2006年05月18日

虚無…かも?<脳内現象から考える>

茂木健一郎氏「脳内現象」より

P220 L11〜16
<私>に中心化され、<私>にしかアクセスできない、私秘的な存在としての<私>の意識、そしてその中に浮かぶ様々なクオリアは、周囲に対して開かれた客観的・公共的な存在としての物質とは、明らかに断絶している。しかしその一方で、私たちの意識の中でのクオリアは、きわめて精妙なやり方で私たちが住むこの現実の多様な側面を反映し、その消息を伝える。
つまり、意識の中で感じられる様々なクオリアを通して現実の世界を把握することが、私たち人間の生き物としての生存に寄与している。



全編を通して、著者は「事実それ自体」に対して疑問を投げかけるべきだ、という姿勢をとっていると思える。
筆者はP177 L10・11で
「あまりにも明白で疑う余地もないように思われることを、「事実それ自体」から「証明されるべき事実」へ昇格させるにはどうしたらいいのだろうか?」
と書いている。
言いたいことはとても良く判る。
ウンウン、そうだそうだ。
普段別段何も疑問視もせず、当たり前としていることを疑問に思うこと、それが学問の第一歩でもあるとも言えるんだろう。
私が何十年と心の中にひっそりと隠しもってきた
「私が赤だと言っている色は、アナタにとっては青かもしれない」
という疑問は、まさにその良い例だってことじゃないか?
スゴイぞ!自分、なんてチョット思ってみたりもする、と同時に、「ヘン」じゃなかったんだぁ、と安心してみたりもするいい気分(温泉)

「私が赤だと言っている色は、アナタにとっては青かもしれない」
ということを証明する術はない。
なぜならば、私が見ている「その色」を私がどう感じているかは「私にしかアクセスできない」ことだからである。
それは同時
「私が赤だと言っている色は、アナタにとっても赤かもしれない」
ということを証明する術もないってことになる。

私とアナタの色の見え方を疑問視するということは、「事実それ自体」を疑問視する、ということである。
見え方の違いを疑問視するということが「証明されるべき事実」かどうかは判らないが、少なくとも「証明されるべき事実」に昇格されるためには「当たり前すぎて疑問にすら思わない事象は本当に当たり前なのか?」という疑問は不可欠だろうと思われる。
「当たり前過ぎて疑問にすら思わない事象」は養老氏が言うところの「バカの壁」ということでもあるのだろう。
バカの壁の内側にあって行き詰まったなら、壁の外側に出ないことにはその行き詰まりは解消されない、ということになるだろうか。
そして、人間は「事実それ自体」を疑問視することで=バカの壁をぶち破ることで文明を高度化してきたのだろう・・・多分・・・

だとすれば・・・

筆者が
「周囲に対して開かれた客観的・公共的な存在としての物質」
「私たちが住むこの現実の多様な側面を反映し、その消息を伝える。」

と書いていることに対しても
「果たしてそうなんだろうか?」という疑問を向けるべきなんじゃないんだろうか。

果たしてクオリアの元になっている物質は、周囲に対して開かれた客観的・公共的な存在なんだろうか?
私の赤がアナタの青なのか赤なのか確かめる術はないのだ。
ということは、赤だと思っている物質が本当はどんな色をしているのか誰も判らないということでもある。
私の赤がアナタにとっても赤で、人間が皆「ソレ」を赤だという同一のクオリアを感じているとしても、その物質が本当にみなさんが「赤」だと言っている色なのかどうかを調べる術は無い、ということだ。
これは客観的と言えるだろうか?公共的と言えるのだろうか?

