2008年05月15日

心が動けない…ってことなのかな?

それまで歩いて通えていた学校から、例えばバス、例えば電車、例えばチャリと、チョット遠くの学校に通いだした高校一年生達も、ボツボツ生活にも慣れてきただろうこの頃です。

先日、上の子も下の子も我が家の息子と同じクラスになったことのあるお母さんに偶然会いました。
このお宅の上の娘さんは、我が家の長男坊あんチャンと同じクラスになった時、学校に来れなくなってしまって以来、我が家の次男坊と同じように学校の相談室に登校したり、中間教室に行ったりしていました。

オラが村からチョット離れた公立高校に合格した彼女は、中学校の卒業文集に自分が不登校だったことを書いていました。
卒業式の時、彼女のお母さんとそんな話をして、「もう大丈夫そうだねるんるんいい気分(温泉)」なんて言ってたのですが・・・




GW明けから高校に行かなくなってしまった、のだそうです。
先生も優しくて、友達もできて、学校には何も不満や不安はないそうなんですが、「学校」という響きというか場所がどうしてもダメなんだそうです。
特に何が、という訳ではないらしいんですね。

よく見られるパターンに、不登校の時の昼夜逆転の生活や夜更かし朝寝坊の習慣が抜けなくて、学校に行くというよりも朝起きるということが面倒で学校に行かなくなってしまう、というのがあります。
このお宅は、私が知っている限りではそれは当てはまらないだろうと思われます。

学校がチョット遠いので、それが余計に足を遠のかせているのかもしれないなぁ、とも思います。
私の職場同様、方角は違いますが彼女も山に向かって遠いのです。
というか、彼女の場合、山を一つ越えるんですけどね・・・
お母さんは「それはない」と言ってましたが、どうなんでしょ?
まぁ、確かに自分で決めて試験を受けて入った学校ですから、遠いことは判っていたとは思いますが、「まさかこんなに遠いとは・・・」なんて思っているかもしれないですよね。

高校は義務教育ではないですし、別に辞めたって構わないものです。
親が義務違反に問われることもないし、高校に行く行かないは本人次第。。。
逆に、親の義務ではない以上、親に通わせて下さいとお願いして行くべき場所だと私は思います。

ただ、今の世の中、高校は「卒業してて当たり前」であり、短大・専門学校でさえ「卒業してて当たり前」という時代に突入しつつあります。
いや、もう突入しちゃってるか?

学歴というのはその人の能力を判断する材料になり得るのかもしれませんが、今の世の中どんだけ勉強できなくても、どんだけ勉強しなくても、入れる高校・短大ってありますしね・・・・・
ま、卒業できるかどうかは知りませんがふらふら

そんなおかしな風潮の世の中ですから、中卒者に対する企業の求人なんてありゃしません。高卒だってないんですから。
子ども本人に何か特別やりたいことでもあれば良いですが、彼女は特に何がやりたいってこともないらしく、親としても「じゃぁ辞めてどうする?」と考えると、どうしたもんかねぇ・・・ということのようです。

不登校になり始めの頃とは違って、元気は元気らしいので、取り合えずバイトでもして違う空気を吸ってみたら?ってくらいしか、私には思いつきませんでした。
彼女のお母さんも、ただ家に居させるつもりはないからバイトはさせたい、と言ってました。

逆に、放っておいてただ家に居させるってのも案外いいのかなぁ、とも思ったりはしますが、私のように家でグダグダしてるの大好きぃ〜って大人になっても困りますし、そうなっても何ら責任を負うことができない私は、ただただお母さんの話をフムフムと聞くことしか出来ません。

「学校の何が」というのではなく、「学校」という響きというか、そういう場所がダメなのだ。
ということは、フリースクールもダメなんでしょうかねぇ?
私には何かこう、しっくり来ないというか、、、、、

私は中学生の時のある出来事から、それがトラウマになって「番茶」とその匂いがダメなのですが、このことは誰に言っても「へぇ〜(よく判らない)」という反応が返ってきますから、彼女にとっての学校が私にとっての番茶、ということなんでしょう。という理解の仕方しか私には出来ません。

我が家の次男坊ぼっちゃんが不登校になり始めの頃=心が一番疲れていた頃、
「生きていても何も楽しいことなんてない」
と言っていたのを思い出しました。

夢も希望も欲も、何も無い状態にいるんでしょうね。
余裕がないから心が揺さぶられない。
モノが揺れ動くためにはその周りに余白というか空いたスペースがないとならないんですが、そんなスペースが無いのでしょう。
心が揺さぶられないから感じることも少なくなるし、感じることが少ないから思考にも幅が持てない。

当時の次男坊ぼっちゃんはそんなカンジでした。

差し詰め、ソコの抜けそうな板の上に足を乗せちゃったってカンジでしょうかね。
このピンチから抜け出すには、乗せた足を蹴って踏み出さなくちゃならないんだけど、そしたら板が抜けちゃいそうで、どうして良いか判らなくて動けない。

心がそんなカンジ、なのかもしれませんね。

問題は学校ではなく、彼女の中にあります。
学校がダメだと言うなら学校から離れればいい。
そうすることによって彼女の中にある問題が解決できるのであれば、そうすれば良いのだろうと思います。
ただ、それが彼女が力強く歩いて行かれるようになるための正解だとは、誰にも断言できないことなんですよね。

