2007年01月01日

結果OK

新年早々、飛ばしますわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

所詮物事なんてぇのは、結果OKです。
どんだけ勉強をしなくても100点とれば誰も文句は言いません。
どんだけ仕事をサボッテも売上金額がビックリしちゃうくらい多ければ誰も文句は言いません。
学校になんて行ってなくたって学校に行っている人間よりも沢山のことを学び有意義な人生を送れれば誰も文句は言いません。
どんなにクソ生意気なビッグマウスだったとしても、それを実現すれば誰も文句は言いません。

文句を言うどころか「スゲェ〜グッド(上向き矢印)」となる訳です。

ですから、所詮世の中は結果OKなのです。

でも本当にそうなのかしら?




勉強をする、ということは、ただ100点を取るためだけにするのではないと私は思います。
イヤなことはどこかで必ずしなくてはならない人生の中で、腹を括って正面から取り組むことを学ぶことでもあるでしょうし、継続することが力に繋がるということを実体感することでもあるでしょう。
そういう自分をチョットだけ誇らしく思えたりすることだってあると思います。

例え巨額の売上を上げたところで、それは所詮「売上」の数字でしかなく、大切なことは「実入り」なのです。そんな簡単な数字のマジックに気付かないでいると、以前私が所属していた会社のようにコケてしまいますもうやだ〜(悲しい顔)
いくらお勉強が出来ても、基本的なこんな単純なことが判らないでいると痛い目を見るのです。

学校に行かなくても有意義な生活を、有意義な人生を送れるでしょう。
それを本人が心底有意義であると思うならそれはそれで構わないのでしょうが、多少なりともそんな自分を苦しいと思うなら、それはキレイサッパリ有意義ではあっても幸せな人生とは呼べないのでしょう。

有言不実行なビッグマウスなんぞは問題外の外のほかですね。
誰も相手になんぞしませんって。
自分を追い込むなら別の方法にしておくべきだと私は思います。
有言実行のビッグマウス達は、実行にむけて綿密に着実に準備の前の段取りからしているものです。

所詮世の中は結果OKの世の中ですが、その結果というのはすべて目先の結果でしかない、ということじゃないでしょうか。

幼少の子ども達の世界に大人が介入すると、似たようなことが起こります。
子ども達のトラブルを大人が解決してしまうのですね。
「あ〜ちゃん、い〜ちゃんに謝りなさい。」
「ごめ〜んね〜・・・もうやだ〜(悲しい顔)
「・・・・ちっ(怒った顔)
「い〜ちゃん、ごめんねって言われたらなんて言うの?」
「・・・いいよ〜」

公園でも保育園でも学校でも、よくある光景です。
一見すると一件落着。

ところが後日になって
「ウチのあ〜ちゃんは悪くないのに先生に謝れって言われたそうですけど、どーゆーことですかちっ(怒った顔)
なんて余計なトラブルを引き起こすことになったりします。

つまりは、結果OKなんてのはこんな調子のことでしかないんだって思います。
そして世の中はこんな調子で回っているのだと思います。
更にそして、こんな目先の解決をコミュニケーションスキル、なんて呼んでいるようにも思います。

教員に対する生徒や保護者の評価、学校に対する地域の評価なんてぇのも、みんな目先だけの問題解決しか見据えてない、結果OKの世の中が生み出した愚策だと思います。

中学生になって不登校になると、高校受験にその影響を受けることになります。
ひきこもりになると、進学にも就職にもその影響を受けることになります。

それは受け入れない社会が悪い、そうおっしゃる方たちもいらっしゃいます。
でも本当にそうでしょうか?
ご自分が学校や会社を運営・経営している立場になってもそう言えるのでしょうか?
彼等彼女等を一人前の生徒・従業員として扱うならば、もしかしてある日突然来なくなってしまうかもしれない人間を受け入れることができるでしょうか?
そうなっても良いような準備をしておく、ということは、その時点ですでに彼等彼女等はフツーのその他の人たちとは区別している、ということです。
「受け入れてやる」という姿勢に他ならないと私は思えます。
ヘソ曲がり大将としては、「受け入れてもらわなくて結構だ!」なんて思います。
フツーのその他大勢の人たちと同じように、進学したり就職してやるさ、それにはまずナニをすればいいのだろう、なんてことを考えます。
だって、バカにするにも程がある、なんて思うから。
しかも親切ズラしやがって・・・なんて思うから。

