2006年07月09日

I Accept All of Me そして You

I Accept All of Me
直訳すれば、「私は自分のすべてを受け入れる」ってなことになりましょうか?

自分を丸ごとゴロっと受け入れるなんて、チョット考えれば簡単そうで、出来そうで…というよりも、出来ているから生きてるんじゃないのさ、なんて思ってしまいそうで、でも案外出来ていないのが、「ありのままの自分」を受け入れるってことだと思います。
だって、自分のありのままの姿って自分が一番判らないことなんだろう、って思うんですよね。



自分の目や耳はは自分では絶対に見れません。
鼻や口だって、がんばって見ようとしてもほんの一部しか見ることが出来ない。
見ようと思ったら鏡や写真やビデオや、そういった媒体を解してしか見ることが出来ません。
でも、私を見ている他人は、それらの全てを見ている訳です。
いろいろな角度から、いろいろな状態の時、自分では知りえないそれらを見ている訳です。

自分に近ければ近い程、自分では判らないことがあるってことですよね。

それは人間関係にも言えることだと思います。
学校の先生とか保育士さんとか、他人の子どもにはとっても良い先生であっても、いざ自分の子どもとなると上手く行かないってこと、よく聞きます。
学校の先生の子どもに、意外にも不登校が多いなんて話も聞きます。
自分に近しい人間であればあるほど、客観的になれないんでしょうね。
夫婦や親子なんていう実に近い位置にいる人間に対しては、特にそうなんでしょう。
先生と呼ばれる人たちでさえそうなんですから、人を育てるという特別な教育を受けていないフツーの親なんて、親ばか・バカ親で当たり前じゃないのかな、なんて思います。

ウチの息子が保育園で登園拒否をしている時、1号アンチャンの授業参観に連れて行きました。
「学校なら今日から来れる」と目をキラキラさせて待ち望んだ小学校入学。
でも小学校は保育園の延長でしかなく、程なく学校への足取りはズッシリと重くなり、夏休みが明けると不登校パワー全開になりました。

当時の私は、保育園に引き続き「オマエラ何やってんだよ」オーラを全開にして学校・行政関係者と接しておりました。
正義正論はこちらにある。
それは今でも変わらずそう思いますが、だからと言ってこの状況が変わることなんぞは何も無いのです。
その間もずっと自分の愛する息子は「なんでだよ」なんて思いながら、生きることがつまらなく、でもなんとか生きやすくしようと自分を押し隠したりしているのです。
親として「どーしてくれんだよ、ウチの息子をさぁ」なんて思う訳です。
全身生きる光の玉みたいだった息子が、たった3ヶ月間で生きる屍みたいになっちゃった訳です。
「小学校で生き返るかも?」
という親子共々の期待も裏切られて、「ふざけんな」もピークに達する訳です。

そんな時、自らの娘さんも不登校だったという、心の相談室の先生に言われたことがありました。

「今目の前にいる2号クンをありのまま受け入れてあげて下さい。」

先生がおっしゃるには、昔はあーだったこーだったなんていうことは忘れなさい。
2号クンを昔のように戻すんじゃなくて、今の2号クンを将来にむかって幸せにしなくちゃいけないんですよ。
ってなことのようでした。

先生のおっしゃっていることは判る。
でも親としては、大切な息子に心の傷をつけられて、これ以上傷つけないで欲しいし元に戻して欲しいのだ、なんてことを私は言いました。

私の中では、私が産んで育ててきた2号はとても生き生きキラキラしている子だったんだから、それをこんな混沌の中で苦しんでいるような2号にしてしまった人たちには2号を元に戻して欲しいというような気持ちがあったんですね。
先生は、それが違うんだよ、といった訳です。
でも、当時の私にはそれがどうしても判らなかった。

なぜかと言えば、「受け入れる」ということを「それで良いのだと思え」と言われていると思っていたからです。
学校に行きたい・友達と遊びたい・勉強したいと望みながら不登校をし、「生きていてもつまらない」なんて言っている小学校1年生を「それでいいのよ」と認めてやれと言われている、そう思ったからです。
現状を「嫌だ」と思っているのは当の2号本人で、それを「それでいいのよ」と認めるって・・・なんだそれ、って思った訳です。

学校なんてクソくらえ!んなとこ行くかよ!ちっ(怒った顔)
って子どもや生徒なら、それもまた宜しいんでしょう。
でも2号はそうじゃない・・・

ただ、過去の2号に引きずられるなというような話には、心にズシっとくるものがありました。
「それでいいのよ」は違う。
ならば、「ありのままの2号を受け入れる」ということを私はどう消化するべきなんだろうか?
どうやって血肉に変えればいいんだろうか?

