2008年05月15日

心が動けない…ってことなのかな?

それまで歩いて通えていた学校から、例えばバス、例えば電車、例えばチャリと、チョット遠くの学校に通いだした高校一年生達も、ボツボツ生活にも慣れてきただろうこの頃です。

先日、上の子も下の子も我が家の息子と同じクラスになったことのあるお母さんに偶然会いました。
このお宅の上の娘さんは、我が家の長男坊あんチャンと同じクラスになった時、学校に来れなくなってしまって以来、我が家の次男坊と同じように学校の相談室に登校したり、中間教室に行ったりしていました。

オラが村からチョット離れた公立高校に合格した彼女は、中学校の卒業文集に自分が不登校だったことを書いていました。
卒業式の時、彼女のお母さんとそんな話をして、「もう大丈夫そうだねるんるんいい気分(温泉)」なんて言ってたのですが・・・



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2008年03月27日

無事卒業♪

今更ですが、我が家の息子2人、無事に中学校・小学校を卒業しました晴れ

中学校を卒業した長男坊は、なんと皆勤賞だそうです。
小学校のほとんどを不登校で過ごした次男坊も、6年生の2・3学期は皆勤賞だそうです。

中学校の3年間は、ほんとうにあっと言う間。
不登校の息子よりも学校に通う日が多かった母ではありましたが、終わってみればこれまた、あっと言う間。

卒業の際には、中間教室でお世話になったおじいちゃん先生からお電話を頂いて、なにやら激励されていた次男坊でした。



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2007年05月05日

ボチボチ行きやしょう

行け行けドンドンだった昨年とは違い、今年のオラが少年野球チームは少しだけ、お休みの日を設けるようになりました。
正直なところ、土日祝日の全てを野球の日としていた昨年は、冬の練習に入ったとたんに体調を崩す選手が続出しました。

ま、全国的にノロウィルスだのインフルエンザだのが蔓延したこともあるんでしょうが、3月から11月の9ヶ月間、夏休みなどで学校が平日お休みだった日を抜いたほぼ毎日、学校と野球でお休みのなかった子ども達には体力的にかなりキツかったんだろうと私は思います。

今年から監督に就任された前コーチがどういった思惑でいらっしゃるのかは判りませんが、GWの前半・後半に一日ずつとはいえ野球の日をお休みして下さることに、私は概ね賛成しております。

「概ね」と書いたのは、例年に比べて明らかに技術的にも意識的にも低いと思われるオラがチームにとって、「休んでる時間は無い」という思いもない訳では無いからであります。

でも、彼らの生活全てが野球漬け・・・ってぇのもなぁ・・・とも思います。

最高学年の、それも少年野球とのお付き合いも今年が最後となる我が家としては、いろいろと思うこともあったり迷ったりすることもあったりする訳です。

そんな最中、我が家の元不登校球児の2号が、GW前半が空けた5月1日に、学校を休みました。



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2007年04月05日

まぁ〜た担任が変わったんさぁ〜

我が家の長男1号が通う中学校も、我が家の次男坊2号が通う小学校も、本日共に、入学式&始業式でした。

これまで前後していた双方の入学式が、今年からは同じ日の午前・午後に行われることになりました。
同じ日だと、2日も続けて仕事を休んだりやりくりするのは大変だから・・・という、保護者の都合か来賓の都合か知りませんが、そのような理由から、同日の午前・午後と時間をずらして行われることになったそうです。

かと言って、新3年生2年生は始業式やら何やらがある訳で、とは言っても、例年だったら午前中で終わっている訳で、そうは言っても、新学期早々から午後登校って訳にもいかないらしく、そんな訳で1号アンチャンは今日はお弁当を持って重役出勤の時間に登校して行きました。
「うわっ!オレが一番最後にウチ出るのかよぉぉぉぉるんるん
とか、訳のわからない興奮を覚えていた彼でしたねふらふらー(長音記号1)

結局のところ、例年だったら3・2年生が学活などをやっている間に新入生のクラスでは連絡網を決めたり何なりと保護者が決めるべきことを決めたりしているのですが、午後の入学式では同時進行が出来ないのでしょう。
新入生とその保護者の下校時間は夕方4時過ぎなんだそうです。
入学早々、お疲れ様です。

主役はいったい誰なんでしょうね?眼鏡たらーっ(汗)

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2007年02月05日

笑顔の怖さ

土曜・日曜と、立て続けに「その笑顔はどーなんだろう?」と思うことがあった。

表情というのは、世界各国万国ほぼ共通であり、笑顔というのは基本的には嬉しい時とか楽しい時とかに表出される感情の表現である。わーい(嬉しい顔)
「基本的」であるからこそ、笑っている人間を見たら人は万国共通で「ああ、楽しいんだな」と理解する。
「万国共通で基本的」であるからこそ、文化や文明が違っていてもある程度のコミュニケーションをとることができる。

一方で人間というのはとても複雑な感情を持っている生き物のようで、
「もう笑うしかないじゃんわーい(嬉しい顔)たらーっ(汗)
といった状況下でも笑うことがある。
当然そんな時は実際の感情とは裏腹な表情であるのだけれど、本人がそういう状況下なんだと自覚している時はまだマシなんだろう。

怖いのは、泣くとか怒るとか、そういった負の感情を出せずに笑っていることじゃないかしら?って思う。


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2007年01月01日

結果OK

新年早々、飛ばしますわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

所詮物事なんてぇのは、結果OKです。
どんだけ勉強をしなくても100点とれば誰も文句は言いません。
どんだけ仕事をサボッテも売上金額がビックリしちゃうくらい多ければ誰も文句は言いません。
学校になんて行ってなくたって学校に行っている人間よりも沢山のことを学び有意義な人生を送れれば誰も文句は言いません。
どんなにクソ生意気なビッグマウスだったとしても、それを実現すれば誰も文句は言いません。

文句を言うどころか「スゲェ〜グッド(上向き矢印)」となる訳です。

ですから、所詮世の中は結果OKなのです。

でも本当にそうなのかしら?


