2006年06月14日

エリクソン<子どもへのまなざし考>

佐々木正美 著

<子どものまなざし>

の中で、エリクソンについて触れています。

が・・・
私が放送大学で学んで理解したソレとは少々違うようなカンジがしました。
なんと言ったらいいのでしょうか・・・
著者の主張を後押しするのに都合の良いような使われ方をされているような・・・
穿った見方かもしれませんが、そんなカンジに取れました。

まずはエリクソンについて少し書いてみます。




エリクソンは、フロイトの影響を受けた心理性的発達段階とともに、社会における期待される発達とはなにかをテーマとした心理社会的発達段階を設定した。(放送大学「子ども・青年の生活と発達」テキストより)

エリクソンの心理社会的発達段階
第1段階 (乳児期)−−−−−− 信 頼 VS 不 信
第2段階 (幼児期前期)−−−− 自律性 VS 恥・疑惑
第3段階 (幼児期後期)−−−− 自主性 VS 罪悪感
第4段階 (児童期)−−−−−− 勤勉性 VS 劣等感
第5段階 (思春期・青年期)−− 同一性 VS 同一性混乱・拡散
第6段階 (成人前期)−−−−− 親密性 VS 孤 立
第7段階 (成人後期・中年期)− 世代性 VS 自己陶酔
第8段階 (老年期)−−−−−− 統合性 VS 絶望感

特徴としては、精神発達の両面性の指摘がなされていることである。各段階で危機をはらみながら、陰の部分を取り入れつつ発達すると考えられている。(テキストより)

「危機」というのは、それぞれの段階で乗り越えるべき課題あるいは社会から要求されて乗り越えなくてはならない課題、またはあらかじめ予定された課題、というように、実は人によって微妙に解釈が異なるように思える。
課題そのものが「危機」なのか、それとも課題を乗り越えられるか否かということが「危機」なのか。
また、社会や周囲の人間から乗り越えることを要求されるから出現する課題なのか、それとも成長に伴い心身の条件が揃ったために出現すべくして出現する課題なのか。


著者は著書の中でこう書いている。
『エリクソンは、周囲の人や社会からの要請と、個人がそれに適応していこうとする、心理的努力との間に生じるストレスや緊張を、「心理的社会的危機」とよびました。』
どうやら「周囲から要求されるから出現する課題なのだ」と考えていらっしゃるらしいと思える。

私は成長・発達の過程で出現すべくして出現するのだろうと考えている。
周囲や社会が要請するのは、「人間ってこの時期はこーゆーものでしょ」という考えがあるからだろう。
なぜ「この時期はこーゆーもの」と考えるのかと考えれば、元来人間がそーゆーものだから、じゃないんだろうか?
あまりに強固な課題の克服の要請は確かに「クライシス」だが、それは二次発生的なものじゃないんだろうか、と思う。

いずれにしても、それぞれの段階で課題を克服すれば上記表の左側を獲得できる、というのがエリクソンの発達理論って訳だ。

「危機」に対する理解は著者と私とでは異なっていると言えるのだろうが、「ナニをもってして課題の克服とするか」ということについても、私は著者とは理解が異なっていると思う。
著者は「理想的な育児があるとしたら、親は赤ちゃんが望んでいることを、望んでいるとおり、全部そのとおりにしてあげるということです。」と書いている。
挙句の果てには、
「子どもの泣き声ひとつで、あれは何ちゃんがこういうことを要求している泣き声だ。あの泣き声はあまったれたときだ、あれはお腹がすいたときだ、あれはおむつがぬれて気持ち悪くなったときだ、いつもとちがう泣き声だ、変だと思ったら熱があった。こういうことは、いい保育者とかいい母親はわかるのです。とまで書いている。
これは子どもが第1段階での「課題の克服」=信頼の獲得のためには、親・養育者は全身全霊をもってその欲求を満たしてやるのがよろしい、と言っているということだ。

