2007年01月31日

個性を考える

先週の太田総理。
「報道の自由」なんてことを議論してました。
何かってぇと「報道の自由」とか言いやがる芸能レポーター。
何でもかんでも報道すりゃぁいいってもんじゃなかろうにもうやだ〜(悲しい顔)

「報道の自由」「知る権利」とか言われるその一方で、「編集権」とか「期待権」とかいう権利もあるんだそうです。
取材を受けたある団体が「期待に反した形で報道された」と報道した側を告訴し、勝訴しました。
片や取材をし報道をした側には、それを編集する権利がある、のだそうです。

要するに、いっくら「自由」とは言っても、ほどほどにネ。
ってことなんでしょうし、「規制」するにも、ほどほどにネ。
ってことなんでしょう。
まるっきり自由な報道も、思いっきり規制された報道も、両方とも危険この上ないということなんでしょう。

何事においても、腹八分目が丁度良い、ってことです。

「個性を考える」というタイトルをつけながら、ナゼこんなことを延々書いているのかといえば、世の中で昨今声高に言われている「自由」とか「権利」とか「個性」とか「平等」とか・・・そんなものがどうも胡散臭く思えて仕方無い私だからです。
それらがまるで、錦の御旗のように思えて、金看板のように思えて、それらを掲げればなんでもアリなのか?と言いたくなってしまう私だからです。

なぜそれらを「胡散臭い」と思うのかと問われれば、判りませんけどね。
自由とか権利とか個性とか平等とか・・・それらが大切なことであることは百も千も承知してますし、そうあるべきだと思います。
でも、世の中のいろいろな場面で声高に強調されているそれらを、私はどうしても胡散臭く思えてしまいます。
私はそーゆークオリアを持っている、とでも言えばいいでしょうか?

・・・クオリアの使い方、間違っているかなぁ・・・


今年に入って、私は普段より多く本を読んでます。
今年に入って、阿刀田 高さんの「コーランを知っていますか」を買いました。
阿刀田さんのこのシリーズは、私は結構買って読んでますけど、なぜ「コーランか」と言えば、仏教・キリスト教にくらべてイスラム教については(ユダヤ教もですが)ほとんど何も知らないからです。

私は欧米人と日本人というのは根本的な考え方が異なっていると思います。
どちらが正しいとか間違っているというのではなく、何かが違う。
一つにことに対する理解でも考え方でも、どこか違うように思えるのです。
それはどうやら「一神教」と「多神教」に違いから来るのかもしれない、ということを、養老さんはその著書で書いていらっしゃいました。

以前、稀に見るどしゃ降りの日に我が家にいらっしゃった「聖書を読んでみんなで研究しましょう」とおっしゃった方は、「神は多くの人にその存在を知って欲しいと思っているのだ」「神は信じる者しか救わないのだ」と言いました。
「はぁ?神様ってそんなに目立ちがたがり屋で心が狭い方なんですか?」
と言った私・・・
それからかなり年数が経ちましたが、「コーランを・・・」を読んですぐ、そら恐ろしくなりました。
私のような輩は先頭切って地獄に行くことが決定でした。
「ヤバイ、取りあえず神様を信じとかなきゃマズイかなぁ・・・」とさえ、ふっと思ってしまいました。

読み終わってみて、「一神教」の考え方というのが、なんとなぁ〜く判ってきたように思います。
「コーランを・・・」によると、彼らに言わせると仏教は「宗教ではなく哲学」なのだそうです。
なぜならば、人間(お釈迦様)が考えたことだから。。。

