2007年01月08日

男女七歳にして席を同じうせず

アガサ・クリスティーが生んだ名探偵の一人に、ミス・マープルというおばあちゃん探偵がいます。
彼女は自分が住んでいる村?町?からあまり出ることはなく、事件の捜査らしい捜査もあまりせず、コトの顛末やらなにやらを聞くだけですが、見事事件を解決してしまうというスーパーおばあちゃんです。




彼女が事件を解決できるのは、自分や周りの人たちに起こる様々な日常的な諸事と、それとは一見するとまったくの別物と思われる事件の諸事の、二つの別物間の根底に存在する共通性に着目できるからです。

人間は多かれ少なかれ彼女と同じような要領で、生活上の問題を解決したり物事を理解したりしているのだと思います。
だた、彼女が凡人よりも優れているのは、どんなにつまらないと思えるような事柄であっても、その真理というか道理というか、そういったモノを考える力があったことだと思われます。
どんなにつまらないと思えるような事柄であっても、深層部まで踏み込んで考える力があったのだろうと想像できます。

彼女は想像上の人物であり、実在などはしていないのでしょうが、実に女性らしい発想の持ち主だったと、私は思います。

女性はイメージで考えるの生き物であり、男性は文字で考えるの生き物である。
というようなことを、私は知識として持ち合わせています。
それがいつ、どういった形で私の脳みそにインプットされたのかは定かではないですので、私の知識が情報として正しいのかどうかは怪しいところです。
ですが、このネット社会を見回してみても、情報発信者が男性である場合には論理的であることが多く、逆に女性である場合には直感的(行き当たりばったりというかなんというか・・・ま、例えるなら私の文章みたいなカンジです)である場合がやはり多いように思います。

私は過去にほんの数年だけ、人にモノを教えるということを生業としていた時期があります。
教員ではありませんが、その場では「先生」と呼ばれる立場だったことがあります。
その時に感じたことは、↑のことと同じようなことでした。

私の指導方法というのは、基本的には実生活に基づいて理解が出来るようにし、理解の後に実際的な理屈をこねるというものでしたが、男性の受講生が多いなと感じられた場合には、「例えば・・・」という説明を削り、いきなり実際的なことを入れる必要がありました。
そうしないと男性諸氏は食いついてこないのです。

男性という生き物は、例え話が苦手な生き物だと思います。
その根底に流れているモノが同じであっても、例え話を軽んじる傾向があるように思います。
私の周りにいる男性諸氏の多くは、そう見えます。

女性はと言えば、理屈をこねられることを嫌う生き物だと思います。
例え話の方により、リアリティーを感じるように思います。
私の周りにいる女性諸氏の多くは、そう見えます。

男性に例え話をした時と女性に理屈をこねた時、おもしろいことに似たような反応を示すことが多いように思います。
理解しようとすること・考えることが面倒くさい、とでもいうような反応です。

理屈と例え話、文字と感覚、その根底に流れるモノは同じであっても、その両者を繋げる作業というのは、男性と女性ともに疲れる作業なのかもしれません。
ミス・マープルという女性は、感覚的な知識と文字的な情報を繋ぎ合わせることが出来たからこそ、椅子に座りながらにして難事件を解決できたのではないか、と思います。

そしてこういう人のことを「打てば響く」人とか「一を聞いて十を知る」人と言うのではないでしょうか。

全ての人間がミス・マープルのような人間であれば、教える立場にいる人間というのはとても楽なんだろうって思いますが、実際にはそんなスーパーマン・スーパーウーマンばかりではありません。
老若男女・年齢の幅十代〜七十代・計35名という教室の時には、もうはっきり言ってお手上げでした。
指導する的を絞れないような教室でも、少人数・・・せめて15人〜20人くらいなら合い間隙間にフォローアップすればなんとかなるんですけどねもうやだ〜(悲しい顔)



文字で理解しようとする男性
感覚で理解しようとする女性

それぞれの傾向に強弱はあるのでしょうし、一概にそうとは言えないのかもしれません。
それでも私の経験では、女性は女性同士、男性は男性同士、の方が教え易いと思うのです。