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2006年10月12日

不登校卒業(仮)---その3---

運動会というタダのイベントをきっかけの主軸にして、今日も元気に学校に走って新幹線行った2号ですわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

なんせホラ、2号にとって登下校は「筋トレ」ですからわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

登下校=筋トレ という発想は、私が2号に植え付けた発想です。
野球が上手くなりたい、来年はリレーの選手になってやる!という気持ちが彼になかったら、自分は悪くない・ボールを捕れない・ズルをするアイツが悪いんだからと自分を納得させてしまっていたら、私がいくら「毎日歩いて学校に行っている人間と自動車に乗って送迎してもらっている人間が同じ筋力な訳がない」なんて理屈を捏ねても
「それが何か?」
の一言で終わってしまつたんでしょう。

捕れないファーストが、ズルをしたアノ子が、そりゃ確かに悪い。
でもそう片付けてしまったら、何も解決することもないし、自分にとって何が残るのかと言えば、恨みつらみだけじゃないんでしょうか。
それでアナタが幸せならばそれもまぁ宜しい。
でも私なら、ファーストが取れるボールを確実に投げられる技術を自分の身に付けたいと思うし、ズルなんてできないくらい速く走ってやる、と思うゾと。
誰のためでもない、自分のために。

恨みつらみは誰のためにもならないければ、増してや自分のためにもなりません。
なんの肥やしにも腹の足しにすらなりゃしない。

危機を機会に換えるには、恨みつらみではなく、自信が必要なんだろうと思います。
そして今の彼には自信があった。
例えば、練習すればもっと野球が上手くなれる自信。もっと速く走れる自信。
だからあれだけネックになっていた「歩いて登校する」という危機を「筋トレ」という機会に変換することができたんだろう、そう思います。
こーゆー変換?が一番大切だったんだろうな、って思います。

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不登校卒業(仮)---その2---

行ったり来たりだった5年来の不登校から、どうやら脱した感のある我が家の次男坊2号です。
でもまだ判りません。
未来は誰にも判らないのですから・・・
だからタイトルも「不登校卒業(仮)」なのです。
それに彼には前科があります。
2年生の時、一年間フツーに登校していながら、3年生の時にはまたまた不登校に戻ってしまいましたからね。
あの時とは事情が全く違いますが、それでも判らないです。

これから先、もしかしたら「学校に行きたいけど行かれない」不登校ではなく、「学校に行かないことを選んだ」登校拒否になるかもしれません。
それが心底息子が選んだ道だと言うのなら、親と言えども他者には何も言う資格などないのでしょう。
ま、そうなったらそうなった時のことですけどね。

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2006年10月11日

不登校卒業(仮)---その1---

ココを放置したまま早数週間・・・
その間に、保育園年長組からの登園拒否&不登校だった我が家の不登校児次男坊2号少年が、先月の運動会以来、順調に「フツーの登校」ぴかぴか(新しい)をしておりますいい気分(温泉)
不登校をしていた子どもが学校に戻った時、よく聞かれる周囲の言葉に
「今まではいったい何だったんだ?って思うよ。」
というものがありますが、我が家も御多分に漏れずってところですトイレ
もっと言えば
「この子は本当に不登校してたんだろうか?」
なんて思えてきます。
喉元過ぎれば…ってことかもしれませんが、そう思ってしまうくらい2号クンは楽々と当たり前に登校しているんですよね。
周りの大人の方が目フリーダイヤルわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)ってなもんで、拍子抜けしてしまいます。

2年生の時、一年間だけ「フツーの登校」をしていた2号クンですが、その時とは雲泥の差があります。
2号にとって、不登校をしていた長い期間よりも、毎朝死に物狂いで気合いを入れて通っていたアノ一年間の方がキツかったのかもしれない、なんて今更ながらですが思いますダッシュ(走り出すさま)あせあせ(飛び散る汗)

長い長いトンネルを潜り抜けた今、彼は学校に行くことが楽しくて仕方無いオーラさえ漂わせていますのでね。
長い長いトンネルを抜けた今だからこそ見える様々なことが、今の彼にはカルチャーショックのような影響を与えているようです。
良いことも悪いことも、楽しいことも苦しいことも、今のところ楽々と、そして嬉々として体験し、こなしている、そう思えます。

どうして5年間も苦しんだ不登校から「運動会」なんつーただのイベントをきっかけに登校できるようになったのかと言えば・・・
一言で言えば
ただいろいろなことのタイミングがピッタリと合っただけ
と言うしか無いと思います。
そして
そのタイミングを逃さないための準備が整っていた
と言えるのだろうと思います。

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2006年08月16日

野球で亀田和毅にしたらどーお?って言われた

我が家の不登校次男坊2号坊ちゃんは野球少年です。
バカ親丸出しでスンマソンなんですが、身体能力と野球のセンスは群を抜いているのだそうです。
学校に行っていないにも関わらず、「2号クンはすげぇexclamation×2」ということは、子ども達のみならず親御さんの耳にも入っているらしいです。

・・・・・・

そりゃ小学校の5年間ほとんど学校に行ってないだけでも目立つんだろうから、そんな子どもが少し野球が上手けりゃ余計に目立つんだろうよ、なんて思います。
嬉しいというよりも、ほっといてくれ、なんて思ったりするへそ曲がりな私です。

そのせいでしょうか、、、、、、

このところ、立て続けに野球と全然関係のない保護者のお父さんと、野球でお世話になっている先輩お父さんに言われたことがあります。

「野球のことだけ考えた生活にしたら?」

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2006年07月09日

I Accept All of Me そして You

I Accept All of Me
直訳すれば、「私は自分のすべてを受け入れる」ってなことになりましょうか?