養老さんの「バカの壁」(P20〜P21)にはこうあります。

 現実のディテールを「わかる」というのは、そんなに簡単な話でしょうか。
 実際には、そうではありません。だからこそ人間は、何か確かなものが欲しくなる。そこで宗教を作り出してきたわけです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教といった一神教は、現実というものは極めてあやふやである、という前提の下で成立したものだと私は思っています。
 つまり、本来、人間にはわからない現実のディテールを完全に把握している存在が、世界中でひとりだけいる。それが「神」である。この前提があるからこそ、正しい答えも存在しているという前提が出来る。それゆえに、彼らは科学にしても他の何の分野にしても、正しい答えというものを徹底的に追究出来るのです。唯一絶対的な存在があってこそ「正解」は存在する、ということなのです。
 ところが、私たち日本人の住むのは本来、八百万(やおろず)の神の世界です。ここは、本質的に真実は何か、と追究する癖が無い。それは当然のことで、「絶対的真実」が存在していないのですから。これは、一神教の世界と自然宗教の世界、すなわち世界の大多数である欧米やイスラム社会と日本との、大きな違いです。


「絶対的真実」というのは一度「そうなんだ!」と信じてしまったら、それを疑うということはまずしません。
宗教のみならず、そんなことは日常のあちこちに転がっています。
養老さんはこうも書いています(P22)

 こうした「正しさ」を安易に信じる姿勢があるというのは、実は非常に怖いことなのです。現実はそう簡単にわかるものではない、という前提を真剣に考えることなく、ただ自分は「客観的である」と信じている。
 だから政治家の汚職問題、たとえば鈴木宗男氏の疑惑が生じれば、「とにかくあれは悪いヤツだ。以上。終わり」で結論付け、断罪して報道する。そこには、明らかに一種の思考停止が起こっているのですが、本人たちにはその自覚がないわけです。


これは正に「あるある納豆事件」に言えることです。
大豆というのは畑の肉と言われ、油の原料にもなる食品です。
そんなものを食べつづけて本当に痩せるんだろうか???
なんていう至極素朴な疑問を多くの人たちは抱かなかったのですからね。
捏造云々以前に、報道する側も報道を受け取る側も、思考停止が起こったということではないんでしょうか。
捏造も怖いですが、それを何の疑いもなく「絶対的真実」と受け入れてしまう私たちの姿勢の方が私は怖いと思います。

社会のあちこちで声高に言われている「自由」だとか「権利」だとか「平等」だとか「個性」というものに対して、それが「絶対的真実」とでも言いたいようだ、ととれることが、私が胡散臭いと思う原因なのかもしれません。
それがあまりにも一方的な(ある一方の側にのみ都合のよい)ものであることが、私が胡散臭いと思う原因なのかもしれません。
うん、多分そうなんだろうと思います。

茂木健一郎さんの「すべては脳からはじまる」も買いました。
私には珍しく「新書」を購入したのですが、それは新書だったから買ったのではなく、たまたま「読んでみるか」と思ったコレが新書だったので、少々驚いてみたりもしました。

案の定、おもしろいです。

茂木さんは「見える才能と見えない才能」と題して、「美人であることは表面的な属性だと思われがちだが、顔立ちも実は才能の一部である。」と書いていらっしゃいます。
一方で、普通に言われる「才能」というのは目に見えないものだ。
がしかし、才能を支えているのは脳のはたらきであり、脳のはたらきとはつまりは、脳の中の神経細胞のネットワークの結合パターンのことであるから、顔のかたちと神経細胞同士がどう繋がっているかは何ら変わらない「姿かたち」だと言える、と書いています。
もし頭蓋骨が透けていて、『神経細胞が活動するたびにぴかぴか光って、そのパターンが外から観察できたらどうなっていたろう。
 そのようなことがあったら、モーツァルトや、アインシュタイン、ゴッホの才能も、「目に見える」ものになっていたろう。そうなっていたら、私たちは、アタマの良し悪しも、また、美人かどうかということと同じように考えていたのではないか。』


さて、やっと本題の個性について考えてみます。

容姿の良し悪しは人によって好き不好きがあってその評価は異なるのでしょうが、それでも美人はやっぱり美人なんですよね。
これもまた「個性」
性格だとか行動パターンだとかの「個性」というものは「脳の中で作られる」のですね。

