2007年02月16日

逸脱を考える、前に考えてみたこと

自分のブログも満足にエントリ出来ないくらいの調子なので、このところずぅ〜〜〜っとネット社会とは疎遠でいた。
したらどーだろう。
浦島太郎子だ・・・

全然増えないお気に入りリンクなんだけど、こりゃ削る必要があるようだ。
ken師匠のところでは、再び「逸脱」論議が熱を帯びているようだ。http://araiken.blog8.fc2.com/blog-entry-268.html

ken師匠のエントリされる内容は、大抵私には難しい・・・もうやだ〜(悲しい顔)
数行を理解するのに、結構な時間と根性が必要となる。
だって、単語の意味を調べることから始まるからねぇ〜わーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)
「まぁた難しいこと書いてるぞィ。」
と思いつつ、興味が先に立って読んでみる。

・・・・・・・

やっぱりなかなか頭に入ってこないんだけど、本題を理解する以前の段階で気になる一行を見つけてしまった。

【それに、きはむさんは「現代社会は逸脱を許すシステムに向かっている」との現状認識を示していますが、全くそんなことはないと私は思います。】

これには諸手を挙げて賛成する私であったりする。

難しいことは判らないけど、現代社会は決して逸脱なんてものを許すシステムには向かっていないと思う。
それどころか、そんなものを許さなくなってきている方向に向かっているとさえ思う。

子どもというのは、どーしてなんだろうか、人と違うということにとても敏感だと思う。
ちゃんと真っ当な理由があってそうせざるを得ない時でも、人と違うとかいつもと違う、ということにとても過敏になる。

おもしろいことに、違うことをする側の子どもだけではなく、周りの子どももまた、いつもと違うことをする子どもに過剰に反応する。
それはきっと、今も昔も変わってないんじゃないかって思う。

ただ違うことは、今の子どもは躊躇なく「口や態度に出す。」ということじゃないだろうか。
私が子どもの頃だったら、「アレ?」と思っても、なんとなく「言ってはいけないこと」とか「知らん顔するもの」という意識が働いていた。
でも、今時の子どもはイケシャーシャーと平気で口や態度に表すってことは言えないだろうか。

子どもらしい素直さを建前に、自分のストレスのはけ口の道具にしている、そんな風に見える時さえあるのは私のへそが曲がっているからだろうか。ふらふらダッシュ(走り出すさま)

少なくとも私が「なんとなく」感じていた「見なかった・気付かなかったことにしよう」という働きかけをするソレは、今の子どもたちにはあまり感じられないモノのようであることは、なんとなく判るわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

その「なんとなく」を紐解いてみれば、「人にはそれぞれ事情ってもんがあらぁね。」ってことだったり、「自分がそうされたら嫌だからやめとこ。」ってことだったり、ナニと言って確固たるナニカではないんだろう。
今は「なんとなく」そーゆーことを感じてたのかも、と考えられるけど、子どもだった当時は文字通り「なんとなく」でしかなかった。
でも、今の子どもはそんな「なんとなく」を受け入れない。
そんな気がする。

確固たる理由や、確固たる説明や、確固たる姿や、何かしらの裏付けの無いモノは受け入れない傾向にあると思える。
だからこそ
「なぜ殺してはいけないのか」
などという質問が出るんだろう。
「なんだか判らないけど、本能がダメって言ってるからダメなんだよ」
などという説明では、到底納得しないんだろう。
そんな子ども達は「ああ、そーゆー人もいるんだ」などという納得にはほど遠い。

フツーと俗に呼ばれることが「本筋」であり、そこからはみでることが「逸脱」と呼ばれるのだろうとは思う。
「なんとなく」という感覚が消えうせて、本筋からチョットでもはみだしたものなら、速攻突っ込まれるような世知辛い世の中になってはいないだろうか。
それはより一層「逸脱」を際立たせる役割を果たしてはいないんだろうか。
人間単体の方向性としては、逸脱を作り出しやすい方向に向かっているように思える。


そうやって作り上げられた逸脱者は、既存の本筋から逸脱した果てになぜかその中で「本筋」を作ってしまう。そしておかしなことに、そこから逸脱する者は許さないのである。

逸脱者は彼等流の本筋を作り上げた後、システム・社会の中での本筋にもしようと働きかけるのだ。
「逸脱することの何が悪い」と叫びながら、である。
逸脱の何が悪いと言っている本人達が一番逸脱を受け入れられないでいるのである。

ken師匠が「資本(消費)に回収されてしまった」と表していることは、こういうことなんだろうと私は理解する。
資本という単語については怪しいけど、消費という単語については「逸脱を本筋にしたい、という消費者がいるんだろう」と考えることできて、そう実体験として思い当たることがあるからだ。

間違っているのかもしれないけど・・・

だから
【おそらく社会は今でも、そしてこれからも「逸脱」を認めることはないでしょう。認めないからこそそれは社会によって「逸脱」と捉えられるのです。】

とするken師匠のおっしゃることは、実感として「その通りじゃぁ」って思う。


現代社会は逸脱者の本筋をそのシステム内に取り込もうとしているだけなんだ。
それはすでに逸脱ではなく、本筋であり、システムの一部なんだ。
逸脱を許すということは、逸脱とは呼べない状態にしてしまう、ということなんだ。
そこには既に逸脱は存在していない。

社会から逸脱しているモノ全てを許しシステムに組み込もうとすれば、それはそれはしんどい作業だろうと思う。対応なんてし切れっこない。
だからこそ、社会は逸脱を、逸脱する者を快く思わない。
システムがしっかりと確立されればされる程、少しでも逸脱しそうな存在には過敏に反応するんだろう。
その過敏さが必要以上に逸脱者を生むんじゃないんだろうか。

現代社会は決して逸脱を許す方向になどいない。
いや、許しているから逸脱者の本筋をシステムに組み込もうとしてあげているのだ、というスタンスでしかない。
でも、本当に許すというのは、「ウチラの本筋からははみだしちゃってるけど、アナタがそれでいいなら良いわよ別に。」というようなスタンスじゃないんだろうかって思う。
本筋だとか逸脱だとか、必要以上に意識せず、あっちもこっちも行ったり来たりすることが許されることが、逸脱を許す方向、ということではないだろうか。

私は率先して逸脱したり、虎視眈々とその機会を狙ったりしている訳ではないから、うっかり逸脱しちゃったりすると石地蔵になってしまう。
それは、システムがどーのとかじゃなくて、「なんとなく本能がそうさせてるみたい」ってなカンジなんだ。
逸脱したら「あらぁ〜、またはみだしちゃったのねぇ〜」ってな具合で大目に見て欲しい。
本筋に戻ることを「がんばってねぇ〜」ってな具合で見守って欲しい。

そうやって許してもらえたら、逸脱なんてこたぁ大したこたぁねぇ。
そう思える。

逸脱した時、石地蔵になってしまう限り、現代社会は逸脱を許すシステムになど向かっていないのだ。

と、思ってみた。
posted by チャマ at 16:59| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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