2006年05月28日

デカルトだって…<脳内現象から考える>

自分が持つ五感を疑った時、そこに残ったのは「自分の意識」だけだった。
世の中なんてものは、なんて怪しいんだろう…
『虚無かも…?』
http://ojachan.seesaa.net/article/17993696.html

↑のエントリを書いた後、<脳内現象>を読み終わる頃、唯一疑い様のない存在は自分の意識だけであるというのは、デカルトがすで大昔に言っていたのだよ、と茂木健一郎さんは書いていた。
デ、デ、デ、デカルトですか、、、お名前だけは何度か伺ったことが・・・ってカンジだ。ふらふらあせあせ(飛び散る汗)




  もちろんデカルトは、そこにとどまったのではなかった。
 意識を持ち、感じ、考えている<私>の存在だけを前提にして、
 彼は再び新たな世界観の構築を始める。
(P233 L1-2)
そしてその先には、ニュートンやアインシュタインへと連なる、科学的世界観の爆発的展開が待っていた。という訳だ。

私は学者でもなんでもないから、科学的世界観なんぞというものは科学者の皆様にお任せするとしても、自分の中での世界観というものを<私>の意識の存在だけを前提にして構築していくことにでもしようかしら、なんて思う。
こんなことを書くととっても哲学的ぃ〜るんるんなんて思うんだけど、実はそーゆー考え方を持ちながら生きて行こうかなってだけの話だ。


  ならば、どうして、その脳の活動から意識が生み出されるという
 単純明白な事実を説明することが、こんなにも困難なのだろうか?
 私たちは、ひょっとしたらとんでもない勘違いをしているのかも
 しれない。<中略>…現在の科学的世界観を支えている概念の
 体系は、青年デカルトがイエズス会の学校で学んだ当時のスコラ哲学
 と同じように、どこか根本的なところで、この世界の実相を捉え
 そこなっているのかもしれない。<中略>
  私たちは、もう一度、ルネ・デカルトにならなくてはならないのかも
 しれないのである。
(P234 L1-8)

科学的な世界の中でルネ・デカルトになることは私にはできない。
何故ならば、デカルトがスコラ哲学を疑ったのはスコラ哲学を学び理解していたからに他ならないだろうと思えるからだ。
でも生活の中で、生きて行く中で、疑われないものを自分が持った違和感のような心地悪さを元に疑っていくことは、私でもできる。
というか、そうやって生きた来たように思う。

答えを知りたい。
正解が欲しい。

でも、答えが出た途端、その答えを疑っている自分がいる。
あ゛ぁEndless、、、というかドツボというか、、、なんだかなぁ・・・

でも私の世界観において、爆発的展開は確かにあったひらめき


その瞬間は正に「爆発的」で、脳天かち割られたようだったけど、だからこそ「爆発的展開」だった。

確かに痛い思いはしたけど、「展開」が認められた時の気持ちといったら、例えるならば出産後ってカンジ?
痛いのなんてナンボのもんじゃいexclamationってカンジわーい(嬉しい顔)
何人でも産めまっせ、ってなカンジわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

でも実際には子育て同様、産むよりも育てる方がいろいろと考えなくちゃいけないんだ。
そうやって一つずつ育てて、またいつか産みたいな…つーか、爆発的展開に出会いたいなって思う。

私は人間の「見え方」について疑問を持った。
でもそれだけだった。
脳内現象を読んで初めて「五感を疑う」ということまで行き着いた。
読まなかったら恐らく一生そんなことを考えもしなかっただろう。
でもデカルトは・・・もうやだ〜(悲しい顔)

デカルト様と比べちゃぁ、って話かもしれないけれど、やっぱりスゲェ人間はスゲェや、って思うね。
posted by チャマ at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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