自分を丸ごとゴロっと受け入れるなんて、チョット考えれば簡単そうで、出来そうで…というよりも、出来ているから生きてるんじゃないのさ、なんて思ってしまいそうで、でも案外出来ていないのが、「ありのままの自分」を受け入れるってことだと思います。
だって、自分のありのままの姿って自分が一番判らないことなんだろう、って思うんですよね。

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2006年05月02日

怒鳴りつけちゃったっす・・・

昨日の予告とおり、今日もまた息子が通う中間教室に行きました。
今日は「一日生徒」ではなくて、随分と前からおとーさんと一緒にお話に行く予定になっていたんですよね。

常々、おじいちゃん先生と女性先生の微妙な不協和音については息子が漏らしていました。
息子はおじいちゃん先生の言っていることが正しい、と言います。
どちらかと言えば、私も同感です。

でも、昨日も書いた通り、言うなれば「○ューレ的」な女性先生と体育会系的な「乗り越えようぜ」という考えのおじいちゃん先生の、その両方の指導があってこそ、子ども達は追い込まれることもなく、出口への模索をすることもできる場所でいられるのだ、って私は思っています。
どちらが正しい、どちらが間違っている、というのではなくて、そのどちらの考え方も間違ってなくて、でもそのどちらか一方だけでは子ども達は救われないのだと考えているんです。
だからこそ、お二人の先生が上手に連携をとって欲しいって思います。

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2006年02月12日

忘れた頃にまたSC・・・

今年度から小学校にスクールカウンセラーが配置され、第一発目のクライエントがウチの不登校息子で質問攻めにあって辟易した、ということは以前書いた。
『スクールカウンセラー』
 ⇒http://ojachan.seesaa.net/article/4741075.html

少し前のこと、学校からスクールカウンセラー(以降SC)についてのアンケートなるものが届いた。
私宛のものと息子宛のものの合計2通で、内容は同じ。
で、私も息子も書きもせず、当然提出もしなかった。
息子は思い出したくもなかったようだし、私はと言えば、SCの今後の活動に活かすためと書かれたそんなアンケートに書けるような感想はない。
すっかり忘れていた胸くその悪さを、改めて思い出させくれてありがとう、ってカンジがした。

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2006年01月02日

紋切り型の落とし穴

ken師匠のエントリ『交流仮面』http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-234.htmlに出てきた「紋切り型」という単語が、私の中で「そうそう、これこれ」とマイブームになった。
決して初めて出合った単語ではないのに、なぜ今更マイブームになったかと言うと、それは私の中の「なんとなく」を的確に表現しているモノだったからなんだろうって思う。

どこのブログだったなかぁ・・・思い切り忘れてしまったんだけど、こんな内容の記事を読んだ記憶がある。
世間とか常識とかフツーといったモノの中ではマイノリティである存在の、でもそのマイノリティな世界の中でのある意見なり人間なりが、時間の経過や数の増加によってその世界の中でのマジョリティになる

ぶっちゃけて言えば、不登校社会の「学校なんて行かなくても良いのだ、無理しなくてもいいのだよ、フツーってナニよ、学校や社会がおかしいのよ」というような、ある意味不登校社会(ってヘンな言葉だけど)での常識的意見、なんてことでもある。
登校支援なんてしようとすると、「なにやってんのよ!親の価値観を押し付けるんじゃないわよ!」なんて言われてしまう。
更には「学校とはナンゾヤ」なんていう講義まで聞かされてしまう。

私にしてみたら、そんな不登校支援者達にこそ
「なんでそんなに学校に行かないことに拘るのだ?」
なんて思えて、世界の七不思議以上の摩訶不思議以外の何物でもない。
「学校なんて・・・」とか言ってるアンタ達の方が、よっぽども学校に拘ってるじゃないのさ。
早く卒業しなね、なんて思う。

でも、こんな風に思うことを表現するときに、マイノリティとマジョリティという分類ともチト違うって思った。
確かに不登校支援をしている方達のそーいった考え方というのは、不登校というマイノリティな社会の中でのマジョリティではある。
でも「それって違わね?」って言いたい時に使う言葉じゃない。

そんな時には「紋切り方」という単語がぴったりだ。
ウン、しっくりくるなぁ・・・

で、「そうそう、これこれ」ってカンジで、今の私のマイブームって訳。

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2005年08月18日

間違っているのか古いのか=自分

もう何度も書いているのだけれど、ウチの息子の不登校の解決≠学校に行くこと、なんだと思ってる。
漢字が覚えられないから授業が判らない。だから学校に行くのヤダ。
ならば、覚えられないと言えるだけの時間を費やしているかと言えば、「3回も書いたって覚えられない」のだそうだ。

学校に行く行かないをどーこーする前に、たった3回書いて「オレってダメなんだ」って思っちゃうことの方が問題だ。
それ以上の努力を無駄だと思っていることの方が問題だ。
たった3回書いたくらいで漢字が覚えられるのなら、学校なんて行く必要ないじゃんよ。
でも彼は「お利口さん」じゃないといけないのだと思っている。自分は3回書いたら覚えられる筈だと思っているのかもしれない。自分の姿が見えてない。

ナゼだろう・・・
生まれ持ったもの=1/3 親の姿勢=1/3 保育園の時の位置・扱い=1/3
本当は半分以上は、保育園の時に必要以上にチヤホヤされたことだと思ってる。
でもそれに気付かないで、それをチョットは自慢に思っていた親も共犯だと思うから、等分した。
でも、決して学校の中で優秀じゃなかった私にしたら、出来ないことがあって当然だと思う。
苦手なことがあって当然だと思う。
大切なのは、それをいかに克服してやろうかとか、テキトーに流すにしても自分が「まぁいいや、こんなもんで。」と納得できるところまでの理解を試みるような、そんな姿勢じゃないんだろうか、って思う。
結局のところ、不登校の解決ってさぁ、不登校なんてどーでもいいの。
不登校によって見えてくる、我が子の「それでいいのかい?!」を解決したいだけなんだ。
でも、それすらも「個性」だから、そのままありのままオンリーワンで良いんだろうか?



長男1号が入学式翌日に
「“む”って字が書けないボクはバカだから、学校行かないぃ〜〜〜」
と泣いて転げまわった。
「バァ〜カ。バカだから学校行くんでしょうに。最初から書けたら学校要らないの!」
と言ったのは私だ。
子ども達の中で、「学校は勉強を教えてもらう場所」という認識が無いの?
そう考えてしまうのは「子どもの特性」なの?
学校っていうのは、自分の知識を人にヒケラカシテ優越感に浸る場所なの?
それとも、子ども達がそう思ってしまうようなナニカがドコカに在るの?