「ありのままを受け入れる」ということが我が家の場合どういうことなのか、やっと判った時は、2号はすでに3年生になってました。もうやだ〜(悲しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

彼が2年生の時、私はPTAの役員で、あちこちの講演会やら何やらに出席することがやたら多かった。
そんな中で、車椅子を使って生活されている方と知り合いました。
というか、彼女の講演を聴いて、「おかしいぞ?」と思うことが多くて、押しかけ女房的にメールでやり取りをしました。
それはもう、お互い論文的な長さのメールでした。

彼女は言うんです。
車椅子を使っていて金髪にしてサングラスなんかしてると、なぜか街で見知らぬ人から「がんばってください」なんて言われる。
あなたは金髪でサングラスしている人には誰にでもそう言うの?って言いたくなっちゃう。
車椅子は私の個性を形成する要素の一つでしかないのだから、特別扱いするな。
でも、そう言ったすぐ後には、バリアフリーを訴え、エレベーターの設置を力説する。
バリアフリーやエレベーターの設置は何も車椅子だけじゃなくて、ベビーカーにとってもお年寄りにとっても優しい街づくりになるじゃないか、というのが彼女の言い分なんですが、そしておっしゃる通りなんですが、なんか私には腑に落ちないのですね。

彼女とのやりとりをしていて感じたのは、「車椅子は私の個性なのだから、個性として認めて欲しい。特別視しないで欲しい。」と言いながら、一番車椅子を個性として受け入れていないのは彼女じゃないんだろうか?ということでした。

そういう見解の相違は抜きにして、彼女はとても魅力的な人で、とてもアクティブな人で、とてもオシャレな人で、「今度ビールに行きましょうるんるん」なんて約束したまま疎遠になってしまいましたが、彼女は今どうしているかなぁ、なんてたまに思います。

私には全盲の叔父がいて、彼もまた「ありのままの自分」を受け入れられずに20年以上も苦しんでいます。
初めての眼底出血から20年以上かけて、ゆっくりゆっくり視力が失われていきました。
彼は視力の低下は「ここで止まる」とずっと思い続け、針の穴程度しかなくなってしまった視力も近年では失われてしまったのに、全盲だということを否定し続けます。
今でも目が見えるようになった夢を見るのだそうです。
これは夢だと判っていても、夢の中では嬉しくて嬉しくて、覚めないで欲しいと心底願い、でも夢から覚めた時には号泣しているのだそうです。
50歳半ばの大の大人でも、そうなんですよね。
視力の低下を止めようと彼は何度も手術したり医者を変えたりしました。
それが結果として良くなかったと私たち周りの者は思うのですが、彼は今でも何か良い方法がある筈だと思い続けているようです。
そう思っている限り、彼に平穏は訪れないと私は思っているのですが、こればかりは彼自身が気付かないとどうにもならないんですよね。

本当は彼は判っているんです。
でもどうしてもあきらめきれないんだ。
そう言っていました。

そんな彼は、2号の気持ちが自分のことのように判る、と言いました。

前出のメールの彼女も、私の叔父も、彼らに共通していることは、現状を受け入れられない自分を受け入れられない、ということです。

メールの彼女は、こう言いました。
どうして車椅子だからって「出来ないこと」だけを挙げるのか。
出来ることの方がずっとも多いのに。

彼女は沢山の私が出来ないことが出来ます。
英語はペラペラだし、プログラミングなんてしちゃうし、マウンテンバイクだって乗るんだそうです。
でもね、私が英語が喋れないのと同じように、彼女は自力で階段を登ることが出来ないんです。
車椅子を使うことが個性と言うならば、それは私が英語を喋れないのと同じレベルの問題でしかない、ということです。
それに対して社会に何かを訴えようとすることに、私はとても違和感を覚えます。
同じレベルの問題をそれぞれの個々人が社会に訴え出したら、いったいどうなってしまうんでしょうか?
彼女ほど聡明な人が、なぜそれに気づかないのか・・・

それはやっぱり、車椅子を使っていることを本当に個性だと彼女自身が思っていないということじゃないのかしら、と思うのです。

彼女は言います。
英語は本当に喋れるようになりたいと思って勉強すれば喋れるじゃない。
どうにかしようと思えば出来ることと、どうにも出来ないことを一緒に並べて論じるのはおかしいよ。
と。。。
ウム・・・確かに・・・
でもだったらやっぱり「個性」なんかじゃないってことじゃないんだろうか?

