2007年01月06日

読書初め

「なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか」 藤原智美・著

著者は取材でレクタス教育研究所を訪れ、そこで子ども達が描いたという、腕の無い・耳の無い・△の胴体に顔が乗っている等の奇妙な人物画を目にする。
全国から子ども達が通ってくるというその研究所の主催者によると、近年そういった絵を描く子どもが増えていて、長方形の川を描く子や三角形を描けない子どもも増えている。
更には「ひとつ・ふたつ・・・」という数え方が判らず「イチ・ニ・・・」と言わなければ通じない子ども、「チュウオウ」という単語を聞き取れない子ども、「そこ・ここ・反対」がどこなのか判らない子ども、「2」以上の数字を理解できない子どもすらいると聞かされる。
『いずれにしても、あの教室で起こっていることは、全国いたるところで起こっていることだ。それは学力、知育という以前の、より深い部分で発生している。人間としての土台のようなものが、ひどく不安定でバランスを欠いたものになっているのだ。子どもはやがて大人になる。
子どもの危機は社会の、人間そのものの危機である。』


そしてすぐに幼児の異変を雑誌で書いた。
研究所の主催者からの感謝の手紙や、読者からの沢山のメールは彼に大きな宿題を残す。
そして記事を読んだという編集者S氏とともに、「積み木人間」の謎解きを開始する。


「児童画から心理を読み解く」的な書籍を何冊か読む。
積み木人間の絵を、ある本では「盗癖児」によるものと紹介されており、別の本では「人づきあいに自信がないか、あるいは何事にも積極的になれないからだ」と解釈されており、また別の書籍では「・・・母やまわりの人が世話をしすぎるか、子どものやるのを待てずに手を貸してしまう場合」と書かれており、「両親が教師で命令的」と書かれている書籍もあった。

『これらの分析者は別々の経歴をもっている。−中略− 研究のフィールドも接した子ども達の国籍も違う。けれどその経験値から、ほぼおなじような結論を導き出している。
すなわち腕のない「積み木人間を描くのは、親の強い指示や命令、あるいは過剰な世話やきが原因なのだ。その結果、子どもの行動がしめつけられ、いつも引っ込み思案で、動きや行動のスピードも遅い。ぼくは昨今増えている「指示待ち人間」とよばれる、若い世代のことを思い出した。』


著者自身、「こんなに簡単に結論をだしていいものか?」と思っているのだが、同じことをS氏もメールで伝えてくる。

『−結論部分は衝撃的でした。自由放任で躾をしない母親が増えた、といわれているのに、現実は逆なんでしょうか。−中略− ただ資料の本を丹念に見ていくと、かなり断定や決めつけもありますね。心配なのはそこです。簡単に結論づけていいのか・・・。
それはぼくも感じたことだった。著者は違っても、絵に子どもの心理を読みとるときの解釈が驚くほど似ている。
彼らは聞きとりなどの経験から、絵の解釈方法を編みだしたのだろう。けれどある解釈を踏襲しようとするがゆえに、むりやり絵と心理を結びつけようとしていないか。少し心配になった。』


こんな調子で疑問を解消していく形で彼らは「積み木人間」の謎を追及していく。

私自身にも大いに言えることだけど、物事を解釈するときには自分の自論なり信念なり価値観なりを肯定する方向性をもって解釈し、他者に伝える場合にも自分の持っているそれらを肯定的に評価させようという作用が働くものだ。
だからこそ、一つの事柄であっても人それぞれに解釈や理解が異なってしまうのだし、人伝えに受け取った情報というのは伝えた人間の解釈や理解や価値観等が混入しているのだから、多少なりとも偏っているのだろうと思う。
昨年読んだ『子どもへのまなざし』に書かれていたエリクソンの言説に対する解釈と、私がそれに対して「そーじゃないんじゃないの?」と思うことは、そういうことなんだろうと思う。
世の中で言われている「コミュニケーション」とか「自由」とか「権利」とかの解釈などもそうだし、「親が子どもを信じなければ誰が信じるのか」というような言説に対する反応もそうだ。

ようするに宗教と同じなのだ。
信じる神はそれぞれで、信じる真理もそれぞれで、それはそれで勝手にやってくれれば宜しいのだが、「これこそが唯一無二の正解」であるからして万人が同じ神、同じ真理を信じるべきで、そうしない人間は地獄に落ちるのだ的発想を持つこと、そして他者に自分が信じる真理を強要することは自由も権利も信頼もないのだということに気付かずに、それらを錦の御旗のごとく振りかざす。
自分が持つそれらの解釈が本当に間違っていないのだろうかなんてことは、これっぽっちも考えない。考えられないからこそ、強要できるのだろうし、「唯一無二の正解」という姿勢を貫き通せるんだろう。
私はそんなに強固な真理や信念を持ち合わせていない。持っているとしたらもって生まれた「どちて坊や魂」なんだろうと思う。
だから揺れ動く。なんで?どーして?それは何故?これでいいのか自分・・・

自分と同じような考え方をする人間の言説は殊更耳障りが良く、好意的・肯定的に受け止められるのは、それは即ち自分のそれらを肯定するため=自分自身を肯定するための追い風になるからだ。
考え方もなにも、まったくの無知であるところに「私が正解です」と言われれば、「そうなんだ!」と思ってしまうだろう。
私は幸か不幸か持って生まれてしまった「どちて坊や魂」のせいで、「そうなんだ!」の後に必ず「本当にそうか?」と思ってしまう。今私の手元に残っているのは、「今のところ本当にそうらしい」と思えるモノだけしかない。
それすらも「私」という人間のフィルターを通しただけでしかない、実に怪しく曖昧でモロくて、私にとっては残ったものだけど、他の人にとっては捨ててしまうようなモノでもあるんだろう。

