを、しっかりと見据えることになったんだ。
そういう意味でも、いろいろと教えてもらったという意味でも、私は祭りの戦士さんには思い切り感謝している。

手っ取り早く(やっつけ仕事とも言うのかもしれないけど)、ネットでいろいろな意見を探して読んでみたりしてみて、やっぱり「ナニカが違う」って思った。
でもそのナニカが判らないまま、カニ味噌がグズグズ言っているまま数日経っちゃったんだけど・・・

実は、祭りの戦士さんからトラックバックを頂く前に、私の中で方向性だけは改めて決まっていた。
それはなんとも単純なんだけど、昨晩?今明朝?
F−1サンマリノ戦を見たから。
2号に足りないもの、私が求めているもの、その答えがそこにあったから。

Aに続く・・・
posted by チャマ at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月22日

貴Dさんの本とTシー○に思うこと −その2−

私がシー○と直接接したと言える唯一の出来事、それはシー○の代表者であるOさん自らが行なわれた講演会でしたっけ。

その直前の地元の「親の会」では事実上の動員がかかった。
チラシが配られ、「本当なら忙しくてこんな田舎になんて来てはもらえない人だから、ゼヒ参加してね。」と言われた。世間ではこれは動員とは言わないのかもしれないけど、私はそう受け止めたし、講演会にも行ったし、沢山売られていた書籍の中でも一番安価だった冊子も買ってみた。

正直なところ、その時にはすでに「親の会」にはあまり参加したくなかったし、というか、行き始めて2回目くらいで辟易してしまった。
アチコチに無造作に転がっている矛盾に、ついて行かれなかった。
「それでいいのよぉ〜」って言われても、理解できないもんは理解できんです。
思わず「いい訳ねぇ〜だろ。」って突っ込みたくなる衝動を抑えたけど、きっとみなさんはお気づきだったんだろう。アノ手コノ手で「それでいいの」を理解させようとする。
ムリムリ、ゼッタイにムリ!無理なものは無理ですぅ〜。
この状況は登校拒否だった遠い昔とダブッテしまった。あぁ、フラッシュバック・・・
不登校の親の会にすら居られない私っていったい・・・これには結構傷ついた。

それでも紹介してくれた人の顔もあるからと思って何度か通ってみた。
私も大人になったものだなぁ。
でもやっぱりムリなものはムリですからぁ〜。

それを決定的にしたのは、こともあろうかOさんご本人の講演会だった。
身体症状は生命維持装置の作動です、フムフムそうなんだ、納得。
不登校を丸ごと受け入れる、そうようね、そうよね、ありがとう♪
Kさんや常野さんがおっしゃるところの『不登校エリート』の話を延々とされている。??えっ?
登校支援なんてしなくても、こうやって社会で学校に行った多くの人達よりも充実した人生を送っているんです、と言っている。
こんなにエラクなりました、って言っている。
フツーってなんですか?なんて言っている。
秋葉原にだけは買い物に行かれるんだしネットで社会と繋がっているんだから、それでいいじゃないか、何が悪いって言っている。
社会ってなんだ、って言っている。
ひきこもりの経験があるっつーだけで雇わない会社が悪いと言っている。
あぁ、なんか矛盾したことをイッパイ言ってる・・・

それらの一つ一つに私はブツブツと一人で突っ込みを入れていたのでした。

そして最後に登場したのは、所謂『不登校エリート』と言われている方たちでしょうか?各人手に手にペットボトル飲料を持っていらっしゃる。
はてさて、体育館という場所は大抵飲食禁止なんですが、ここはよろしいのでしょうか?と係りの方に聞いてみたくなった。
もうダメだ。。。ムナクソが悪い。爆発してしまいそうだ。
分会になんて出たら、言いたい放題言ってしまいそうだったっす。
とりあえずお義理で一番安い冊子を500円で購入して帰りました。
売っていたのは地元の『親の会』の主催者さんでした。はぁ。。。疲れました。

でもね更なるダメ押しがその冊子で、延々と社会が悪い学校が悪いって、当事者の手記として書かれてたの。もう、お風呂で読んでて(私の唯一集中できる図書館?)大爆発してしまいましたのさ。


