2007年02月10日

そーゆーことでいいのぉ〜?

私は今時の常識・良識であるらしい、自由とか人権とか個性とかは尊重されなければならないのだ、という時代の流れ?を胡散臭いと思っている。
その一方で、それらは尊重されるべきなのだ、尊重してくれよ!とも思っている。

自由も人権も個性も平等も・・・・・それらを一つ取り上げて尊重すれば、それらの別のどれか(または別の誰かのソレ)が脅かされるとしか考えられないからだ。
自由も人権も個性も平等も・・・・・全部が全部尊重されることを望んでいるらしい自分に「そんなこと有り得ないジャン」と打ち消す自分がいる。

そんなこと有り得るのだ、という言説を捜し求めているのかもしれない。

悲しいかな、今現在、それら全てをマルっとゴロっと尊重できるのだ、という言説にはお目にかかっていない。

この世にそんな言説があるとしたら、それは多分恐らく宗教の中だけなんだろうと思う。
でもそれはマヤカシでしかない、と私は思っている。
あ゛〜〜〜、やっぱり地獄行きは確定だろうながく〜(落胆した顔)あせあせ(飛び散る汗)

【すべては脳からはじまる】によると、茂木健一郎氏は、『さまざまな個性を尊重するとか、他者と真摯に向き合うということは現代人の理想ではあるが、なかなかそのようにうまくはいかない。そんなとき、どうすればいいかと言えば、私は自然のことを考えるようにしている。』のだそうだ。



「バカの壁」の養老先生同様に、彼もまた虫好きらしい。
大自然の中には目が回るくらいに多種多様な生き物がいるのだから、巨大な人間社会というシステムの中にだっていろいろな生き方をする人間がいてもおかしいことなんて一っもない、というのだ。

う〜ん、確かにおっしゃる通りなんだけど・・・

同一種が形成している社会システムの中において、それほど多様な生き方をしている個体が他の種にはいるんだろうか?
と、素朴な疑問。

更に読み進めていって、、、、、

自分の子どもを運転室に入れて一駅間運転した列車の運転手が解雇されたことと、回転ドアに挟まれて子どもが亡くなったことを取り上げて
『おそらく、子どもという自然に真剣に向き合うことを忘れると、人間はかえって成熟した大人になれなくなるのだろう。現代の「脳化社会」での人々のふるまいが悪い意味で子どもっぽくなっているのは、きっとそのせいである。』
と書いている。

運転手を解雇したこと、回転ドアに走り込む子どもへの注意を怠った大人の責任だとする意見に対して、そう書いている。

子どもとはそういう生き物なのだから、そういった言動(↑のような)をする人間は『生まれたときから、人間はルールを守り、秩序正しく行動するとでもいうような、フィクションの世界にいきているのだろう。
 残念ながら、そのようなフィクションの世界に、子どもという「自然」はつき合ってはくれないのである。』
かららしい。

う〜〜〜ん、納得できかねますなぁ・・・

逆に、茂木先生がおっしゃっているような人たちは、「子どもはルールなんて守らない存在」だと思っているからこそ、子どもをそのような状況に置いてしまった大人に責任がある、と言っているのではないんだろうか。

自然界に例えるならば、列車の運転手は食料を確保している真っ最中の親と言えるんじゃないんだろうか。
「ルールも守れない」子どもと一緒に狩をすることはしないだろうし、高い木に登らせることもしないんじゃないんだろうか。
自分が獲物を狩ったり、食料を確保する姿を見せ、教えることはあっても、絶対に邪魔をしてはいけないのだ、ということを教える前段階というのはあるんじゃないんだろうか。
動物ならば自分達が飢えるだけで済むが、列車の運転手は大勢の人の命を預かっているのだ。
手術中の医者が同じ状況下だったら、しばらくの間、手術室に入れるんだろうか?

自然界において、ある一定の年月をかけて子どもを養育する種の中で、子どもに危険と安全を教えない親は恐らくいないんじゃないだろうか。
それでも子どもは怪我をする。
キケンを顧みない、怖いもの知らずの生き物だとは思う。
でも、保護者の目の前に多少なりともキケンかもしれないと思える存在がある時、保護者は子どもがキケンな目に会わないよう、注意を怠ってはいけないんじゃないんだろうか。
それをさて置いて「回転ドアの構造が」とか「回転ドアの存在が」と言うこと自体、自然に反してはいないんだろうか。
日常生活にはキケンなんぞないのだ、とでもいうようなフィクションの世界に生きている、とは言えないだろうか。

養老先生が書かれている、石ころに躓いて転んでも田舎なら誰も石ころに文句なんぞ言わないが、都会だと「誰がこんなところに石を置いたんだ!」となる、ということではないんだろうか。

確かに自然界は多種多様で、確かに『人がどんなに奇妙な生活スタイルを想像してみたとしても、それが可能だったら、実現してしまうのが生き物の奥深さである。』のだろう。
ただし、それは、そういう奇抜な生活スタイルを実現した人間以外の人間の自由や権利や個性や平等や・・・・・そういったものが脅かされないことが前提でなければ、人間のみならず、どんな種の社会だってシステムとして成り立たないのではないんだろうか。

同じ種の中に「みんなちがってみんないい」を取り込もうとしたとたん、それは「差別」と呼ばれるのではないんだろうか。

自由や人権や個性や平等や・・・・・それらのどれかを尊重するためには別のどれかをあきらめなくてはいけないんだと思う。
尊重とあきらめの比重は反比例するんだろうと思う。
あれ?比例か???

自然だの個性だの、四の五の言わずに「ああ、こーゆー人もいるんだなぁ」という納得をすればいいのだという、ken師匠のおっしゃることがやっぱり私には正解だと思える。

でもなかなか難しいことなのだふらふらどんっ(衝撃)
キライなヤツはどーしてもキライなのだ・・・バッド(下向き矢印)
嫌われる相手にはどーしても嫌われるのだ・・・もうやだ〜(悲しい顔)

この上なく不自由にも思える境遇の中にこそ、無限の自由があると感じる。。。
『シーシュポスの神話』のように、私も悟ることが出来るだろうか眼鏡
結局のところ、自由も人権も個性も平等も・・・・・そーゆーことか???

ようするに、気の持ちようってことジャンexclamation&question

えっえ゛〜〜〜そーゆーことぉ〜exclamation&question目あせあせ(飛び散る汗)
posted by チャマ at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/33318823

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。