障碍は個性か否かを考えるうちに、個性ってなんだよ?ってカンジで訳が判らなくなってしまったので、未だに私は消化不良気味でいるのですが、少なくとも彼女の中に何らかの矛盾があるということは、メールをやり取りしてみて、最初にそう感じたことは案外間違ってなかったかな、なんて思いました。

そしてそんな矛盾を、ウチの2号も抱えているんだろうと思いました。
同じような矛盾を、私も抱えているのだと思いました。
その矛盾は「現状を受け入れられない」ということから来るのだと、メールの彼女や叔父と関わる中で、1年生の時に心の相談室の先生に言われたことはこういうことだったのかと、やっと判りました。ひらめき

現状を受け入れるということは、それが自分の意に反していても、納得できなくても、理解できなくても、「そーゆーものなんだ」ということを自分で消化するということです。
どちらが正しいとか、どちらが良いとか、そんなことはその後からついてくるものなのだと思います。

「私は悪くない」
「2号は悪くない」
そんな思いが先に立つと、「学校に行きたいんだ」という2号の気持ちはかき消されてしまいます。
残されたのは「行かれない」でしかなくなってしまいます。
でも2号にとって大切なことは、「学校にいきたいんだ」という思いの方なんだろうと思うんですよね。
私は正義正論を振りかざして、ず〜っと2号の思いを蔑ろにしてきたんですよね。
私は2号の真の理解者だと自負してましたけど、実は彼を受け入れてすらいなかったんだなぁって、思いました。

良かろうが悪かろうがどーだっていいじゃん。
それが私の息子なのだ。
で?あんたはどー思ってんのよ?
そういう受け入れ方が出来るようになって、私の考え方が変わって、「で?じゃあどうする?」が一本化されて、やっと2号の顔には生気が戻ってきたような気がします。

野球が上手くなりたい!
だから一生懸命練習する。
こういう考え方はすぐにできることだと思います。
でも、オレは下手だから練習する、という考え方って、なかなか出来ないですよね。
自分はまだまだ下手なんだ、って判ってるから「もっと上手くなりたい」と思う訳ですが、なぜか「下手」というマイナーな意識は隠されてしまう。
でも、本当に奮起するには、「下手なんだ」ということを意識しなくちゃいけないんだろうって思います。

I Accept All of Me
というのは、「下手なんだ」ということを意識して受け入れる、ってことじゃないかな、なんて思います。

そして、人から「オマエ下手だなぁ」と言われた時、「オマエに言われたく無い」なんていう気持ちをチョットどこかに置いといて、「そっか、じゃもっと練習して二度とそんなことを言わせないぞ」ってな具合に、不当だと思われる評価も受け入れることじゃないのかな、なんて思います。
とは言っても、こんなことナカナカ出来ないですけどね。

でもね、不登校の親なんてやってると、そんなことは毎度!ってカンジであるんですよね。
「クッソォ〜、何も知らないクセに」
なんて思う反面、
「そっか、そーゆーふうに思われちゃうんだなぁ」
なんてことも思います。
で?どーする?ってことにも繋がっていくんですね。

丸ごとゴロっとMeもYouもAcceptする。
それは現状でいいのよ、と言ってしまうこととは違うんだと思います。
現状でいいのか悪いのか、それは他人が評価するべきことじゃなくて、自分で評価するべきことだと思います。
「私は悪くない」をとっぱらって、本当はどうなのよ自分?って評価をしなくてはいけないんだと思います。

私が心の相談室の先生から「ありのままの2号クンを受け入れましょうよ」と言われた時、もしあの時ヒポッチに出会っていたら、もしあの時にヒポッチサイトがあったら、すぐに今のような考えに行き着いたのかしら?なんて思います。
その答えは永遠に判りませんが、ヒポッチサイトで三賢者が対談しているようなことと同じような場所にたどり着いている現在の私は、そーかぁ、ヒポッチもそー思うかぁ揺れるハートるんるんなんて、チョット嬉しかったりする訳です。

なんだかんだ言ったところで、やっぱり誰かと一緒だと安心するんじゃん、自分。
なんて思いながら、そんな自分をAcceptする毎日だったりします。
posted by チャマ at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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