私はシー○の不登校やその家族の受け入れ態勢は十分に評価できるものだと思っている。
そしてそれは絶対的に必要だと思っている。感謝もしている。
でも、受け入れたその後。ここにはどうしても賛同できないし、受け入れた後まで「いいのよぉ〜」って言ってしまうことは、過保護過ぎると思っている。
それはその時はいいけど、結果としてその子を苦しめることになるような、そんな気がする。

私が登校拒否だった時に同じことをされたらどうなってただろう?って考えても、理解できないし、やって欲しくないことなんだけど…それは私だからかもしれない。他の人はそれでいいのかもしれないって思っていた。
でもKさんと常野さんの本には、私が感じたことが同じように書かれていた

だからって『じゃぁオマエは自分の息子をなんとかしたのかよ!』って言われちゃうと何も言えないし、シー○の方が正しいのかもしれない。
でもこれは正誤の問題じゃなくて、私にはシー○の受け入れたその後の方針が理解できないってことなんだと思う。
そしてシー○の排他的な自己肯定の姿勢には理解どころか、不快すら感じる。
それのどこが支援だ!って思ってしまう。

私は「不登校、選んだ…」を読んで、正直な感想として、「Kさんは上手くオブラートに包んでシー○の痛いところを突いたな」って思った。
チョット前、Kさんご自身が本について対談された様子が書かれていたサイトがあった。確か「もっといろいろ書きたいことはあったけど、団体とかいろいろな折り合いがあってねぇ」なんて書いていたと記憶している。ナゼだか判らないけど、今はもうどこにあったか探し出せない。検索しても出てこない。ナゼなんだろうか?

私が思うことはタダ一つ。
シー○が本当に不登校の子どもや親のことを考えるのなら、例えKさんや常野さんの本で批判されたと受け取っても、それはそれとして真摯に引き受けるべきだろう、ということ。
徹底的な批難をする以前に、そう思っている人がいるんだ、と考えてみて欲しい。
それでこそ、天下のTシー○だと思うんだ。
シー○の見解を読んだ時、正直「やっぱりなぁ」って思った。
そう思わせるようではいけないんじゃないだろうか?
感謝しているだけに残念だと思ったんだ、あの見解は…
私の考えもかなり矛盾してるけどさぁ。。。残念なのです!



追記 2005.11.2 マズイかなぁと思われる固有名詞は記号化しました。
         意味繋がっているのかなぁ・・・ま、いいか。訂正
posted by チャマ at 13:05| Comment(10) | TrackBack(1) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

貴Dさんの本とTシー○に思うこと −その1−

ほんの少し前に人から紹介されて『不登校、選んだ訳じゃないんだぜ!』(貴D・常野雄次郎 共著=理論社)を読んだ。
でも『不登校は終わらない』は、まだ読んでいない。近いうちに読んでみたい、とは思っている。

Tシー○に関しては、直接関わったというほどのことは無い。
以前のエントリー『おばちゃんは「ごめんなさい」がナゼ言えない?』には、マタイトコ?くらいにはカスッテる、と書いた。
私が以前通っていた、そして今でもたまにお誘いのある『親の会』事実上シー○のご当地支部みたいなカンジがする。主催者は過去に不登校児の母としてシー○と関わっていた、そして現在も関わっている方だし、会で先輩として「こうあるべき」を語る方もシー○の方針を宣教師のように教え説く。

だから私の立場としては、この騒動に首をつっこむ権利なんてないのよ!って言われれば、その通りなんだろうと思う。言うなれば、ただ通りかかったって程度の野次馬でしかないのかもしれない。
でも通りかかっちゃったんだなぁ。。。カスルくらいの距離から見ちゃった野次馬なんだろう。
そして一番私を黙らせてくれないモノは、こんな騒動やあんな本以前から私が感じていたシー○の考え方に対する違和感、拒絶感なんだ。
そのなんだか判らないけど「ナニソレ?」って思っていたことを、「不登校、選んだ訳じゃないんだぜ!」では代弁してくれたような気がしたからなんだ。