そのナニカが何かは判らないけど、親が学校で勉強することを先取りして教えて、塾に通わせて、当然のように学校の成績が優秀なのだろうけど、それが今時の学校、なんだろう。
それが学校という場所に居続けるための必須条件なのかもしれない。
私のように「バカでもい〜じゃん。学校は勉強を教わるところなんだから。」なんて考えの親は、絶滅危惧種なのかもしれない。
「おかーさん、ここ教えて」と言われて、確かに1号が低学年の時はケンカしながら教えた。
でも高学年になってから、「これじゃいかん!」と思った。
「センセーに聞きなさい。何のためにセンセーがいるのよ。」
なんて答えるようになった私は、超絶滅危惧種なのかもしれない。

「個性の時代」「個性を伸ばす時代」にあって、出来ないこともほどほどはガンバルこと、を子ども達に身を以って覚えて欲しいなんて思っている私のような親は超絶滅危惧種Maxかもしれない。
学校に行くことがイヤなことだからこそ、学校に行かれるにはどうしたら良いのか自分で探求して欲しい、間違ってもいい=「お利口さん」じゃなくてもいいから行動を起こして欲しい、なんて思う私のような親は、すでに絶滅しているのかもしれない。

「怒られることを恐れるな」的なことを自分の体験談を交えて子どもによく言うんだけど、そんな子どもは学校には居辛いに決まっている。
でもそんな居辛い場所に居続けることもまた、身に付けて欲しいと思う。

なんて欲張りな親なんだろうと思う。
でも、そうやってあなた達のお父さんもお母さんも生きてきたのだから、そして今幸せなのだから、多少の困難や苦労は乗り越えられるのだから、ガンバレ!って思う。
這い上がって来い!って思う。

こんなことは子どもの人権を無視した育児なんだろうか?
親の押し付けなんだろうか?
「学校になんて行きたくない」⇒「いいのよ、行かなくて」
「漢字なんてやりたくない」⇒「いいのよ、得意な算数だけやってれば」
そうやって子どもの個性を伸ばしてやることが、良いんだろうか?
「寿司のネタだけ食うなんて、他人様の家に行くのに裸足なんて、他人様の家でのど渇いただのお腹すいただのなんて、そんなお行儀の悪いこと許さん!」
なんてことを言っていてはいけないんだろうか?

こんな子育ては間違っているんだろうか?
こんな子育ては古いんだろうか?
だからこそ、子ども達は学校という次世代を担う新しい人種の中で生き辛いのだろうか?
時々、こんなことを思う。

そして時々
「ウチにはおとーさんが2人いて、おかーさんがいないのかもしれないなぁ」なんて思う。
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2005年08月06日

問題解決という経験

何か大きなトラブルを抱えた時、すンごい失敗をしちゃった時
「これが夢だったらいいのにのなぁ〜」
って思う。多分、そう思ったことがあるのは私だけじゃない筈。
でも悲しいかな、絶対に夢でなんかないのは自分が一番良く判ってる。
若いころは・・・イエイエ、今でも、「お願い、チョーノーリョクでもマホーでもなんでも良いから、無かったことにして!」って思う。
本当に思う。心底思う。切実に思う。結構マジになって脳みそあたりに力を入れてみたりする。
でも、やっぱりそんなこと、私には出来る訳がない。

問題があまりに大き過ぎると、そんなことを願わなくても、なんとなく夢の中にいるような感覚にならないだろうか?リアル感が薄れてしまわないだろうか。
そんなのは私だけだろうか?
なんとなく感覚が鈍いような、もう一つはっきりした認知が出来ないような、まるでTVを見ているような、ヘンなカンジになる。
動物は捕獲され喰われるときに快感らしきものを感じるらしいけど、それに近いことが私の体内にも起こっているのかもしれない。現実逃避、という防衛機制なのかもしれない。
そして、なぜか時間の流れはゆっくりしているようで、でもむちゃくちゃ速いような気がする。
すごく動揺しあり焦ったりしている自分と、思考が停止しちゃったみたいにボーっとしている自分が同居する。
自分の中や外のいろいろな物事が上手く連動している現実世界とは違って、そんな時はみんなてんでバラバラなんだ。

問題が徐々に解決に向かって行くのと同時進行で、徐々に現実世界に引き戻されていくような気がする。その問題解決だって、最初の頃はどこか夢の世界に居ながらやっているような気がする。
それまで麻痺していたどこかが「痛い」・・・実際に体のどこかが痛いというんじゃなくて、心が痛いとか、そんなカンジの痛い・・・という感覚も、徐々に感じてくる。
ハッ!と現実に戻った瞬間、地獄のような苦しみを感じる時もある。
なんだかよく判らないけど、「ウワァ〜〜〜〜」っと叫びたくなる時がやってくる。
その瞬間が正直恐い。
そのせいだろうか、どこかでこの「夢の世界」から出ることを嫌がっている自分がいる。
出なくてもなんとかなるだろうことを知っている自分もいる。
でも、出なくちゃダメだって言っている自分もいる。


私は大抵の場合、ウツロな夢の世界から出る。
それは話に聞いた産まれる苦しみ、狭い産道をとって産まれ出てくる赤ちゃんの苦しみに似ているのかもしれない。
赤ちゃんが「オギャー!」と産声を上げるように、「ウワァ〜〜〜〜!」と叫ぶ。
実際に叫ぶ時もあるし、心の中で叫ぶ時もある。
だからどちらかと言えば、体育会系の、困難は乗り越えるタイプの人間なんだと思う。
そしてそういう下地を作ったのは、そうやって生きてきた母の姿が大きいのだと思う。
そうすることを余儀なくされた育った環境が大きいのだと思う。
でもきっと、ウツロな世界から出なくても生きては行かれる。
なんとかなるのだろうって思う。
でも、私にとっての大切な人たちが私がウツロな世界にいるがために苦しむことは耐えがたい。
たったそれだけの為に、私は狭い産道を通ってウツロな世界から出る。