どこに書いてあったか見つけられないのですが、養老さんがその著書の中で
「個性というのは身体にのみ存在する」というようなことを書いていらっしゃったように思います。

バカの壁では「・・・すなわち、「個性」なんていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。」と書いていらっしゃいます。(P49)
私たちがその3倍・10倍のトレーニングを積んだとしても、松井やイチローや中田にはなれないのだから、というのです。

身体的な能力についてはおっしゃる通りだと思います。
もって生まれた体質ってもんがありますしね。
でも、少なくとも、脳内の神経細胞のネットワークの結合パターンというのは、環境とか経験とか、そういった刺激などで変化するのではなかったかしら?
その変化の仕方もまた、体質と同じようにもって生まれた質によって制限されるのかしら?
気質とか傾向とか・・・そういうことなのかしら?

うつ病などは「遺伝しやすい」のだそうで、「糖尿病になりやすい」「ガンになりやすい」といったような体質遺伝と同じことなんだろうと思います。
登校拒否をした私から生まれた息子が学校に行かなくなったのもまた、「不登校・登校拒否になりやすい」神経細胞ネットワークの結合パターンが遺伝した、と言うことも出来るのかなぁ、なんて思います。
そしてこれもまた、個性ってことになるのだと思います。

不登校・登校拒否という行動パターンは個性である。
もって生まれた何らかの障害もまた個性である。
ひきこもりもニートもパラサイトも・・・ぜぇ〜んぶ個性である。

養老さんは『大体、現代社会において、本当に存分に「個性」を発揮している人が出てきたら、そんな人は精神病院に入れられてしまうこと必至。』と書いていらっしゃいます。
世の中で「個性を発揮しろ」と言われていることは『要するに「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されているのです。』ということだと書いておられます。
私もまったく同感だ、と思います。

「個性を認めろ」
そうおっしゃっている方たちが念頭に置いているのは、不登校という個性だったり障害という個性だったりひきこもりという個性だったり、自分の主張に都合の良い個性でしかありません。
権利然り、自由然り、平等然り、教育然り、環境然り・・・その他諸々然り・・・

まるで、「絶対的真実」を信じて疑わない姿そのままに思えて仕方ありません。
それらを声高に主張することは、まるで大昔、はるか遠くの大陸まで自国の宗教を広めようとエンヤコラ海を渡っていった人たちのようです。
そして現地の文化・文明も宗教も滅ぼされていったのですし、住む場所すらも奪われていったのですよね。
一神教・・・恐るべし・・・

なぜまた個性なんてことを考え出しちゃったかというと、これまたマープルおばさんのせいなんですよね。
前のエントリで「め様」からコメントを頂いて、そこに書かれていた「火曜クラブ」を我が家の本棚から引っ張り出してきて読んだ訳です。ン十年振りにわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

当時は「すげぇすげぇ、おもしろい!」としか思いませんでしたが、流石に年齢も倍近くになりますと、違うものも発見できたりする次第です。

彼女がよく言う言葉があります。
「人間性っていうものはどこに行っても同じ」とか「だれもかもほんとは人間なんて似たりよったりなのよ。」
なんてことです。

そして「ただね、幸いなことにはそれに気がつかないだけなんです。」なのだそうです。

なぁんだ、したら個性個性って言うけど、そんなご大層なモンじゃないんじゃないの?なんて思ったりしたのです。

そしてまた、以前読んだ養老さんの本を引っ張り出してきたのです。

今の段階で思うことは、確かに人間ってぇのは似たりよったりだけど、やっぱり個性ってのはあるのだ。
そしてその個性ってぇのは、尊重しすぎることも蔑ろにしすぎることもしてはいけないんじゃないのかなぁ。
だって、世の中が求めているのは自分に都合の良い個性だけなんだからさぁ。

社会をそれぞれの個性に合ったものになんて出来る訳が無い。
と、雪が積もった数週間前、雪で見えなかった点字ブロックに滑って思い切りすっ転んだ私は思うのです。
個性を尊重した社会は痛かった・・・?
posted by チャマ at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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