私自身は30年も前の不登校経験者だ。
その当時の不登校、当時は登校拒否って言われてたけど、その当事者や親に対する世間の風は冷たいなんてもんじゃなくて、昔のCMみたいにオイルも凍るくらいだったんだろうと思う。
今も風当たりは強いし冷たいけど、当時の比じゃない。
学校中でも登校拒否してるなんて子は私だけ。オンリーワンの存在って訳だ。
時代の先端を行っていたのか?なんて悠長なことは今だから言えるんだ。
しかも母子家庭だったから、有る事無い事詮索されたんだろうって思う。
母の救いは近所のおばちゃん達。それも理解してくれる、励ましてくれる少数の人達。
それは母の人徳なんだって思う。
オンリーワンだったからこそ、親の会なんてもんはなかったし、遠方にあるそんなものを探すような時間的経済的余裕は我が家にはなかったんだ。
2号が不登校になって私は仕事を失ったけど、なんとか食っては行かれてる。
だから親の会なんてものにも行かれることができるんだ。

例え一部分であっても、シー○がやって来たことを私は評価する。
私の母のような人達を支えてくれる存在だったんだろうって思うから。
そういう場所は絶対に必要だって、今でも思う。これからも絶対のそう思うと断言できる。

自分が学校を休んだ時は、必ず布団を被って石地蔵のように固まっていた。
布団を被って何を考えていたのか、何をしていたのか、さっぱり覚えていない。
時間ばかり気にして、だからと言ってなにか目的がある訳でもなくて、時間が経っても何も解決なんてしないことは判ってるのに、時間が経てばナニカが変わるかもしれないってどこかで思っているような、そんなカンジ。
苦痛なんて感覚はすっかりと通り越していて、ただ息をしてナニカが変わるの待っているような、そんなカンジ。そして何時間経っても何も変わらない絶望感。それすらも気付かなかったことにしてしまおうとしていたような気がする。

そんな子ども達がちゃんと生きているんだと思えるような場所である、ただそれだけでも私はシー○を評価する。ありがたい、って思う。
そして今まで活動してきてくれたからこそ、自分の子どもが不登校になった時には、私のようにタダ時間だけを気にして布団を被るなんてことをさせなくて済んだんだろう。
社会に不登校という認知をさせてくれたんだろう。そのお陰で以前よりもずっとも不登校は選択肢が増えたと思える。

シー○や多くの支援団代はまだ足りないって言うけど、私は今でも十分だと思っている。
いや、十分過ぎると思っている。これ以上を望んだら、逆に不登校に対しての風当たりは前以上に強くなると思うんだ。今以上を望むことは、それは社会に甘え過ぎだと思うんだ。



シー○に対しては何の恨みも無いし、むしろ感謝している。
直接的にナニカをしてもらった訳ではないけど、昔の登校拒否を経験し、今の不登校を経験した者の一人として、感謝している。
でもそれを差し引いても、有り余る「おかしいじゃない!」という気持ちは隠せない。


続きは−その2−で。
posted by チャマ at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月21日

不登校は『逃げ』だ   −その2−

不登校は『逃げ』だ。
そしてそれは肯定されるべき『逃げ』だ。正当な行為だ。
それはその理由が「自己防衛」だからだ。
不登校という状態に逃げ込めず、自ら死を選ぶ人たちがいるのは紛れも無い現実なんだから。

『逃げ』という言葉には、絶対的にマイナスのイメージがある。
でもコトワザにもあるじゃないか。
「三十六計逃ぐるにしかず」ってさぁ。
兵隊さんだって死ぬよりは逃げろってことなんだから。

不登校は逃げじゃない、って思い込もう、自分に言い聞かせようとすることは、逆に自分を追い込むことになる。
自己弁護っていうオブラートは、結局真綿で首を吊るようなもんじゃないかって思う。
いいじゃん、逃げたって。いいじゃん、負けたって。いいじゃん、失敗したって。
肝心なのは次なんだよ、次。

次に進むには、逃げを逃げと、負けを負けと、失敗を失敗と認めないと進めないのさ。
認めて初めて「コリャいかん!」って思うんだから。
タイヤから空気が漏れてるぅぅぅぅ!って気付いた。だから停車させた。
それだけのことだ。
ちょっと周りの人にご迷惑をおかけしちゃうけど、バーストしなくて良かったね、って話しだ。
『逃げ』だと認めることは、周りの人に迷惑をかけちゃうことも、バーストしなくて良かったってことも、その両方共認めましょうってことなんだ。