現代社会では、そんな体育会系のノリはウザイとか、暑苦しいとか、泥臭いと言われることなのかもしれない。
あえて自分が苦しむようなことはしなくても良いのかもしれない。
例え私がウツロな世界に居たとしても、それが個性であり、オンリーワンであり、みんな違ってそれで良い、と言われることなんだろうから。
「無理しなくて良い」世の中なんだろうから。

でもそんな考え方は、私の「個性」を構成する一因である私の「思考の方向性」とは相反する。
そんな今時の社会と反する私もまた、オンリーワンなのだ。
「社会が変われ」と同じように、「私のナニが悪い」もまた認められる現代社会ということなのだ。
大変な時代になっちまった、ってことじゃない?

学校なんて行かなくても良い、と言ってしまうのは簡単だ。
学校なんてあってもなくても、人一人を形成する上では大して変わらない。
社会がどんな社会だろうと、学校なんて行かなくてもなんとか生きていかれるだろうよ。
人生っていう長いスパンで見る時、学校に行くことが経験なんじゃない。
問題を解決することが経験になるんだ。

人生の時々に、その経験が役に立つんだ。
「学校」なんてモノだけで人の人生を考えてしまうのは、あまりに狭い了見だと思う。
学校なんてモノを過大評価し過ぎてる。
問題が大きければ大きいほど、例え時間がかかってもその問題は解決することを経験するべきだと私は思う。
ウチの息子にとって、たまたまその問題が不登校だ、というだけのこと。

彼の中で「行きたい」と思う気持ちがある以上、それは「登校すること」が彼にとっては問題の解決になるんだろう。
それを「行かなくても良い」と周りの大人が刷り込んでしまうことは、問題の解決にはならない。
それどころか、彼の貴重な経験を取り上げてしまうことになる。
それが大人のするべきことなんだろうか。

社会がどうであろうと、人間はその中でしか生きられない。
サラリーマンだろうと社長だろうと農業だろうと漁業だろうと傭兵だろうと扶養家族だろうと、どんな形であれ、産まれちゃった以上は例え不本意であっても生きていかなくちゃならない。
学校や学歴なんてものを必要としない生き方はあっても、問題解決を必要としない生き方は無い。
だからこそ、不登校の解決に学校なんて、社会なんて関係ない、と言いたいんだ。
大人は社会のシステムを教える前に、どんな社会でも共通に生きて行く為に必要なことを子ども達に教えなくてはいけないんじゃないのかな?
それを無視して社会システムに沿ったことを教えても、何の意味があるんだろうか?


と、毎回毎回同じことばかり書いているのだけれど、結局のところ、カンセラーなんて商売が繁盛するのは現代人がいかに自力で問題解決が出来なくなっているかってことを証明してるんじゃないだろうか。その上、カンセラーに問題解決のためのヒントや解答を求めるクライエントって多いんじゃないかって思う。カウンセラーも大変だ。
カウンセラーの本分はタダ話を聞いてくれるだけだぞ。
ヒントならまだしも、解答なんて口にするカンセラーはカウンセラーだからこそ、そこら辺の占い師よりも性質が悪いと思うけどな。
いいのか?そんな人に自分の人生預けちゃって・・・
小難しい理論よりも、学歴よりも、もっとしっかり生きるための力をつけようよ。
なんて、思う。


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2005年08月02日

年齢差による発達の差

現役の高校教員であるゆみままさんからコメントを頂いた。

学校について、教師について、決して良いことを書いてはいない私の記事に、現役の高校教員の方からコメントを頂けるとは、少々驚きでもあり、多々嬉しいことでもあった。
コメントを拝見して、「こんな先生が沢山いてくれたら不登校も減るだろうになぁ」なんて思った。
逆に、「アンタそうじゃないのよ」という教員のコメントもまた、来たらおもしろいなぁ、どんなこと言うのかなぁ、なんてことも思う。

ゆみままさんのコメントに登場するDさんも、過去の私も、ウチの息子も、学校に行かなくなった理由?原因?には「担任」の存在があったという共通点がある。
そして異なる点は、年齢にある。

Dさんは高校生。私は小学校4年生。2号は・・・難しいところだが、登園拒否は5歳だし、そこから尾を引いた不登校は小学校1年生。
それぞれの人間が経験したのは不登校という共通項なのだけれど、それぞれの人間の年齢が違うからこそ解決できたり拗れたりしたことってあるんだと思う。

言語・思考・認知などなど、それらは相互に関係しているし、身体的な発達と経験値的な発達もまた、相互に関係している。個人と置かれている環境なども相互に影響し合う。
持って生まれたモノと、生れ落ちてから影響を与え与えられながら関係する沢山のモノとが互いに関係し合って、一人の人間を形作って行く。
同じ人間であっても、過去・現在・未来では、別の人間だとも言えるかもしれない。
個性や人格、環境・状況の違い以前に、不登校の解決にはたった一つの正解というのがない、ということには人間の持つ年齢による能力の違いということもあるんじゃないだろうか。

人間というのは加齢に伴って発達していくものだから、当然高校生と保育園児では持っている能力は違う。
自分の気持ちを伝える能力も、自分の気持ちを自分自身が理解する能力も、未熟な年齢で大きな問題を抱えるよりも、せめて自分自身の気持ちを伝える能力だけでももう少し発達してからの方が自分にとっても周りにとっても理解しやすい。
理解しやすいということは、考えやすいということだ。
低年齢の不登校はあらゆる面で未熟だからこそ、なぜこうなっているのかが「判らない」のだろう。
「ナニが判らないのかも判らない」状態なのだろう。
周りの人間に助けを求めたくても、なにをどう助けてもらいたいのかも判らないのだろう。
周りの人間がサポートを試みる時、それはあくまでも「想像」による理解でしかない。
本当に本人がそれを望んでいるのか判らないし、本人にすらナニを望んでいるのか判らないのかもしれない。

