2007年10月23日

「語る」ということ

以前から何度か書いているように、私はココに何かを書くことで自分の考えが整理されていくような気がしています。
ただそれだけのために書いているようにも思います。
当然のことながら、まとまってもいなかったり、矛盾していることを書いていたりするんだろうけど、それは悲しいかな自覚がないのですねがく〜(落胆した顔)あせあせ(飛び散る汗)
そんな矛盾を再考したり、まとまっていない考えをまとめるために、ココに書いている、と言ってもいいんでしょう。

本来ならば、ここに書くことは全世界発信しているのであるから、既に整理され「これが私の考えでござる!」という姿勢でなければならないんでしょうが。。。。。

ブログなんてものが無かった時代、こういう役割を担ってくれていたのは、日記であったり友達への手紙だったり、、、だったと思います。
結局のところ、今も昔も、何らかの形で明文化しながら私は自分の思いを形にし、確認してきたように思います。


さて、直前エントリから引き続き放送大学のテキストを引っ張り出してみると、私のみならず人間ってぇのは「語る」ことによって「未だ意味をもたない解釈以前の経験」に意味をもたせ、整理しているようです。

他者に語るにしろ明文化するにしろ、わかるようにしなければなりません。
どうやったら自分が語ることを理解してもらえるのかと考えることは、語る相手の視点が取り入れられることでもあります。
その相手とは語る形態によって、特定の誰かであったり、漠然とした一般社会だったり仮想の中の誰かだったりするのだろうと思います。
自分自身に言い聞かせる場合でも、一般的に理解され易い、受け入れられ易い意味をつけようとすることを考えると、「一般的な視点」が取り入れられているのだろうと思います。

「例えば、自分とは異なる聞き手の理解の枠組みに合わせて自分の経験を語り直すことで、当時の感情負荷を取り除いて、冷静な意味づけに修正することができる。自分を苦しめる否定的な解釈、思い出すと嫌な気分になる否定的な解釈からの脱却がなされるのは、そのようなメカニズムによると考えられる。」

と、テキストにはあります。
また

「自分の諸経験を肯定的な意味をもつ流れに秩序立てて配列することで、将来に向けて生きる力を与えてくれる新たな自己物語を創造していくのである。」

のだそうです。

不登校児童・生徒に「不登校の何が悪い!悪いのは学校制度やそれを当たり前と思っている社会だ」と言って納得させることは、正に不登校という経験に肯定的な意味を持たせることであって、将来に向けての生きる力を失いかけている彼らにとっては間違った方法ではないのです。

ただ、自己の物語=アイデンティティは変容するものであるということを忘れてはいけないのだと思います。
つまり、いつまでもソレではいけないのだと思います。

「肯定的」の背景には、社会から・・・少なくとも目の前の相手から承認してもらう、ということが条件としてあるのですから、承認してもらう側の視点を取り入れることが必要になってきます。
「承認なんてしてもらわなくて結構ちっ(怒った顔)」という言い分もアリだとは思いますが、本当にそれで自分自身が納得しているのかどうか、肯定的な意味をもつ流れにもっていかれるのか、、、、、
それは自分自身が一番よく判ることだと思います。

「自分の経験を他者に承認してもらい、共有してもらうことで、私たちは現実の世界の中に自分の経験を位置づけることができるのである。」テキストより

私たちは、自分の居場所を現実の世界に確保するために自分の経験を他者から承認してもらう必要があって、そして承認してもらうために他者が納得できる枠組みに沿った語り方をしています。
自分の経験=自己物語=自己を社会化するために、まず自分の語りを社会化する必要がある訳です。

勝てば官軍負ければ賊軍 という考え方は、他者が納得できる語り方なんてしなくても力で(結果で)承認させれば良いのだ、という考え方のように思います。
だからこそ、金平会長や亀田お父さんのように「勝っていればこんなことには・・・」的な発言になるのでしょう。
そこには「まず自分を社会化せねば」などという考えはありません。

そんな大人達に囲まれた息子は、18歳にもなって謝罪に訪れたはずのその先で「ここに呼んできて欲しい」などと相手を呼びつけるような真似をし、自分が乗って来た車の中で謝罪するという筋の通らないことをやってのけるようになってしまいました。
「謝ってやるからお前がウチに来い」と言っているのと同じなのですが、それがどれだけ無礼な振る舞いかすら判らない。。。
息子が携帯でお父さんに電話し、その電話で内藤選手に謝罪するようなお父さんですから、そうなるのも当たり前といえばその通りですけどね。