この世では、「有る」ということを証明することよりも「無い」ということを証明する方が格段に難しい。
導き出された結論が間違っていると認めるということは中立な立場であっても難しいだろうが、それを導き出したのが自分ともなると、自己そのものを否定することにもなり得るのだろうから心理的な作用が強烈に働いて誤りを認めることは更に難しい。
そこに「肩書き」というプライドの代名詞のようなものがくっついたら、そりゃあなた、何がなんでも、「肩書き」を振りかざすという力技を使ってでも自己と自己のプライドを守るために「正解は我にあり!」という旗を揚げようとするのかもしれない。
私のような無知な素人は他者の正解なんかはどうでも良いのだ。「正解論者」という全世界的な認知なんぞ私は求めていない。
ただあるのは「どちて坊や魂」なのだ。なんで?どうして?それは何故?本当にそうなのかしら?・・・へぇ〜、で?それは何故?どうして?これはどーゆーこと?・・・

誰かさんの自論や信念や価値観の出来るだけ届かないところでこの「どちて坊や魂」を満足させようと放送大学に入学してみた。
でも、やっぱり学校のお勉強というのは、専門的になってくればくる程、教える人間の自論や信念や価値観の影響が拭えないということがよく判った。
それらに疑問を抱くこともまた、勉強なんだろうと思うから、それはそれで宜しいんだろう。今期もまた休学してしまったけど、ボチボチ興味のある辺りをつまんでいくベ。
第一、 学問の中で絶対的な正解なんてものは存在しないのだろうと私は思っている。
それらが間違っているという証明は、それらが大凡正しいと証明することより遥かに難しいから出来ないだけであって、だからと言って100%正解だとは言えないのだ。それ故に「無い」という証明は難しいのだから。

この本はそんな私にとって心地良く進んでいく。
なぜならば、著者とS氏が次へ次へと進んでいく節目には必ず「どちて坊や魂」が発揮されているように思えるからだ。
だから最後まで正解は無い。
全編は彼らが導き出した仮定と、彼らにとっての大凡の正解だろうと思えることだ。
だからどうすれば良いのだ、という正解は書かれていない。
そしてそれらは、だからこそと言うべきか、少なくとも「子どものまなざし」よりは現時点で私の手元に残っている私にとっては大凡正解だろうと思われるモノと同じか似ているモノが多い。

そしてまたもう一つ、「放送大学で勉強して良かった♪」と思える本でもある。
お馴染みの、ピアジェ・ヴィゴツキー・フロイト・・・そんな名前が登場する。
記憶にある実験や報告事例も登場する。子ども社会・群れ遊び・・・
そして、「家電は家事を楽になんてしてない」という考え方も、「男は外で仕事、女は家を守る、という図式は高度経済成長が生んだ思い切り最近の概念」という考え方も一緒だ。
「母親はこうでなければならない」的な言説に対する閉塞感・窒息感・クソくらえ感、「なんでもかんでも子どもの言いなりになってんじゃねぇよ」感も同じだ(と思う)。

『−略− これから脳科学はさまざまな研究成果をあげ、人々はそれで一喜一憂するかもしれない。発達心理学も同様である。けれど子どもというのは、大人が考えているよりも、ずっとたくましいということがいえる。なにごとにも遅いということはないのだ。』

『 ぼくはさまざまな場所を歩き、話を聞き、そして考えてみた。そこから見えてきたのは母親が圧迫される密室育児、子どもにとっては自立を阻むような過保護の実態だった。それを助長する空気がいたるところに満ちあふれている。
いきすぎた早期教育が子どもの成長をアンバランスなものにしている。幼形成熟という言葉がある。幼いまま成熟してしまうこの状態に、いまの子どもはあるのかもしれない。残酷な少年犯罪も性的成長と精神的成長がずれてしまった、幼形成熟の結果ともいえる。
すべての原因は最良の学校ともいえる「子ども世界」の解体にある。子どもはいま成長する「場」をもっていない。積み木人間の絵が生まれる背景もそこにある。圧迫育児も過保護も早期教育も、子ども世界の解体と同時並行的にはじまった。子どもの異変の責任をすべて母親に負わせるのはまちがっている。
忘れてはいけないことはただひとつ。
「子どもは手をかけるほどいい子に育つというのは、幻想にすぎない」』


だから私にとっては耳障りが良い、自分を肯定するための追い風になり得る一冊である。

余談だけど、毎度の如くこの「藤原智美」という人物のことは露ほども知らなかった。
芥川賞作家なのだそうだ。
へぇ〜、お正月の三が日を鮮やかに彩ってくれた「メジャー再放送総集編」が終わってしまって、仕方無い暇つぶしにテキトーに買ってみた本にしてはラッキーな一冊に当たったものだ。
あたしゃ「腕ってなんか描くの難しいからただ描けなかったんじゃないの?」くらいに思っていたのだが・・・そんな能天気な話じゃなかったのね・・・
でもね、実際のところ私の経験としては腕って描くのが難しいって思う。
バランス良く体を描こうとすると、ホント、困るのヨねぇ、肩から腕ってどうしてもおかしなことになっちゃう。
耳だってチョット出す位置違うとヘンな顔になってしまう。
三角形は・・・なんでだろ・・・私はフツーに描けるが・・・
だからって描かないってぇのもおかしな話だけど、私は私なりにそっち方面から突っ込んでいくのもおもしろいかなぁ、なんて思ったりもする。
思い切り完璧主義者なのか?今の子ども達は・・・だとしたらそれは何故?どーして?やっぱり親の重すぎる期待と早期教育なんだろうか・・・
posted by チャマ at 00:19| Comment(0) | TrackBack(0) | おっ?! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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