年齢が上になって、そういった能力がある程度発達したとしても、果たして本人の言っていることが的を得ているとは限らない。
本人であっても自分の気持ちを理解するときに間違えてしまうことがある、ということだ。
自分の気持ちの本当のところを本人も気付かないなんてこともある。
だとしても、ある程度発達していろいろな能力を持っているということは、それだけ自分自身により近い考えが出来るのだろうし、誰かに助っ人を求めるにしても、より理解してもらえやすいだろう。
何よりも、ナニを考えれば良いのかが明確に判ることは大きい。

Dさんのように、旧担任の謝罪を求めたり、その為にゆみままさんにサポートを頼んだりするような思考や行動力は、過去の私には無かったし、今の2号にも無い。
担任に対する不信感とか、怒りとか、そういうものは恐らく同じくらい持ってはいると思うけど…
前に進むための問題解決の方略、という視点で考えると、その違いはかなり大きいと思う。
そしてゆみままさんの尽力で旧担任が謝罪した(例え旧担任が納得してはいないとしても)ことは、Dさんにとっての不登校を完全に過去のイベントとして葬り去ったんじゃないだろうか。
それはDさんの中で、クリアするべき問題が明確だったからこそ解決できたんじゃないだろうか。

年齢の違いによる自我意識の違いとか、自己概念の違いもあるだろう。
年齢の低い子どもはまだまだ親の価値観をある意味「絶対」としているけど、年齢が上になればなる程今までと違う新しい価値観に影響され易いし、今までの価値観とは全く異なる価値観に対して「今までの価値観とは違うから」という理由だけで「正しいもの」と判断してしまうかもしれない。それは良い悪いの問題ではなくて、そういう年齢なのだ、ということなんだ。
そういった価値観は思考の素にもなる。

どんな年齢の子どもにも言えることは、問題に直面した時には死に物狂いで考える。
問題を解決すべく、今置かれている苦境から脱出すべく、脳みそが解けちゃうくらい真っ赤にして考える。
大人はとかく経験の中からプロトタイプを探し出して楽な思考をしようとする。
思考の一生懸命さでは、子どもは大人の比じゃない。
未熟だからと侮ってはいけないんだ。
痛いところをつかれたからって、意固地になっちゃいけないんだ。
そんな大人を見て同じように意固地になっちゃったら、それはソイツと同じ類の人間なんだ。
それで良いなら意固地になったまま時間を過ごせばいいんだろう。
年齢が低い子どもは、意固地にすらなれない。
安全基地で固まったまま動けないんだから。
固まっている状態、というのは一見同じに見える。
例え似たような状態であっても、年齢の差=発達の差=問題の質の違い、ということにはならないだろうか。
「不登校はなにも問題なんかないのだ」と言われてしまえばそれまでだけど・・・

posted by チャマ at 14:41| Comment(2) | TrackBack(1) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月19日

問題発生 −中間教室編−A  教師の理想は現実不可能

2号が徹底的に先生に反抗した金曜日、私は帰りがけ、先生から呼ばれた。
「話がある」というのだ。
そして、ここ数日の出来事を聞いた。
Mトくんに対する2号の気持ち、そしてMトくんに対する先生の態度への批判的な気持ちは、私も2号から聞いていた。前日の出来事も聞いていた。
このところ、2号からあまり「ご報告」を受けることがなかったから、これは余程腹ね据えかねたか、私に「先生をやっつけろ」と言っているのか、そのどちらかなんだろう、って思った。

オイ、コラ、チョット待て。
自分の援護射撃に親を使うとは何事だ!
自分の戦争は自分で勝利を勝ち取りなさい!


と思っていたので、先生の方から「話がある」と言われなければ、私も特別何も言うつもりはなかった。
2号が私に「ご報告」してきた時に言ったのは
「Mトくんと2号は違う。ソレ当たり前。だから、先生が2号の時に言ったこととMトくんに言うことが違うのも当たり前。
先生は先生なりに、Mトくんが続けて来れるように考えてるの。そうしないと、誰もMトくんを助けることなんて出来ないでしょ?それだけは心に置いておいてくれ。」

なんてことだった。

正直な話、私だって思い切り「先生、あんたおかしいッスよ」って思っている。
でもその反面、2号に言ったことも正直な気持ちとして思っている。
ただ、先生のやり方は学校と同じジャンって思うけどね。
ここが学校に行かれない子ども達が集まる場所なら、それなりにやり方変えなくちゃダメじゃん?って思う。もう一手間か二手間かけるだけで、先生が考えている位置に子ども達を連れて行ってやれるんじゃないのかな?

所詮は校長上がりの机上論・理想論しか知らない人種、ってことなんだなぁ。。。
かと言って、私はまだこの先生がそれ程キライじゃない。
私のようなクソ生意気なヤツと、それなりに議論してくれる数少ない人だしね。
でもね、最近「お話し合い」になると、「時間が」とか言っちゃって、逃げ始めていることを私はちゃんと気付いている。
ひょっとして、キライになる日も近いかも。
つーか、それ以前に私はすでに先生から嫌われているんだろうって思うんだけどね。
だったら余計にやり易ってことじゃないねぇ。

それはさて置き、お話し合いの目的は今日の2号の様子を私にご報告したかったらしい。
「オマエんとこの息子、ありゃなんだ!」って言いたかったらしい。
でも私だって言わせてもらいましたよぉ〜
「ここ数日のことは私も聞いて知ってるけど、家でフォローしきれません。ちゃんと正面切って子ども達と話し合ってくれませんかねぇ」って。
真正面に向かい合うのは、私じゃなくて子ども達じゃないの?


そんな話になってくると、必ず先生はこうおっしゃる
「今は人権だの個性だのっていうけどね・・・」
ハイハイ、オンリーワンなんて在り得ませんから、私だって同じこと思ってますから。
何も2号が好き勝手に生きることを望んでいる訳じゃありませんから。
コミュニケーションなんてのは、送受信が正常に行なわれて初めて成立するのでしょう?
受信する側だけに非があるなんて、おかしな話じゃないんでしょうか?
Mトくんの個性はそのままで良くて、他の子ども達はMトくんに合わせろなんて、そりゃ無理な話じゃないの?
先生が否定されている「オンリーワン」を、先生自身が作っちゃってるんだって、なぜに気付かないかなぁ?

