2007年12月10日

こまった人

ネット購入本の送料を浮かすために急遽購入した矢幡洋先生のスキゾタイパル本。
そのために後回しにしてしまった養老先生の本を読んでいる。
そのタイトルが「こまった人」
中公新書から2005年に出版されている。

養老先生の書いていることは、正しいのかどうかは別として、私には共感できることが「多い」。
「多い」というのは、決して全てが「おっしゃるとおり」とは思えないこともある、ということではあるけれど、「同感同感!」と思えることが「多い」のだ。

同感ではあるけれど、はてさて、そんな考え方をしている自分自身がその考え方通りの言動を実践しているのだ、とは限らない。
自分ではそのつもりでも、実際にはまったく反対の言動をしているのかもしれない。
それでも私は、自分自身の考えに忠実な言動をしているのだと「思い込んで」いる。

そして何よりも、そんな考え方に忠実であろうと思っている。

私にとって書籍というのは、それが例えマンガであろうがゲームの攻略本であろうが専門書であろうが、そこに書かれていることが正解なのではなく、そこに書かれていることは自分自身だけの正解を導き出すためのツールでしかない。
物事のいろいろな考え方を見聞するために本を読んでいるような、そんな気がする。

だって、本に書いてあることは一般論であって、私のために書かれたものでは無いのだから、そこに正解なんぞは書いていないのは当たり前なのだ。
その人の考え方が自分と同じであれば安心するし、違えばまた別の角度から物事を考えることが出来るようになる・・・かもしれない。




「こまった人」の中に、こういう一説がある。

[-前略- 科学は一般論を追及するもので、個々の出来事を説明しようとするものではない。]

「科学」という単語を「学問」と置き換えても良いんだろうと思う。

何度も書いていることだけど、学問ってぇのはフツーに生きていてそこら辺にあってなんとなく係わっていることを、誰にでも明確に判るように数値化したり式にしたり形式化したりすることだ、そうだ。
そうすることによって証明したりする、ことだそうだ。

要するに統計の上に成り立っていると言っても良いんだろう。

とくに心理学という学問は、統計学を学ばないとならないらしい。
様々な研究方法を用いてデータを取り、それを分析し統計を出すことで、傾向を導き出す、ということなんだろう。

統計の上に成り立っているって・・・占いと一緒ジャン。
って話になってくる。

例えば地球温暖化の問題だって、その原因がCo2の排出にあると言われるのは、気温の上昇とCo2の排出量が伴ったグラフを示すだけだと言うのだから、温暖化の原因がCo2にあると言えるかもしれないし、言えないかもしれない、ってことだ。
限りなく黒に近いグレー、ということなんだろう。

結局何が原因か特定できない以上、やらないよりはやった方がいいじゃん、ってことなんだろう。

学問なんてぇのはそんな程度のものだ、と私は思う。

でもね、知らないよりはやっぱり知っていた方がいい。
「やらなくちゃいけない」と思うのは違うんじゃない?って思うけど、「やってみる価値はありそうね」と思うことは間違ってないと思う。
やってみて違ったら別の方法を探せば良いのだ。
でも何も知らなかったら、別の方法すら探せないのだ。

養老先生はこうも書いている。

[やっとある結論にたどり着く。いま閉塞状況といわれているのは、万事を予測しようとするからではないか。そこまでなら、それでもいい。だれだって、ある程度の予測で生きているからである。しかしやがてそれが「結果が予測できないことはしない」になり、いつの間にか「してはいけない」になる。そこまでいくと、明らかに行き過ぎである。-後略-]

私の知人に、娘さんが不登校になった時
「小さい頃泥んこ遊びさせなかったんでしょうね」
と言われた人がいる。
似たようなことは、不登校云々だけでなく、様々な場面で言われるものだ。

彼女は言った。
「じゃぁなに?今から泥んこ遊びでもさせれば良いって訳?それとも子どものころにタイムスリップしろとでも?
冗談じゃないわよねちっ(怒った顔)
だから何?って言っちゃったわよわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

この場合、「してはいけない」の逆である。
「しなくてはいけない」になっている。

エリクソンの発達の段階なんてものを目にすると、親としては
「おお!この時期にこーゆーことを【してあげなければいけない】」と思ってしまうのも親心ってもんだ。

発達のそれぞれの時期にあーゆーことをすればこーなる、しなければこーなる、という予測が出来るからこそ、「しなくてはいけない」になるんだろう。

やらないよりはやった方がそりゃ良いんだろう。
でも「やらなくちゃいけない」ってぇのは違うだろう!って思う。

だって、予測はあくまでも予測であって、あーすればこーなるとは限らない。
あーしなくてもこーなるかもしれないし、ならないかもしれない。
予測をして計画通りに事を運んだ挙句、予測どおりにならかった時の方が悲劇だ、って思う。
予測どおりにならないことも予測すれば良いんだろうか?

私にはそんな高度な芸当なんぞはできゃしない。

私だって人間だから、そりゃあなた予測どおりにコトが進めばそんなに楽なことはない。
なんとかして自分が予測したとおりになるようにと日々悪戦苦闘しているのだって事実なのだ。
一般論の中に自分自身の正解を探そうとしている自分がいることも事実なのだ。

書物にしても、学問にしても、それを鵜呑みにしないように気をつけようと思っている。
そこにあることは一般論であり、事実や真実かもしれないけど私仕様では決して無いことを肝に銘じておこうと思う。

一般論と真逆に位置している(んだろう、多分)当事者の語り、というものもある。
当事者の語りは確かに語っているその人にとって紛れも無い事実である。
でもそこから導き出されたその人の正解は、必ずしも自分にとっての正解では決してない。
正解かもしれないけど、正解じゃないかもしれない。

じゃぁ、正解じゃないから知らなくても良いかと問われれば、知らないよりは知っていた方が断然お得だろうと私は思う。

学問も同じ。
知らないよりは知っていた方がいい。
占いも同じ。
知らないよりは知っていた方がいい。

そこに正解を求めるから間違える、のだと私は思う。


遅ればせながら、そろそろテキストをまとめに入ろうかなと思っている。
ただ、テキストのどこの部分が重要かという選択から始まって、ココで書かれていることは私の主観によって書かれている、ということです。
テキストに書かれていることが私によって間違って解釈されているとも限らない、ということ。

例えばある書籍では「エリクソンはその時期にその段階を踏まなければならないと言っている」と書いてあることが、テキストを平行される講義の中では「時期は問わず段階の順序が大切」と解説されている。
学問を教える立場の人達の主観によって、同じ事柄でさえ教授のされ方が違う。
人を介するということは、そういうこと。

だからこそ、知らないよりは知っていた方が良い、と私は思う。

で、やっぱり養老先生、読んでて飽きませんです。
posted by チャマ at 15:42| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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