私はニンジンが嫌いですが、今はニンジンなんて食べなくたってその分の栄養価はサプリメントで補える時代です。
ニンジンがダメだということがなぜ問題かと言えば、ニンジンが持っている栄養を摂取できないということにある訳ですから、ニンジンを克服しなくてもサプリメントを摂取することで根本的な問題解決はできる訳です。
つまり、問題はニンジンではなく、問題解決も対ニンジンではなく、ニンジンなんて表面に現れているだけに過ぎない、考えるべきはニンジンじゃなくて栄養の方、ってことです。

同じように、何がというのではなく「学校」がダメという彼女の問題が、表面に現れている「学校」であるとは限らないのですよね。
例えば、昼夜逆転や夜更かし朝寝坊の不登校の場合、その問題は学校ではなく生活習慣にある訳です。
そんな生活習慣を改善するために「楽しい学校」を望むことは、筋が違いますよね?
彼女が「学校」と言っているものが、もしかしたら「集団」なのかもしれないし、「人間」なのかもしれないし、そのまま「学校」であるのかもしれない。
それは学校を離れてみて初めて見えてくるんじゃないかなぁ。。。
学校に居続けて見えてくるのかもしれないけど、それでは彼女の心が持たないんじゃないだろうか、って思います。

サプリメントはただ水で体内に流し込むだけで、ニンジンのようにいろいろな味付けや調理方法で楽しむような食べ方は出来ませんし、確実にまとまった栄養価が摂取できる反面、お金も確実にお高くなります。
フツーにニンジンが食べられれば、私一人だけにこんな手間隙もお金も使う必要なんてないんですよ。
フツーが良いか悪いかという議論以前に、フツーってぇのはこういうことなんですよね。

学校に行くのがフツーと言われる世の中であっても、フツーは楽だけどフツーじゃなくても生きては行かれます。
ただチョット、やっぱりフツーよりは辛かったりキツかったりはするんだろうとは思いますけどね。

別にフツーじゃなくてもなんとでもなるけど、それはなるたけ個人でなんとかしておくれ、ってのが、社会のルールってことなんでしょ。
だって、人間誰だってフツーじゃないもの持っているんだから、それを全部公的事業として援助してたら、国が倒産しちゃいますって。だから「特別支援教室」なる公的支援も義務教育まで。

ま、選挙の票集めのために政治家さんたちが「アナタにも、それアナタにも」ってな具合でそれに近いようなことやってしまって、今じゃ我が国は実質倒産しているようなもんですけどね。
で?なにですか?そのツケを高齢者に回すって、いったいどんな国だここはちっ(怒った顔)

話を戻して・・・
「学校がダメ」という彼女は、学校から離れるのが良いんだろうって私は思います。休学って手もありますけど、それじゃぁ学校から離れたってことにはならないようにも思います。
ただ、長男あんチャンの中学校の担任の先生が、今という時代は一度レールから外れた者は徹底的に受け入れない時代だ、と言ってましたけど私も同感です。
リスクは高いんだろうって思います。
だからこそ、私なんぞが迂闊にそんな余計なことは言えないのであります。

もしかしたら義務教育の間に、相談教室やら中間教室やらにいかないで、まるっきり不登校に浸かってしまって学校から離れた方がよかったのかなぁ・・・なんて思ったりもします。
義務教育中ならまだ戻れますしね。
結果論でしかないので、なんとも言えませんし、過去のことを言ってもどうしようもないんですよね。もうやだ〜(悲しい顔)

我が家の次男坊ぼっちゃんは、不登校歴は長かったけど、あまりにも幼い頃からだったので、大抵のことは忘れちゃったみたいです。
相変わらず学校や部活や、他人に対する不平不満は絶えることがない彼ですが、まぁなんとか学校には楽しそうに行っています。
だって、中学生になって今や学校には大好きな野球があるんですから、学校に行くためのモチーフは俄然強固ですし、モチベーション上がりまくりでんがなるんるん
ただ最近、走ってばかりなのがご不満なようですが、それが部活ジャイちっ(怒った顔)
不登校をしていた頃、彼の中にあった問題が解決したのかどうかは判りません。多少解決しているように、私には思えますが、それが全部かどうかなんて判りゃしません。
それでも学校に行っているというだけで社会が決定だと言うなら、それで良いのでしょうね。
取り合えず楽しそうに日々を過ごしている息子の姿がそこにあるだけで、母は幸せであります。

きっと彼女のお母さんも、学校を辞めても彼女が幸せならそれで決定なんだろうと思いますが、何もやりたいこともない彼女が学校を辞めて果たして楽しい日々を送れるかどうか判らないってのが、もう一つ決断できない理由なのかもしれません。

やはり小さい頃の不登校と、ある程度自我が確立され始めた頃からの不登校とでは、違うなぁ、難しいなぁって思います。
不登校ということは社会から見たら問題ですが、その問題は少なからずその子の長所にも繋がっている、その長所故に発生するんだろうと私は思っています。
彼女が抱える問題が、上手い具合に長所として花開くことを願うばかりですね。
posted by チャマ at 16:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
チャマ様

どうも初めまして、元・引きこもりが語る、引きこもりからの脱出日記というブログを運営させて頂いているよーえつと申します。

チャマ様のブログを拝見させて頂いて、大変感銘を受けた共にに是非宜しければ私のブログと相互リンクして頂ければと思い、書き込みさせて頂きました。良いお返事を頂けましたら幸いです。
どうぞ宜しくお願いいたします。
Posted by よーえつ at 2008年05月30日 04:02
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