『男女七歳にして席を同じうせず』
というのは、そのくらいになったら子どもとはいえ、同じ布団に寝るのはマズイでっせ、ってことらしい。
「席」というのは「ゴザ」で=布団なのだそうだ。
お勉強とはナンラ関係の無いことなんだそうだ。
ましてや、男の方が頭が良いからお馬鹿な女と同じ教育を受けるなんてもっての他、なんていうことでも、女は勉強なんてしなくて良い、なんていうことでもない。
男女の区別なく、日本国民は平等に教育を受ける権利を有する。

しかし、だ。
教育の仕方は、男女の区別をした方が良いのではないだろうか、と私は思うのです。
私が男性に感覚的な例え話をする時と女性に理屈をこねる時、それと同じ反応を、女性教師のクラスで男の子達が、男性教師のクラスで女の子達が、しているように見えるから。
ミス・マープルのような考え方ができる子どもは然程抵抗もないのでしょうが、どうも昨今、子どもに限らずそういった「変換する力」とでも言いましょうか、そういう力が乏しくなっているように思える現代人。
果たしてこのままでいいんでしょうか?

自分の内なる言葉を出力する為のツールである語彙が乏しいと言うことはその通りですが、自分の内に知識を取り込む為のツール(変換する力)もまた、貧弱になりつつあるように思います。

それらのツールを強化することは理想的ですが、、、難しいでしょうね。

取りあえず私は、男女別の・・・というか、その性的な思考の仕方の傾向に合わせたクラス編成と、そのクラスの傾向に合った指導者の選定を望みます。
posted by チャマ at 21:55| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育、とか? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お久しぶりです。何とミスマープルのことが書いているではないですか。私にことわりもなしに。30年ほど前にクリスティーのマープルもの火曜の夜の集い(原題The Tuesday Night Club)を初めて読んで感動し、それ以来クリスティは大ファンです。ポアロものもいいのですが、やはりちょっと惚けたような老婆が独創的な推理で真実を暴くマープルものが最高です。
モノの考え方感じ方は男女によって異なりますし、肉体的構造も違います。男女平等は大原則だと思いますが教育はチャマ様のおっしゃるとおり男女別の方がいいと思います。
でも教育現場は日教組の思想教育で洗脳された、そして向上心のかけらもない教師がたくさんいるようです。もちろん本当に子供のためを思って頑張っている熱血教師もいるでしょう。でもそれはめずらしい存在なのだと思います。安定した給料をもらうために仕方なしに仕事をやっている人が多いのは別に教師の世界に限ったことではありません。
これからもお子様のために頑張ってくださいね。
Posted by at 2007年01月21日 17:30
め様、あけましておめでとうございます!デスネ。
バタバタ人生により一層磨きがかかり、ご無沙汰続きですが、年末にお会いできたときはホント、嬉しかったです♪

あ゛!ミスマープルのことを書きましたよぉ〜。って事後承諾は毎度のことですが、一応承諾を得たということで(;^^A
こういう女性になりたいなぁ…と思いつつ(理想の女性像は何人もいるのですが)、現実はなかなかどうして、誰からもかけ離れておる次第。トホホでございますです。

世はまさに、個性とか多様性が叫ばれている時代ですが、なんでもかんでも一つの器に入れて同じように扱うことはそれに反していると思います。
学校という器にどんな子どもであれ、教育を受ける義務と謳って入れるのであれば、ある程度の個性・特性に分けてそれに合った教育をしてもよいのではないのかしら?と思った次第です。
個性を尊重する、ということはそういうことじゃないのかな、なんて思います。
受ける教育の内容を違えるのではなくて、それらを教える過程はそれぞれに違って良いのだろうと思うのです。
学校という場所であるからこそ、それとは別にみんなゴチャ混ぜで何かに取り組む時間もまた、作り出せるんじゃなかろうかとも思います。

医学に「内科」とか「外科」とか「眼科」がいるように、教育にだって「男性的思考(文字の思考)用指導方法」とか「女性的思考(イメージの思考)用指導方法」があってもいいですよね。同じように「文字思考型専門教師」「イメージ思考型専門教師」がいても宜しいかもと思いました。

ミスマープル的思考って、め様に似てませんか?
アレ?め様がミスマープルに似てるって言うんですかねぇ?この場合・・・
hippo-ttiもそうだと思います。というか、差し詰めミスマープルの思考の素、ってな位置づけでしょうか。
短い文章をいろいろな事象に応用できる。
学生の頃、応用問題が大の苦手だった私がそう思えるんですから、これはある意味太鼓判じゃないかと・・・
Posted by チャマ at 2007年01月22日 01:43
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。