2006年08月16日

ジェンダーフリーとフェミニズム

ただただ素朴な疑問を投げかけただけで、地区保護者懇談会を凍りつかせてしまったデストロイヤーの私です。
つーか、なんでそうなるんだろう・・・
フツーに「いやぁ、ここだけの話、遅いと思いますよ」とか「いいんじゃないでしょうか。」って言ってくれれば、それで良かったんですけどねぇ・・・

PTAの役員をやっている時も感じたんですけど、そういう「話し合いの場」では司会者なり議長なりが「何かありますか?」と聞いても、何も言ってはいけないんですね。
「何もありません」と言うのが、正しいそういう場でのマナーなんだなぁ、って今頃判りました。
とりあえず「やりましたよ。」って履歴が残れば、それでいいんですよね。
話し合っちゃイカンのです。
はぁ、いい年こいて私ってなんて世間知らずだったんでしょ。

知らないというのは恐ろしいもので、私の場合更なる大波を引き起こしてしまいました。

地区保護者懇談会は、人権学習も兼ねているのだと、出席して初めて知りました。
というか、開催の通知プリントにはそんなこと書いてなかったゾ・・・
ついでにやっちゃえ、ってなもんでしょうか???

1年生が先日学習したというジェンダーフリーについてお話します、ということでした。
学校で使用した教材からコピーを取ったという「ジェンダーフリーをめざして」というプリントと、「あれっ、いいのかな?」というプリントが、すでにそれぞれの保護者に配られていました。
先ほどは凍りつき貝になってしまった学校の地区担当の先生ですが、ここに来て俄然元気を取り戻しました。
授業の要領で、チャンチャンとプリントを説明して行きます。

最初にこのプリントを見た時、私は「ご家庭で読んで見て下さい」って程度なのだろう、と思いました。
だったらまだ黙っていられたんですけどね・・・

先生はさも「正しいこと」として、これらのプリントを読み上げ説明されています。
でも私にとってはこんな恐ろしいモノを教材として学校で教えているんカイ!って代物でした。

まず「ジェンダーフリーをめざして」とあるプリントには
「女らしさ 男らしさって・・・」
とありまして、
○辞書で「女」「男」がつく漢字の意味を調べてみましょう。
とあります。
いくつかの漢字が書かれているのですが、「奴」「妨」「嫁」「嫌」「勇」の文字が、音読み・訓読み、意味と共に書かれています。
そしてその下には
「男」がつく字は少ししかありません。「女」がつく字はまだたくさんあります。
と書かれています。

次に
○「女」「男」がつく言葉を調べてみましょう。
とあり、「女だてらに」「女手」「男手」「男泣き」の言葉がそれらの意味と共に書かれています。

それを受けて
○他にどんな言葉があるでしょう。
○どんなことに気がつきましたか。
○みなさんが、「女らしさ」「男らしさ」ということで、言われたり聞いたりしたことはどんなことですか。
「女らしさ」(記入欄)「男らしさ」(記入欄)

という投げかけがされます。
そしてその後には

このような「女らしさ」「男らしさ」は、ほとんど生物学的な違いとは直接関係のない「社会や文化がつくりあげた」ものです。これを「ジェンダー《gender》」といいます。

という一文があり、それを受けて
○ジェンダーについてどんなことを感じたり考えたりしますか。話し合ってみましょう。
となっています。

プリント裏面では家事分担について考えてみようというタイトルで、
○家事にはどんな仕事がありますか。それは主にだれがやっていますか。
 (  )に書き入れてみましょう。
・料理を作る(  )・食卓の準備、後片付けをする。(  )・・・・・・
ほかに考えられる家事は?(記入欄)
○あなたの家で一番多く家事をしている人はだれでしょう。それについてどんなことを考えますか。(記入欄)


そしてチョット長い文章の後
○あなたはジェンダーフリーをめざしてどんな努力をしていきたいですか。
と結ばれています。

さて、最後にジェンダーフリーについて考えてみようと投げかける前の文章を掲載してみます。
本来ならば掲載元はここです、と明記しなければならないのでしょうが、「教材の一部」として学校側から手渡されたもので、私には出所が「学校から手渡された資料より」としか表記できないことを断っておきます。