こんな私の姿には「謙虚」なんてことは木っ端ミジンコありませんねふらふらあせあせ(飛び散る汗)

そんな「受け入れてやる」という姿勢であっても、渡りに船、拾う神がいた、ありがたい!と思う謙虚な方たちもいらっしゃる訳です。
私のようなヘソ曲がりはともかく、そういう純粋な方たちにとっては無くてはならない場所なんだと思います。

そしてそういった場所で、幸せで有意義な生活・人生を送られるのでしょう。
それが結果OKという、目先の結果だけを見据えたモノでないことを祈るばかりですが・・・

不登校の児童・生徒や、不登校を経験した児童・生徒の中には、「当時の先生に謝ってもらってスッキリした」という人たちがいます。
以前、ずっと以前、ココにもそんなことをコメントして下さった方がいらっしゃいました。
私自身、自分が不登校をしていた時の担任は一生許せないでしょう。
前にも書きましたが、彼はすでに亡くなっているのですが、その墓にツバを吐き掛けたいとさえ思います。

でも一方で、彼に誤ってもらったところで一体ナニが変わるのだ?
とも思います。
辛かった日々が無くなるのかといえば、そんなことはない。
実際に今を生きている自分というのは、その辛かった日々を過ごしてきて形成された人間であるのだから、それを否定するということは自分自身を否定することになってしまう。
保育園の子どもじゃあるまいし
「ごめんね〜」「いいよ〜」
それで一件落着なんてことは有り得ないって判ってる大人の自分。
「ゴメンネって100回言えば許してくれる?ゴメンネ〜ゴメンネ〜ゴメンネ〜・・・」なんてことは愚の骨頂だと幼児すら知っているからこんなことを冗談としてする。

私は若い頃、「大丈夫?」と言われるの大嫌いでした。
「大丈夫じゃない」と言えば、この人はどーするんだろう?
なんていつも考えていました。
自分が困っている時、手を差し伸べてくれる人は絶対に「大丈夫?」なんてことは言わないのです。
最初に出てくる言葉は「これやってあげるよ」「こうすればいいんじゃない?」というような具体的な方策です。
「大丈夫?」
と言ってくるヤツは、ただ心配しているのよ、という自分を表現しているに過ぎない。

不登校で苦しんでいる時に何の助けにもならかなった担任が謝る、ということは、口先だけの「大丈夫?」と何ら変わらないように思えて仕方ないのです。
そんなものは、言われても言われなくても、今現在の自分にとって何の利益も不利益ももたらさないのだ、そう思うのです。

大切なことはもっと他にある。
それは誰でもない、自分自身がやらなくちゃならないことなんだ。
そう思うのです。

とは言え、大人になった私は口先だけの
「大丈夫?」
さえも、嬉しいと思えるようになりました。
それが社交辞令だったとしても、単なるコミュニケーションスキルと呼ばれる渡世術だったとしても、人からかまってもらえるということは、かまってもらえないよりも嬉しいことだと思えるからです。
「大丈夫?」という言葉は、例えば壊れた膝を治してはくれないけど、治そうという気持ちをほんのチョピット強いものにしてくれたりするものだと知っているからです。

「大丈夫?」という言葉も、先生の謝罪の言葉も、自分が抱える問題に対しての根本的な解決には全くもってそれらは何の役には立たないけれど、解決に向かう自分の気持ちを少しだけ強くしてくれるスパイスみたいなものなんだと思います。

それはまるで、目先の結果OKと同じ要領でとっても胡散臭くて怪しくて鼻で笑いたいものではあるのだけれど、とりあえず持ってる武器は多い方が良い?とでもいうようなカンジで、無いよりは有ってもいいのかもしれない程度のもの、だと思います。

でも間違ってはいけないのは、それは絶対に根本的な解決にはならない、ということ。
教師が謝罪したからといって、「私は悪くなかった」なんて思い上がってしまったら、どこに行っても同じ轍を踏むのだと、私は思います。

肝心なのは、誰が悪いか、なんてことじゃない。
それが判ったところで、今現在も未来も何一つ変りゃしないんですから。
posted by チャマ at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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