不登校支援という名目でよく言われることは、ご迷惑なんてかけてない、つーか、それでいいって言う。空気の抜けたタイヤのままでいい、って言うんだ。停車したままでいい、って言うんだ。
それを許さない社会が悪いって言うんだ。
う〜〜ん、難しい選択だけど、そのままでいいって思うならそのままでいれば良いんじゃない?
でも私はそうは思わない。
目の前に道が続いているならドライブを続けたいし、どうせなら空気の漏れてないタイヤがいいなって思う。
2号なんてタイヤの空気が抜け切ってるのに、ドライブ続けたいぃ!ってゴネル。行きたいけど行かれない不登校なんてそんなカンジ。
それはチョット無理だってぇの。

パイプのどこが詰まっているか判らなかったら○ラシアンの人にだって直せないんだ。
タイヤの空気漏れだってどこに穴が開いているか判らなかったら直せないんだ。
じゃあ、不登校はどうしたら空気漏れ状態を直すことができるんだろう?
それには不登校は何から逃げたんだろう?ってことの答えを見つけることが先なんだと思う。

そりゃ学校から逃げたから不登校なんだろうさ。そう言われればその通りだ。
でも本当にそうなんだろうか?

不登校になった時、確かに学校がイヤなんだけど、もっと細かく、学校の何がイヤなんだろう、って考えてみたことはないだろうか?
漠然と学校がイヤって言ってしまうけど、本当に逃げたいことは学校の中にあるナニカ、だと思うんだ。
そのナニカが学校の中に、あるとか、いるとか、起こったとか、そういうことじゃないのかな?
学校に行くことがイヤなんじゃない。学校の中にソレがあるからイヤなんだ。
ソレがはっきりと判らない時があるかもしれない。でもなんだか判らないけど確かにソレはある

ソレのある場所がピアノ教室だったら別のピアノ教室に変えちゃえばいいんだ。いっそのことピアノなんて辞めちゃえばいいんだ。
学校は辞められないから問題なんだ。苦しいんだ。
だけど、学校とかピアノ教室なんていう、ソレのある場所を一旦どけて考えてみたら?
なんにも違うことなんて無いじゃない。

ピアノを続けたかったら、別のピアノ教室に変えてもいいんだし、今通っているピアノ教室でがんばれる方法を一生懸命考えてもいいんだ。
辞めたいって思ったら辞めればいいんだ。
学校も同じなんだ。

でもね、本当に辞めたいなんて思っている人はいったいどれだけいるんだろうか?
人間って根本的に「どうせならピアノが上手くなりたい」って思うんじゃないだろうか?
学校に行きたいって思うんじゃないだろうか?
それを周りの大人が寄ってたかって「行かなくてもいいのよ」なんて言ってしまうのは、不登校は逃げじゃないって思い込もう、思い込ませようとすることと同じじゃないんだろうか?
それは本人にとってはどういうことなんだろうか?
私だったら、そんな余計なことは辞めて欲しいって思う。
ていうか、自分が子どもの時にはそう思った。「ウソつけ」って思ったんだ。

だから思う。
学校からは逃げていいんだ。
でも、本当の理由からは逃げちゃダメなんだ。
そこからも逃げちゃったら、自分自身の気持ちはそこに置いてかれちゃうんだろう。そしてその後の人生を生きるのは、自分のクローンになっちゃうような、そんな気がする。

ところが不登校真っ只中の時には、何が理由なのかは判らないもんなんだ。
なんとなく、しか判らないもんなんだ。
さてさて、困ったゾ。。。逃げちゃダメなんだけど、果たして何から逃げちゃダメなんだろうか?
posted by チャマ at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