今まで、「家のことは女性がするのが当たり前」と考えていませんでしたか。
長い間、個人の能力や適性とは無関係に「男は外で働き、女は家庭を守る。家事や育児は女の仕事」と、性によりあらかじめ役割を固定する考え方や習慣が続いてきました。これもジェンダーです。
1979年(昭和54年)に女性差別撤廃条約(下記参照)が国連総会で採択され、日本は1985年に取り入れることにしました。

「女性差別撤廃条約の内容(一部)
第5条 性の違いによって役割を分け、差別をしてはいけません。
第16条 結婚や家庭関係において差別をしてはいけません。」

性の違いによって役割を分け、差別をしてはいけないことが、はっきり書かれていますね。日本では、この条約を取り入れるにあたって、男女雇用機会均等法の制定、家庭科の男女共修を実施しました。
さらに、男女共同参画社会基本法も公布・施行されました。

女性だから男性だからとジェンダーに基づいて考えるのではなく、一人ひとりの性格やもっている力の違いを認め合い、人間として自分らしく多様な生き方のできる社会にしていきたいものです。それが「ジェンダーフリー《gender free》」(ジェンダーにとらわれないこと)に基づいた男女共同参画社会といえます。


さて、もう一方のプリントです。
あれっ、いいのかな?
と題されたこちらのプリントには、大阪府の太田知事が相撲の土俵に上がって府知事賞を手渡したいと申し出て断られた記事(朝日新聞)と、世論調査の結果のグラフを載せて、「みなさんはどう思いますか?」という投げかけをしています。
その隣りには、奈良県の大峰山の「結界石」の写真と共に、「この女人禁制は女性差別であるから、女性の信者にもぜひ登らせて欲しいという要望があり何年も話し合いをしていますが、まだ女人禁制は続いています。(2002年8月現在)」という一文があります。

この大峰山の女人禁制については、しばらく前にブログ上で話題になって、炎上したブログがあったように記憶しています。


さて、私がまずこれらのプリントを見て「なんじゃこりゃ〜ちっ(怒った顔)」と思ったことは、あまりにも政治的・作為的な教育の仕方です。
「これじゃマインドコントロールじゃないのさ」と思いました。
ま、学校教育ってぇのはある意味マインドコントロールみたいなものですから仕方無いのかもしれませんが、ジェンダーという、まだカオス状態みたいな代物の扱い方がこんなに作意に満ちた教材を使って教えられてしまっていいのか、ということです。

1枚目のプリントなんて、ジェンダーフリーというよりも、フェミニズムと呼んだ方が宜しいのではないでしょうか。
難しいことは私には判りませんが、私の中ではジェンダーフリーとフェミニズムは別物だということになっています。
「男らしさ」「女らしさ」を捨てましょう、と叫ぶのがフェミニズムで、「男らしさ」「女らしさ」を持ってても捨てても、どっちでもいーじゃん、フリーなのよ、フリー、ってぇのがジェンダーフリーだと解釈しています。

一枚目のプリントで、いきなり「女」がつく漢字の、それもあまり好ましくない意味を持つ漢字ばかりを羅列していることに、私は唖然としました。
「女」がつく漢字が多いということは、それだけ社会の中で「女」という存在が重視されている、ということではないんでしょうか。
「女らしさ」「男らしさ」は、思い切り「生物学的」な違いではないんでしょうか。
セックスという生物学的な差異があるからこそ、ジェンダーもまた存在するのだと思います。
オナベやオカマの人たちは、どうして「男らしく」また「女らしい」のでしょうか。
500万歩譲って「社会や文化がつくりあげた」ものだとしても、そうする必要があったからこそつくりあげたんじゃないんでしょうか。

第一、このプリントで言われている程、「男は外で女は家庭」という図式が人類の有史以来脈々と続いてきたことではない、という事実はどうするんでしょうか?
今のようにタイトで窮屈な役割分担は、戦後の高度経済成長が招いた産物で、サラリーマン、企業戦士の増加によるところだと私は思っています。
それは自分の身近にいた明治男の祖父やら近所のおじいちゃん達を見て、そう思います。
昨日買った「ニートって言うな!」といういう本には、「ニートは以前からいて決して増えてない」というようなことが書かれていますが、「髪結いの亭主」なんて存在は時代劇にだって出てきます。