先生のおっしゃる「どんな人ともみんなで仲良く」なんて、在り得無いんだよ。
そんなの思い切り不自然な人間関係なんだよ。
それが出来るのは、同じ地点を目指す者同士だけじゃないのなか?
それでも言いたいなら、「出来るだけ仲良くね」ってことで手を打つべきじゃないのかな?
それを強要することの方が、人権だの個性だのオンリーワンだの言っていることよりも悪影響なんじゃないのかな?
程ほど、って言葉が、今の社会には無くなっちゃっていないかな?
そんなことは何度も言ってきてるけど、未だに先生にはご理解頂けない。

いっつも同じところをグルグルと回っていて、「今は人権だの個性だの・・・」って話に戻る。
だぁ〜かぁ〜らぁ〜、と言って話し出すと「時間だ」と言われてしまう。
強引にOK牧場に連れて行かれてしまう。
困ったなぁ・・・コミュニケーションが成り立たないよ?それがセンセーの目指す世界なのかい?
やっぱりそんなの教師のただの身勝手じゃないのさ。
学校という制度を守るための詭弁でしかないじゃないのさ。
ったく、今も昔も、所詮教師は安定した職場の存在を守ることが最優先ですか?
あきれちゃうね。

とは言ってもね、おっちゃん先生は生活抱えた働き盛りじゃない。当の昔に定年になって本当ならば悠悠自適・晴耕雨読の毎日を送っている筈なのに、こんなクソ生意気な小僧や小娘の文句を聞かなくちゃいけない場所に毎日来るなんて、誰でも真似できることじゃない。
だから、それはそれ、これはこれ。
例えお仕事とは言っても、子ども達のことを一生懸命考えてくれていることに間違いはないんだ。
それには本当に感謝しているし、2号もそれだけは忘れちゃいけないんだと伝えている。
ただチョット、願わくばもう少し柔軟な発想というか、目下と思っているだろう者の言葉にも耳を傾けることを知って欲しいって思う。
それが出来ない者の姿こそが、「誰とも仲よし」が不可能なのだという証明だと言えないのかな?

さてさて、2号は今回はどうやって乗り越えるのだろう。
ハラハラドキドキしながらも、チョット楽しかったりする。
子どもの窮地を親が楽しむなんて、これもまた児童虐待・・・・?
なのかなぁ〜?

なんだかもっと書こうと思っていたような気がするけど、ちょっと今日はがんばり過ぎたかな。
何事も、過ぎるのは良くないなぁ・・・ウ゛昼間ミシった腰が・・・
posted by チャマ at 23:29| Comment(4) | TrackBack(3) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

問題発生 −中間教室編−@

正式名称「適応支援教室」、俗名「中間教室」なるところに通っているウチの不登校児2号。
なかなかウマが合わなかったMクンとも、いつの間にやら大の仲よしになっていた。
今じゃアナタ「あんた達って恋人同士?」くらいの勢いで一緒にいることが楽しくて仕方がない模様。
その上、チョット前に学校に戻ったと思われたMヤくんが舞い戻ってきて、悪ガキ3バ・・・おっと、悪ガキ3人組は毎日それはそれは楽しく過ごしている。
2号達の関係は、まるでマンガや小説で見られるような、なんと言いましょうか、雨降って地固まるみたいな、ケンカの果てに生まれた友情というか、そんなカンジなんだ。
今じゃアナタ、カっ!となってMクンが2号を殴っても、次の日にはちゃんと和解しいつもの通り遊んでるさ。お互いが自分の悪かったことをちゃんと自覚してるからこそ出来るのさ。
私になんて何一つ報告することもしなくなった。殴られたことすらあたしゃ〜知らなかった。
学校なんていう生ッチョロイ社会での対人関係とは全然質が違うんじゃ、質がさぁ。
そんな友達関係、学校に行っている子ども達には作れるのかい?


さてさて、そんな極楽のようだった「中間教室」が2週間前くらいから少しずつ変わってきた。
ボツボツと新しい子ども達が何人か入ってきた。
安定して通ってくるまでには、それぞれドラマがあった。
これもまた、学校では決して経験できないだろう、いろいろなこと。

ところが、困ったことが起きた。
新しく通ってくるようになったMトくんが、どうしても浮いてしまう。
彼のドラマが一番強烈で、一番長引いている。
中間教室自体を大きく揺らしていると言っても良いかもしれない。

Mトくんは以前何度か我が家にも遊びにきたことがあって、私も知っている。
正直なところ、超チョー自己中心的な子だと思っていた。
不登校の子は多かれ少なかれ自己中な部分が強い子が多い様に思うけど、彼の場合は度が過ぎる。
自己中というよりも、感情の制御ができないように思える。
異常に表出するか、異常に押さえ込むか、そのどちらかにしか見えない。

一番困るのが、自分の思う通りにならないとパニックを起したようになってしまう。
でもこれは大人がいる時の話。
子どもだけだと凶暴性を発揮して、その程度たるや半端じゃないらしい。
ウチにMトくんが遊びに来ている時に、丁度用事があってウチに来たあるお母さんが、私にはっきり言った。
「Mトくんってよく遊びに来てるの?だったらウチの子どもはココには来させられないワ。」
なんじゃそりゃ、って思ったけど、ウチにしてみたらどっちもどっちだから、別に構わなかった。
でも、Mトくんの評判はどこでもそんなカンジで、そして評判通りの子どもでもあった。
遊びに行く家々で問題を起して、怪我をさせたり暴れたり、帰らなかったり・・・
近所やちょっと遠いくらいの距離にある家では「Mトくんお断り」という家ばかりになってしまって、とうとう遠く離れた我が家に来るしかなかったようだ。
たまたまウチでは暴れたりパニクッたりすることは無かったけれど、自己中なところは如何なく発揮された。
真っ暗になっても帰らなかったり、突然やってきては我が家の都合を知らせても帰らないので、ある時思い切ってお母さんに迎えに来てもらうように電話した。
そして、それ以来、ウチには来なくなってしまった。