一方の内藤選手は、「彼が自宅のドアの前にいた」「お父さんから電話があった」と公表していました。
真実を語らない方が彼らのためになると判っていたんでしょう。
内藤選手は彼らが他者から承認されるよう、他者の枠組みに沿った語りをしたのですよね。
今になってナゼ真実が暴かれてしまったのか、という謎は残りますが、、、、、、

ま、ボクシングはどうでも、人間というのはまず他者・社会から承認されて、それから自分自身を承認することができるようです。
自分はどうだろうか・・・と考えると、その通りだよなぁって思います。
私に限らず、とかく「私は悪くない」と自己弁護したがる人間ってヤツは、そうしないと元気に生きていかれない生き物なんだろうって思います。
で、気がつくと、対自分にではなく、対誰かに対して一生懸命「私は悪くない」を証明しようと頭をめぐらしている自分がいます。
「私は悪くない」を証明するということは、誰かに承認してもらいたいからそうするのです。
自分が自分を承認するだけなら、証明なんていらないのですから。

私は頭があまり良くないので、大抵の場合「私は悪くない」という承認を社会にとりつけることが出来ないまま、すごすごと巣穴に引きこもってしまうのですが、世の中を見てみると
「こりゃ上手く承認してもらえなさそうだぞ」
と見て取るや否や、あらゆる方法を使って手当たり次第に周囲を仲間に引き入れ多数決に持ち込もうとするのが常套手段のようです。

一年間、少年野球の保護者を眺めてきて、一番タチが悪いのはこの「多数決に持ち込もう」とするタイプです。
言ってみれば、亀田父と同じような「勝てば官軍」タイプってな具合です。
マジョリティー=正論、という図式を狙ってのことだと思われます。

おらが少年野球チームに限って言えば、もうしばらくしたらそんな形で偽装された正論は木っ端ミトコンドリアにされる運命にあるのですけどね・・・ふふふ

人間関係においては、マジョリティー=正論という図式は成立し、愚痴のこぼし合い・不平不満の言いたい放題は承認されるのでしょうが、集団を円滑にかつ目的に沿った運営をするためには、本来の目的である子ども達のために大人がやらなきゃならないことは四の五の言わずに手伝うのだ、という図式は崩せないのです。
自分のやりたいことをやりたい様にやり、やらなきゃならないことをやりたくないからとやらずに済ますための理屈なんて、いくら正論のように偽装されても、それが例え保護者間でマジョリティーとなって一般常識化されたとしても、集団の運営という視点においては通用しないのです。


経験というのは、実際に他者や社会に承認されたかどうかよりも、自分自身が他者や社会に承認されたという手応えを感じた時にはじめて、意味を持つものになるのではないでしょうか。
言ってしまえば、承認されたという思い込み、ですよね。
人という生き物は、そんな手応えを感じること無しには生きていけない生き物なのかもしれません。
なぜならば、それは「将来に向けて生きる力を与えてくれるもの」だからなんでしょう。
誰からも承認されなかったとしても、承認されたと思い込める方法を、昔の日本人は知っていました。

「お天道様は見ているぞ」

誰も承認しなくても、真っ当な生き方さえしていればお天道様が承認してくれているのだ。。。
そういうことなのかなぁ〜、なんて思いました。

昔の人は心理学ではナンタラカンタラなんていう小難しいことは言いませんが、「そーゆーもんだ」ということはよくご存知だったんですね。
さて、現代人はどーでしょうか?
小難しいことを語るわりに、実生活の中にある「そーゆーもんだ」には滅法鈍感になっているように思います。

私はと言えば、ココで語って自分がどんな形をしているのかと確認しながら、一方ではお天道様が承認してくれればそれでいいやぁと思いつつ、でもそのもう一方では社会や他者からの承認を取り付けようと社会化に挑んでみたりする日々です。

どれをとっても、今居るこの実社会に自分の居場所を確保するための作業であることにかわりは無いのですけどね。
どーせ居るなら居心地良い方がいいに決まってますから。
posted by チャマ at 16:54| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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