そうやって社会や文化がつくりあげた「男らしさ」「女らしさ」があまりにタイトで窮屈になったために、「それらを緩和しましょうよ」という方向性に異存はありません。
でも、それらをあらゆる場面で有無を言わさず押し付けられる筋合いは無いって思います。
フェミニズミにはそれらの「緩和」ではなく「否定」とか「排除」というイメージがあって、私にとってはタイトで窮屈この上無い考え方だといえます。
それに比べると、「どっちだっていーじゃん」的な意味合いを持つのだろうと思われるジェンダーフリーは、私には受け入れ易い考え方だって思えます。
フェミニズムは受け入れられないけど、ジェンダーフリーならOKだ、って思ってました。

でも、このプリントを見る限りジェンダーフリーは、学校で教える時にはフェミニズムになってしまうんだなぁ、と思いました。

いいのか?それで・・・

もう一方の太田知事と大峰山については、これはとても難しい問題だと私は思います。
人権だけでなく、文化とか伝統・伝承とか歴史とか、いろいろなものが絡まったとても難しい問題だと私は思います。
少なくとも私の中では、ジェンダーフリーに対する解釈が以上のようなものなので、「ダメっつったらダメなの」でOKだと思います。
この辺りの解釈は、ジェンダーフリーやフェミニズムの解釈が人によって異なっているように思われる昨今では、様々な意見が出て当然だと思います。
有識者の意見にしても、専門が違えば見方が違うのですから当然意見も異なるでしょう。
それらが出尽くして、社会の中で「ジェンダーフリー」という考え方が落ち着いた形で定着していない以上、学校で教えるにしても細心の注意をもって教えるべきだろうって思います。
少なくとも、一つの意見だけを掲げて「これが正しい」と言ってしまうことは、学校教育にありがちな図式だとしても、ある程度許されることと許されないことがあるんじゃないのか、って思います。

二つのプリントに、「女だからやってはいけない、やらなくちゃいけない」ということは「良くないことなのよ」とは明記していません。
でも、この教材を見た予備知識の何もない子ども達が「良くないことなんだ」と思わせるような作意をもって、政治的な手法をもって、この教材は作られていると感じました。
それはとても恐ろしいことではないんでしょうか。
学校の先生方はこの教材を見て、何も感じなかったんでしょうか。

その場にいた先生は
「これらの教材は文科省が《これを使いなさい》と指定したものではありません。
 人権学習に関しては各学校に任されていて、当学校の人権担当の先生達で選びました。」
とおっしゃいました。

余計悪いじゃねぇかよ!って話です。

人に何かを教えるなら、自分がもっと広い視野を持って勉強してください。
自分の中で「ジェンダーフリー=フェミニズム」でもそりゃ構いません。
でも、「そうじゃない考えの人がいるんだよ」という教えもまた、必要だと私は思います。
それが「フリー」というものではないんでしょうか?
「女らしく男らしく、なんて言ってはいけないんだよ」という言説は、裏を返せば「女らしく男らしくあるべきだ」という言説と何ら変わらないのだ、ということをナゼ考えないのでしょうか。
そんなことも考えもせず子ども達に教育を施そうとするから、「先生と呼ばれる程のバカでなし」なんて言われるんじゃないんでしょうかね。

何よりも、こんな手法で「戦争の必要性」を叩き込まれたら、、、、、、
ゾッがく〜(落胆した顔)exclamation×2としました。
そんなことが無いようにと、日教組は戦ってきたのではないのでしょうか?
こんな現状を見せられたら、日の丸・君が代なんて二の次三の次じゃないのか、って思いますよ。
もっと恐ろしいことが学校で起こってるとは言えないでしょうか?
いいのかそれで、日教組!
つーか、本末転倒も甚だしいって言われても仕方無いですよ、ホント。

これらの全てを地区担当の先生にぶつけたところ、最終的な〆の言葉は
「学校に帰って教師全員で考えてみたいと思います。」
というものでした。

・・・・・あ、そうですか・・・

つーか、教える前に考えろよexclamation×2ちっ(怒った顔)どんっ(衝撃)

「あれっ、いいのかな?」ってさぁ、そう書かれている教材そのものが「あれっ、いいのかな?」だろうがぁ〜ちっ(怒った顔)exclamation×2パンチ

と、そういう訳で、貝になって大人しくしている筈の地区保護者懇談会で、思いっクソ先生を貝にしてしまったのでした・・・
なんでこうなるかな・・・

でも、何度考えてもやっぱおかしいものはオカシイのだexclamation×2
これでいーのだ・・・多分・・・
posted by チャマ at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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