スタンス

不登校について考える時、私も含めて多くの人がその人の中にプロトタイプを作っているように感じるということは、『不登校のメカニズムを考えてみた−自己防衛−』でも書いた通りだ。
そこには多分、その人の「立場」としてのスタンスの違いが関係しているのだと思う。
そしてその違いに、更に経験からくる違いや価値観の違いや人生観の違いや…いろいろな違いが付加されてくる。いやはや、複雑フクザツ。
でもこれが人間つーもんだ。個性っつーもんだ。
一人一人を見てみれば、誰が正しくも誰が間違ってもいないのだ。
それは間違ってるよ!という意見の多くは、それは私と違うよ!ということなのかもしれない。
でも人に向かって「違うよ!」という否定の言葉を発する時、自分も否定されることを覚悟しなくちゃいけない。
でもって、「違うよ!」という言葉を発するのは、相手の間違いを正したい、という気持ちがあるからそうするんじゃないだろうか?
だとしたら、逆に相手から「お前が違うよ!」と言われた時、自分を振り返って「そうかもしれない」と考えることは当然なんだ。だって、それを相手にも求めたんだから。
take & give ではあまりにワガママだし、take & take なんて、それはドロボーだ。


人間なんてズルイから、上っ面だけの give を相手に見せて、相手には心底からの take を求めたりもする。それは私もよくやる…確かにやる…。
だからこそ大体判るんだ、偽物の give か本物の take か、が。
どうでもいいような時は偽物だって構わないんだけど、ここ一番という時にはどっちも本物でなけりゃいけないんだ。
そして自分に対しては、決して偽物の give でも偽物の take でもいけないんだ。
立場としてのスタンスを隠れ蓑にして、自分自身に偽物をあたかも本物だと言い聞かせることは、逃避であって解決にはならないんだ。
ましてやそんなマヤカシの上に立って、姿勢としてのスタンスを示すことは全くもって間違いなんじゃないだろうか。
その上更に、そんな間違ったスタンスをあたかも同じ立場の人が全員そうだとでも言うようなプロトタイプにしてしまうことは、もうすでに間違いだらけでどうしようもない、末期ガンとも言えるんじゃないだろうか。


私は不登校児の親として、親の会とか講演会とかに顔を出したことがある。
でもそういう場所のほとんどは全くもって居心地が悪かった。気分が悪くなって途中で帰って来てしまったこともあった。気分が悪くなったというのは、
ムナクソが悪くなったということだ。
言っていることの半分は賛同できる。その通りだと思う。
でも、それでは何の解決にもならないじゃないの、って思う。
でもそれでいいのだそうだ。悪いのは社会だから、学校だから…
へぇ。そうなんだ。でも私はそうは思わない。
だから私は自分のやり方でやります。助けてもらわなくて結構です。って思った。
つーか、邪魔しないで下さい、って思った。私も邪魔は致しませんので。

私は不登校の本当の解決に学校なんて関係無いって思ってる。
だって学校なんて無くたって、私や私の息子や、周りにいる不登校の子ども達はいずれ同じような状況になったって思える子ばかりだから。
これが私の中にあるプロトタイプだ、と言えばそうなんだろうけど…
結局は集団と上手くやれない、っていうだけなんだ。
その集団がたまたま学校だったから、義務教育だったから、問題が大事になったり拗れたりしているだけなんだ。
根本的な解決は、自分の中にある集団と上手くやれないナニカを解決することなんだ。
そこに学校は関係無い。
だけど、最終的な解決は学校に行かれるようになることなんだろうと思う。
だって、不登校はみんな本当は学校に行きたいんだから。
学校に行きたいんじゃなくて、本当は集団から、社会からハグレたくないんだ。
今ある社会に所属するかハグレた者同士新しい社会を作るか、いずれにしても、何らかの社会に所属したいって思う、それが人間なんだから。
それを否定したところで、目隠ししたところで、何の解決があるものかい!って思う。
それが私のスタンス、ということなんだろう。
posted by チャマ at 13:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月19日

不登校のメカニズムを考えてみた−自己防衛−

クドイようだけど、不登校にもイロイロなパターンがある。
「不登校ってナニよ?」なんて考えていると、フっと一つのプロトタイプを作ってしまっている自分に気付く。
元不登校当事者、現不登校児の母、であってもそうなのだ。
所詮人間なんてのは手抜きをするように出来ているのさ。余程気をつけなければ、うっかりすっかりさっぱり知らないうちに手抜きをしている自分がいる。

