2005年05月13日

不登校支援

不登校支援・・・この言葉の意味を考える時、そこにはその人が持つ「不登校」というモノへのスタンスが見えてくるのだと思う。

不登校を否定し、登校への支援をするという意味を当てはめる人。
不登校を肯定し、不登校のままを支援するという意味を当てはめる人。


これは流石に極論だろうけれど、前者を登校支援、後者を不登校支援、という言葉に分けられるのかもしれない。
あえて分類すればそうなるのだろうけれど、それぞれの人の中には例えば7対3とかいうようなカンジで、登校への是非、不登校への是非、学校への是非などについてそれぞれの比重というか、割合というかが存在するのだと思う。
不登校をしている本人も、その親も、周りの人間も、支援しようとする人間も、「これからどうしようか?どうしたいのか?」ということを考える時、出てくる結論はこれらの比重というか、割合というかに関わってくるのだと思う。
どういう方向性が正しいのか、どれが正しい支援方法なのだということは無いのだろう。
子ども自身、親自身の考え方に即しているか否かが問題なのだと思う。


何故ならば
子どもが皆「学校に行きたい」と思っている訳でもないし、不登校の子どもが皆「学校に行きたくない」と思っている訳でもない。親もまた然り。

子どもの人生なのだから、方向性への決定権は子ども自身にあるのだろう。
でも親は子どもを育てるという義務がある。
周りの人間にも立場によっては義務があったりする。
子どもが示した方向性を重視しながらも、親や周りは適度に微調整するべきところはそうするべきなのだと思う。
しっかりとした方向性さえ見極められれば、自分次第で周りにいるあらゆる人をこちらが密かに&勝手に支援者として認定することが出来る。
(いや、実ところ、この見極めが難しいのだ、ってことなんですけどねぇ・・・(~~+)
近所のばあちゃんからだって、茶のみ話の隙間から「おお〜!これはこれは!!」というような的確なアドバイスを頂くことができるのです。
そして支援をしようと言うのならば、支援する側の意向ではなくて、支援される側の意向に即するべきなのだと思う。


一元的に学校に行きたい不登校の子どもや学校に行かせたい親を「間違っている!判っていない!」として矯正しようとすることは、学校に行かれない不登校の子どもや学校に行かなくても良いと思っている親を「間違っている!判っていない!」として矯正しようとすることと全く同じなのだ。

ところが、支援をしてくれる人の中には自分達の考え方に賛同する不登校に対しては「アンタは悪くない」と言ってくれるけど、自身が理解できない不登校に対しては世間以上の冷たい態度を取る人がいる。この人の考え方を理解できないのは、そしてこの人が理解できない不登校の姿は、そう育てた親が悪いのであり、そういう親は不登校を理解していないからだなどと言う。
「不登校支援」というカンバンを掲げている人からそういう扱いを受けると、ごく一般の世間様から受けるよりも何倍も深い傷を受けることなる、ということを覚悟しておくべきだ。
散々人を傷つけておきながら、「賛同できないなら他所へ行けばいいじゃないか。何もウチだけが支援している訳ではないのだから。」なんて言い放ってくれるのだから、近年もっぱら評判が悪い学校よりも始末が悪い。
自ら支援してくれるような人ならばいざ知らず、こちらから支援を請うその相手を間違えるとこんなことにもなりかねない。
藁にもすがりつきたい気持ちの不登校&親に「支援者選びは慎重に」なんて言わなくてはならない現状があることは嘆かわしいといえば嘆かわしい・・・

運悪くそんな人に出会ってしまっても、その人が正解でもなければ全ての支援がそういうものでもない。当たり前のことだけど・・・
同じ支援の元で楽しい人生を送れる人もいれば、もっと辛い人生になってしまった人もいる。
人から支援を受けるということは、支援する人の持つ価値観や人生観やいろいろなモノに対する考え方の影響を受けるのだということを覚悟しなくてはいけない。
すべてを支援してくれる人の言いなりになることはないのだし、支援してくれる人に頼りきりになったり任せきりにするのは全く以って論外の外のはずれだと思う。誰の子どもだぁ!ってことだ。

支援してくれる人によって、支援してもらうのはココマデという線引きを変えることも必要なのです。



当然のことながら、支援はあくまでも支援であって、それ以上でもそれ以下でもない。
たまにそれ以下はあるかもしれないけど・・・
学校と同じでタダ利用するためにあるというだけのモノなんだ。そこにはなんの正解も存在してはいない。
自分は本当はどうしたいのだろうか?
正解があるとしたら、この答えのみが正解なんじゃないだろうか。

そのために・・・なんてことは二の次・三の次でいいのだ。
どうせ不登校になったんだから、良いチャンスなんだ。
時間はたっぷりある。
ゆっくりと考えてみることを誰が止める権利があるものか!なのだ。


<余談>
ウチも「学校に行かせたい親」VS「学校に行きたくない子ども」なんていう簡単な図式に当てはまれればいっそのこと楽なんだけどねぇ・・・
必ずと言って良いほど「親が学校に行かせようとヤッキになっているから子どもが行かなくちゃって思うんだ」と言われてしまう我が家の不登校・・・
どうしてこういう決め付け方をしちゃうかなぁ…
当方所詮サルヂエしか持ち合わせておりませから、難しいことは理解できないでごザル。
ウッキッキ〜
<余談終わり>
posted by チャマ at 19:10| Comment(0) | TrackBack(1) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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