そんなMトくんが中間教室に来るようになった。
自分でも子ども達の中で浮いていることが判っているから、子ども達にしつこく媚びまくる。
邪険にされても、耐え忍んでいるかのように感情を押さえ込む。
押さえ込むというよりも、そんな傷ついた自分には気付かないようにしている、感覚をマヒさせている、そんなカンジがする。
でも一緒に遊び始めると、感情の制御を忘れてしまうのかだろうか、周りの子ども達は自分の遊び道具くらいにしか扱わない。自分の言った通りにならないと、スゴイことになる。
ところが多勢に無勢だから、結局は思い通りにならないで、拗ねて帰ってしまう。
Mトくんにとっては、感情を制御することも、制御できないことも、その両方共が彼にとってはストレスになってしまう。
そしてそのストレスを発散を、弱い者を徹底的にイジメル、という形でする。


教室の周りにいる野良猫を、しかもお腹が大きくて動けない猫をイジメル。
みんなで近くの池に釣りに行くと、釣った魚を石でメッタ打ちにして、更に踏みつける。
そんな様子を見て、2号も含めた子ども達はMトくんを今まで以上に避けだした。

でもこの図式は、学校でMトくんがされていたのとまったく同じことだった。
その様子を、おっちゃん先生は快く思わなかった。
子ども達に「Mトと遊べ」と強要し始めた。子ども達の「Mトと遊ぶと、Mトが好き勝手なことばかりしてオレ達はつまらないんだ。」なんていう訴えには耳を貸さなかった。
子ども達はそんな先生に反発し始め、そんな状態で2・3日過ぎた時、決定的な衝突が起こった。

いつもの如くのMトくんに、Mくんがキレて「オマエとなんてもう絶対に遊ばない!」と言った。
Mトくんは拗ねて帰ってしまったけど、おっちゃん先生はMくんを許さなかった。
「そんなことを言うヤツは、もうここには来るな!」とまで言ったそうだ。
それには周りにいたMヤも2号も激怒した。
「それは違う、悪いのはMトだ!」
2号とMヤくんは、2人してMくんの味方をしたけど、聞く耳を持ってすらもらえなかったそうだ。

その翌日、2号は徹底的に先生に反抗したそうだ。
言われたことを端から拒否した。
叱りつける先生に「昨日Mくんに『もう来るな』って言ったけど、そんなことは先生が決めることじゃない!」と言ったそうだ。

へぇ〜、やるジャン、ウチの息子。
ついでにもう一つ、大人になっとくかい?


−教師の理想は現実不可能− に続く
posted by チャマ at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月05日

学校を考えてみた A

個人が学校に行くため・行かないため・適応するため・・・いろいろな理由から自分が納得するために「学校」を考えるなら、自分が納得さえ出来ればどんな結論でも良い訳で、そうやって導き出した結論によって問題が解決できればそれが正解、ということなんだろう。
でも、それを社会に向けて、世間に向けて「こうあるべき」と発信することは違うんじゃないだろうか?
なぜなら、人間は多種多様であるからこそ、それぞれが抱えている問題は違うのだから、1つの問題解決のための正解が他の問題の解決にとっては必ずしも正解にはならないことが考えられるから。

不登校という視点から学校を考えると、確かに「学校が悪い」とか「制度が悪い」とか「オルタナティブ教育を認めろ」というのも判らなくも無い。
「学校というのは社会性や協調性を養う場なのだ」という意見には、「今の学校を見てみろよ。社会性とか協調性なんてどこにあるのサ」って思う。親の目が届かない場所であるところの学校なんて、やりたい放題野放し状態でっせ。それを権力でねじ伏せている今の学校のいったいどこに、社会性やら協調性があるって?
家庭のストレスを捨てる場所=学校、なんだってば・・・
そんな学校に通うことを義務にしている制度が悪い、ホームスクーリングでもフリースクールでも良いじゃないか、とりあえず子どもが教育を受ける権利を保障すればいいんだからさぁ。
なんて主張が声高にされることも、全然不思議じゃない。
学校に関わっているのが、不登校という問題を抱えた子どもだけならね。

子どもが抱える問題は、なにも不登校だけじゃないんだ。
児童虐待、ネグレクト、安定しない家庭環境、経済的危機・・・いやはや、子どもは大変だ。
そんな子ども達を、登校させる義務があるからこそ学校が助けている、なんてこともある。
体の異変に気付いたり、衣服の汚れからネグレクトが判ったり。。。
給食費を納めず終いのまま卒業しちゃう子どもがいるのが実態だったりする。
家庭から逃げたくて、登校命!って子どもがいる。
学校というモノが、登校させる義務と担当省庁の管轄下にあるからこそ、守られている子どもっていうのが確実に存在する。
そんな様々な環境に置かれている子ども達すべてに、「学校が悪い」とか「制度が悪い」という主張は当てはまるんだろうか?
「教育を受ける権利」を保障していれば、「教育の形態は自由選択」でいいんだろうか?



「学校が(社会が?)抱える問題」としては、今は「不登校」が首位独走中なんだろうけど、それがいつ「虐待されている子ども」や、「育児を放棄されている子ども」にトップの座を明渡すことになるとも限らない。
その原因は不登校からの視点のみで変革された「学校」や「制度」にあった、なんてことにだけはならないようにして欲しいものだ。


そんなことを考えたら、「学校が悪い!」「義務教育という制度が悪い!」という考えは、私のカニ味噌からは消えてなくなってしまった。
つーか、それ以前に「学校制度が変わる」ことなんて待ってられないんだよなぁ。
ウチの息子は大人になっちゃうよ。

Bに続く(近日出来るだけ早く公開。。。予定は・・・やっぱり未定)
posted by チャマ at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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