話はそれるけど、「不登校は終わらない」騒動を眺めるにあたって、いろいろな立場の人のブログを読んでみた。
当事者であれば当事者である程、なんかその人の中に排他的なプロトタイプが存在しているような意見が多かったように思う。
そう言う私自身、多分同類なんだろうなぁ、なんて思ってみたり、そうならないように気をつけようと思ってみたり、そんなことムリかも、なんて思ってみたり、する。

だから、という訳でも…あるんだけど、当然のことなんだけど、私が書いていることは何かの答えでもないし、もちろん正解でもない。全くの見当違いなのかもしれない。今後考え方が変わる可能性だって大いにある。
この辺りは改めて書くことでもないだろうけど、用法用量を守って正しくお使い頂きたい。
と思いつつ、賛否両論ご感想、何か感じるものがあったならコメントなんか頂けると嬉しゅうございますのです。


さて本題。やっと本題?突っ込まない突っ込まない・・・

不登校というのは、非社会的な行動だ。
社会的不適応、ということ。
そこには「自分が所属しているその社会の良し悪し」なんてことは全然関係ない。
問題はその社会に適応すべきかどうか、つまりその社会に留まるか否か、だけなんだと思う。
そこら辺をどうするか、については後で書くとして(こればっかだなぁ…)
この不適応という状態は、ほとんどの不登校の根底に流れている『学校に行きたい』という気持ち=その社会に留まりたいという気持ちとは相反する状況だ。

当然、不適応の理由は人によって違うし一つじゃないかもしれないし、人それぞれだ。
只今不適応を感じました!だから即「もう学校には行かない!」という人はいないだろうし、何月何日から不適応を感じてましたなんてこともないのだろう。なんとなくいつの間にやら、気付いたらそうなっていた、ってカンジのものだ。
そして「なんとなく」の頃から、知らず知らずのうちに「適応するため」にいろいろなことをやったり考えたりしているんだろうう。

動物にとって社会適応は生存に関わること。群れからはぐれたら即、を意味する。
ましてや人間なんてのは、毒も力も牙も鋭い爪も持ってなくて、単体だったらゼッタイに一番先に喰われちゃうだろう動物だ。
その人間様が地球上でノサバッテいられるのは、他の動物には見られない社会を築いているから、つまり社会に守られてやっと存在してると言ってもいいんだろう生き物だ。
社会に適応しようっていうナニカの働きかけは、「常識」とか「そういうもの」なんてレベルじゃなくて、存在するために絶対的に必要な条件として私達の身体のどこかに組み込まれているのだろうって思う。
そして学校というのも一つの社会であることは間違いない。

それなのに、ああ、それなのに。
そこに適応できない自分がいる。
適応しようと試行錯誤したりあれこれ考えたりしているのに、なんってったて適応しきれない自分がいる。
これは大問題だ。そのストレスたるや、凄まじいものだ。
大体がストレスなんてものは、対人関係以外ではあまり無いんじゃないだろうか?
そんな状況が長く続くと、人間の心は壊れてしまう。人間なんてムチャクチャ脆いものなんだ。
それが証拠に、人間は身体の機能にしても思考にしても、あらゆるところで手抜きをする。

人間は脆い。
脆いが故に、壊れないようにするための緊急装置をあらゆるところに隠し持っている。
心の緊急生命維持装置は、自己防衛とか、適応規制とか、防衛機制なんて呼ばれている。
この装置が緊急発動するからこそ、不登校になれるんだ。
この装置が発動しなかったら………それは死を選ぶことを意味するんだと思う。

この緊急生命維持装置にはいろいろある。
一人の不登校に一つ、ではなくて、一人の不登校にいくつものそういう装置が働いている。

だからこそ、不登校になったことは間違ってはいないんだ。
たま〜にうっかりと「不登校を選んだ」って書いちゃってるような気がするけど、やっぱり選んだ訳じゃないんだゼ!と言いたい。
「選ぶ」というのは自分の意志ですることだ。
でも「学校に行かない」という行動には、自分の意志とは関係ないところで働いているナニカの力がある。
そしてそれは生命維持装置でもあるんだ。
だから、不登校になったことは間違いじゃないことだけは間違いじゃない。

でも、ここからが大切なところ。
「学校に行かない」というのは本当の自分の意志じゃないし、緊急措置なんだ。
緊急措置はあくまでも緊急の時にのみ肯定される。
いつまでも「それでいいんだ」としてしまうことは、自分の心の中に相反するモノ、それもかなり強力な引力を持つ相反するモノを持つことになる。
果たして極めて脆い人間が、そんな状態の心を持ったまま健全でいられるだろうか?