でも私は、「その欲求すべてを満たしてやれない時」もまた「危機」であり、そういった危機(不信)を「信頼」が越えることが「課題達成」だと考えている。
なぜなら、放送大学のテキストには「陰の部分を取り入れつつ」と書いてあって、私にはこちらの方がピンとくるからだ。

例えば第1段階では、
「この時期、信頼関係を結ぶ重要な他者の代表は、養育者であろう。ただし、養育者も人間であり、乳児の期待に100%添えるわけではなく、そこに<不信>を抱え込まざるを得ない。」
ということである、と放送大学のテキストには書いてある。

著者が書いている通り、確かに泣き声で赤ちゃんの欲求が全て判って、その欲求のすべてを即座に満たせるようなことが可能であれば良いのだろうけど、それは本人も書いている通り「理想」でしかないのだ。
実際の生活の中では、「100%添えるわけではない」のだ。
そこに赤ちゃんは「不信」を感じるのだろう。
でも、その不信より強い信頼を獲得することこそが、課題の達成なんじゃないんだろうか。

でもエリクソンは、理想を現実にしなくちゃいけない、そうしないと課題を達成できないよ、ってことを言っているんじゃないって思う。
課題を達成するために=信頼を獲得するために不信の元を断つように子どもの要求をすべて満たすことは、違うんじゃないかって思う。
やっぱりバランスなんだろうって思う。
ベクトルは「理想」に向いていていい。
でもあまりにそれに捕らわれることは、親にとっても子どもにとっても、逆の結果を招くんじゃなかろうか、なんて思う。

世の中すべての人間が、同じ価値観で同じ理想にベクトルが向いて理想の実現化にむけて全身全霊を捧げているなら、本の通りに育てれば完全無欠の人間になるのかもしれない。
でも実際はそうではない。
だって、世の中は我が子中心に回ってる訳じゃないからね。

著者は「エリクソンとの散歩」という本も書いていて、私なんかよりもずっともエリクソンの発達理論を理解しているのだろうと思われる。
この本の中で書いていることが著者に都合の良い部分ばかりなのは、著者の理解がそういうものなのか、それとも意図的に都合の良い部分ばかりつまんだのか、それは私には判らない。
私の方が放送大学の講師の主張に都合良く理解させられたのかもしれない。
然しながら、ネット社会をチョロっと見回してみても、放送大学のテキストに書かれていたような理解をしている人が多いと思える。

ま、所詮は理論はあくまでも理論であって正解ではないし、それを自分の中に取り込んで消化して吐き出された言葉は当然吐き出した人間の主観や理解の上に成り立っているのだから、理論を正しく言葉にしているとは限らない。
私の佐々木氏に対する理解だって怪しいものなのだ。
第一、本だって全部読んだわけじゃないし・・・

<子どものまなざし>という本に興味が沸いた方は、とりあえずコチラに行ってみると宜しいかと存じます。
佐々木正美氏のサイト⇒http://www.angel.ne.jp/~ken-home/fra_menu/fra_sasaki.htm

著書に書かれているそのままの文章もあったりします。

それにしても思うのは、やっぱり育児本・子育て本ってヤツは「うげぇ〜」だな、ってこと。
思考のスタートはその通りだって思うけど、どうしてそこに行き着いちゃうの?って思う。
「休み時間に落ちこぼれない子に」じゃなくて、そういう経験をプラスにしようぜ、つーか、いいじゃん別に、って本が書けないんでしょうかねぇ・・・
あ、この本は絶版になったそうです。
どうしてそんなにアレもコレも「理想的な子ども」を作ろうとするんでしょうかもうやだ〜(悲しい顔)
で、良い子すぎる子がどーしたこーした・・・

世のため人のためと思ってやっていらっしゃるのでしょうから、滅多なことを言ってはいかんちっ(怒った顔)と思いつつ・・・
やっぱりうげぇ〜、ですなぁ。。。
posted by チャマ at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育、とか? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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