2005年05月13日

不登校が苦しいのはなぜだろう…

前にも書いたけれど、不登校というのは学校に行かないから問題なのですよね。
でもそれは社会にとっての問題であって、学校にとっての問題であって、子ども自身にとっては問題でもなんでもないとは言えないのだろうか?

学校や社会や対人関係において、異常なくらい過剰な適応を求めれられる現代にあって、そんな状況の中に居続けられることの方が私には摩訶不思議・・・不登校になることの方が正常なんじゃなかろうか?なんて思える。
そんな中で不登校になることの、どこに問題があるというのだろう。

ところがそんな摩訶不思議・理解不能な学校であるにもかかわらず、そこに行かれない自分を一番認められないのは当の本人なのだろうと思えるのだ。
いやいやそうじゃないよ。周りが不登校を認めてくれないんだよ。とおっしゃる現役不登校や不登校経験者がいるかもしれない。
でもチョット冷静になって自分が不登校になった時、その最初の頃のことを思い出してみてはくれないだろうか。
周りの大人が不登校をしている自分を理解してくれない、なんて考えるようになれるのは、不登校になってからしばらくしてからじゃなかったかな?私はそうだったんだけど・・・
最初の頃の、なんとも言えないイヤァ〜な感覚、今どんなだったのか思い出そうとすると吐き気に似たようなナニモノかゾワゾワしたモノが記憶なのか今の感覚なのか判らないけれど、そんなおかしなモノがこみ上げて来るのは、当時の親や社会や周りの無理解がそうさせるのだろうか?
なんか違う、もっともっと切羽詰ったような、なんか違う・・・よく判らないけれど…

例え学校がどんな場所であったにせよ、行かなくてはならない場所である以上、そこに行きたくないと思う自分がいて、そんな自分に負けてしまったダメな自分というような、でもそんな確かな気持ちじゃなくて、なんとなくモヤモヤしたトゲトゲしたイヤァ〜な気持ちは不登校の最初には誰もが持つんじゃないだろうか?私だけだろうか?
他の人はどうなんだろうか?
自分が登校拒否した最初の頃、戦う相手というか、なんとか消化しようとするモノはそんな自分自身だったように思う。
だからこそムチャクチャ苦しかったのじゃなかろうか、とも思う。


じゃあ学校が行っても行かなくても良いような場所だったらどうだったろうか・・・
息苦しさは少しは軽くなっただろうけれど、やっぱり苦しかったんじゃないだろうかって思う。
その息苦しさというか、モヤモヤ感は、学校という存在が原因ではないような気がする。

不登校の原因は学校にある。そりゃ不登校だから当然だ。
でも不登校が苦しい理由は、本来ならば打ち勝つべき自分に負けてしまったダメな自分の存在にあるんじゃないだろうか?
そんな自ら「ダメ」と決め付けてしまった自分自身を、真っ先に受け入れなくてはならないのは親でも社会でもなく、紛れも無く自分自身なのだと思う。
それが出来て初めて、親が、学校が、社会が、なんてことを考えられるようになるんじゃなかろうか?
いやいや、もしかしたら自分自身を受け入れることができないからこそ、親が、学校が、社会が悪いという発想になるのかもしれない、とも考えられるのか?
そう言えば、自分自身の登校拒否でそう思い当たる節も・・・ここら辺りはもうちょっと考えてみようと思う。

自分自身をどうやって受け入れるのか、どんな自分を受け入れるのか、それは人それぞれ違って当たり前だし、そこにも正解なんてものはないのだ。
自分はダメじゃないんだと受け入れることも、ダメな自分として受け入れることも、どちらも間違ってはいないと思う。今のままで良いと思うことも、このままじゃダメだと思うことも、間違っていないと思う。
自分を受け入れる、ということ、ただそれだけが正解なんだと思う。

それが出来ない時、誰かの助けを必要とするのだろう。

支援してくれる人(時には複数だったり団体だったりだろうけど)が、「親の育て方が悪かったんじゃない。」とか、「あなたは決してダメな子じゃない。」という言葉を伝えてくれることは有り難いことだと思う。
「学校が悪い、学校にナンゾ行かなくても良いのだ」という意見に、「学校に行きたくないという気持ちは当然だよ、決してダメな自分なんかじゃないんだよ」という意味も含まれているのだとしたら、まったくその通りだと思う。
ただしそれを伝えるための言葉の選択は思い切り間違っていると思うけど。。。
そういう支援によってやっと息苦しさから抜け出せるってもんだ。

でもその一方で
「そんなダメな自分を乗り越えなくちゃ!」なんて思っている子どもだっているのだ。
ウチの2号はどちらかと言えばこっちなの。
マニュアル通りに「学校にナンゾ行かなくても良いんだよ。」と言ったところで、そんな子どもにはなんの効果もなかった。逆に「ボクは行きたいんだ!」と泣かれてしまった・・・
更にたまぁ〜に行く学校は、2号にとってそれはそれは楽しいところなんだから、始末が悪い。
こういう不登校にはそれなりの支援が必要なんだろう。
学校に行きたいけれど行かれないという不登校。
2号に関して言えば、彼の望みをかなえるためには逆に学校に行くことを無視しないことには、彼の望みをかなえる道はない。
登校支援というよりも、一言で言うならば、育て直し、ということになる。
親としては登校するしないはどうであれ、育て直しが必要だなぁということはその通りなのだから、
育て直しを登校支援に絡めることは一石二鳥ということなんだ。誰からも文句を言われる筋合いはないのだ。

やっぱり「学校なんて行かなくてもいいんだ。」と思っている不登校にも、「学校に行きたい。」と思っている不登校にも、学校なんて関係ない、って思う。
不登校の原因は確かに学校にある。
でも解決するべきことは、自分の中にあるのだと思う。
posted by チャマ at 22:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
不登校を子どもの頃にしていました。親の離婚で母方についたのですが、農家の子ばかりで話も合わず不登校しました。
私の場合、その前は私立にいたのでなんと言うか子ども心に、人は触れてきた環境で形成されるんだ、と感じました。
ですから学校からは逃げて一流の画集等に触れて育ちました。
今はそれが反映されています。
Posted by 不登校あり at 2011年09月03日 22:49
コメント、ご丁寧にありがとうございます!娘さんと一緒に写真を撮っていただいて、光栄でした。レポートもご覧になっていただいて、感謝しております!ご家族に、よろしくお伝えいただけませんか。
Posted by 矢口真里 元カレ at 2013年06月16日 09:10
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