−リンク追記−
posted by チャマ at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

不登校は『逃げ』だ   −その1−

タイトルの通りだと思う。
でもこれを人様から言われると、正直良い気はしない。
「何も判ってないクセにぃ〜!」って思う。
でも私の中では「不登校は逃げ」だって思っている。支離滅裂で矛盾だらけですね。
不登校はそんな支離滅裂の矛盾だらけだって思う。

もう何年も前のこと、ある視覚障害者とメールをやり取りしたことがあった。
視覚障害者にメールが書けるかって?バカにすんなよって叱られちゃうよぉ〜。
パソコンなんてもんはキーボードだけで使えるんだ。画面の文字は音声ソフトが教えてくれるんだ。
パソコンくらい使えるのさ。

「オイラたちメクラは…」と、その人は平気で言う(つーか、書く)

メクラ・ツンボ・ヒャクショウ…こういう言葉は差別的だとされ、メディアでは一切使われないし、実社会でも使わないようになっている。
昔の映画を放映する時にはピー音で消されているのが現状だ。
でも、視覚障害者である本人が「メクラ」と公言してしまう。
私は最初、ドキドキしてしまった。「そ、そんなぁ〜」って思った。

メールのやり取りしていた人はこう言った(書いた)
「自分でメクラっていうのは全然気にならない。だって本当のことだからね。
どんなに綺麗な言葉で表現したところで、メクラだってことに変わりはないから。
でも人から「メクラ」って言われると、メチャクチャ腹が立つんだ(笑)」
正直な人だと思った。
そして、強い人だと思った。

ある意味あきらめ?こういう開き直り?の出来ている障害者は力強く生きている。
少なくとも私の狭い視野の範囲内では、そう思える。
健常者を普通仕様としている社会に不便を感じつつ、たまには文句も言いながらも、そんな中で精一杯自分の出来ることを増やしながら人生を楽しんでいる
「障害からは逃げられない」という事実をしっかりと認識しているのだろうと思う。
そうと認識するまでの過程は人それぞれだろうけど、健常者では決して想像すら出来ないプロセスだっただろうと思う。
でもその過程を乗り越えたからこそ、そしてその潔さ故に、今の彼らの力強い生き様があるんだろうって思う。

この認識するというプロセスを乗り越えられなくて、実際にもう何年もずっと暗闇の中でもがいている視覚障害者が私の傍にいる。
なんとか暗闇から出て欲しいと思うけど、こればっかりは本人が自分自身で乗り越えなければならないんだろうって思う。
この人は言う「オレは2号の気持ちが自分の事のように判るんだ」

じゃあ、不登校はどうだ?って考えてみる。
不登校は学校という社会に適応できなくて、そんな社会から逃げたんだ。
だから「不登校は『逃げ』だ」というのは本当にそうなんだ。
そしてその『逃げ』は、次に書くけど、決して間違った選択ではなかったんだ。
でも例え不登校をしても逃げられないモノがある。逃げられないコトがある。逃げちゃいけないコトがある。それをしっかりと認識しなくちゃダメなんだって思う。

障害は個性だと言う。そのままを認めてくれって言う。
その通りだ。
でもそれを言う本人がただ「私は障害者なんだ」というだけの認識以上に、障害というものは人間にとって社会にとって周りの人にとって、そして自分にとって、どういうものかを認識する必要はないだろうか?
その上で、障害者と健常者の共生を考えていくべきなんじゃなかろうか?
そして不登校にも、それと全く同じことが言えるんじゃないだろうか?
posted by チャマ at 12:14| Comment(1) | TrackBack(1) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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