それが何を意味するかと言うと、、、
視覚のみならず五感すべてを疑問視した時、私たちが言う「現実」とか「実体」の存在すらも疑問視される、ということだ。

中学生の時、こんなことがあった。
庭で洗濯物を干していた私に、妹が何か叫んでいた。
早く干し終わりたかった私は、「うるさい・・・」と思っていた。
あまりしつこく何か言っているので
「だからナニ?」
と聞くと
「ゾウリに爪楊枝がささってる」
と言うのだ。
「なんだよ、そんなことで大騒ぎしないでくれるぅ〜」
とか言って、私は半ば無視した。
だって、ゾウリにナニが刺さっていようが今現在私には何ら支障が無いのだから、別にいーじゃんって思っていた。
どーせ横っちょあたりにチョロリンと刺さっていて、「危ないよ」程度なんだろうと思っていた。
それでもまだ妹は騒いでいる。
終いには怒り出して
「だから刺さってるって言ってるじゃないちっ(怒った顔)
 足の裏見てみなよexclamation×2ちっ(怒った顔)爆弾
とか言うから仕方なく見てみた。
「うるさいなぁ〜」と思いつつ・・・

そして次の瞬間、見事にゾウリの底を貫通し私の足の肉に思いクソ侵入している爪楊枝クンが目に入った。
その瞬間、足に激痛が走った。
「痛ぁ〜〜〜〜〜いっふらふらあせあせ(飛び散る汗)どんっ(衝撃)
と叫ぶ私に妹は静かに言った
「だから言ってんのに・・・」

なぜ私が自分の視覚を使って爪楊枝クンを発見するまで気づかなかったのかは判らない。
「痛い」という感覚はもちろん、ゾウリの違和感や歩いたときの違和感や、、、視覚を使うまでもなく気づくだろう要素はオテンコ盛りであったにも関わらず、なぜそれらの感覚を知覚も認識もせず、視覚でなくてはならなかったのだろう・・・
まるで「太陽にほえろ!」で松田優作演じるジーパンデカが殉職した時のようだった。
血を見て「なんじゃこりゃぁ〜」と・・・で、痛みはその後から登場・・・みたいな、あんな感じ。

ずっと以前に「人間はほとんどの知覚を捨てている」というようなことをエントリして書いた。
24時間着ている服の感覚を24時間ずっと認識している人間は恐らくいないだろう。
でも確かに服を着ていて、当然皮膚感覚として私は感じている筈なのに、それを認識することはあまりない。
なぜならば必要が無いからである。(だろう・・・多分・・・)
服の感覚と同じように、私は爪楊枝クンが私に与える痛みや、ゾウリが伝える通常とは違っただろう履き心地や、そういったものを感じながらも認識せずに捨てたのだろうか?
必要無いから?
え゛〜〜〜っexclamation&question思い切り必要だろうっつーの。
それとも私の意識は一刻も早く「面倒な労働」から解放されることに、全力を挙げて集中していたのだろうか?
いずれにしても、「自分の目で見るまで痛くなかった」ことだけは間違いない。

こんな経験がナニを示してくれるかと言えば、
「自分の感覚で知覚できない、もしくはその知覚を認識・認知できなければ、事実であってもその事象はその人間にとって現実ではなくなる」
ということだ。

足に爪楊枝が刺さっていたことは事実である。
しかし爪楊枝クンを私の足の裏で発見するまで、私にとってはその事実は現実ではなかったのだから。。。

それがナニを意味するのか。。。
要するに、視覚・嗅覚・聴覚・味覚・皮膚感覚の五感から得られる=知覚からもたらされる情報が、私たちの世界のすべてである、ということだ。
そして、それらは自分が認識したものと他人が認識したものが同じだとは限らないし、例えそれらの認識が同じだったとしてもその認識が目の前のモノやコトやいろいろを正しく私たちに教えているとは限らない、ということだ。
なぜならば、私たちがモノやコトを確認する手立ては五感によるしかない以上、それらを確認する術は無い、ということだからだ。

更には、果たして本当に目の前にモノやコトがあるのかどうかすらも怪しい、ということになる。
自分自身が持つ「身体」すら、本当に存在しているのか怪しいのだ。
もしかしたら意識だけの存在かもしれないということになる。
目の前の机も、隣りにいる息子も、CMばかりのTVも、全ては私の意識が勝手に作り出したものかもしれないということになる。
実は私は電子脳の試作品で、今は試作実験中なのかもしれない。
目の前に見えるディスプレイも、PCの本体が「ウ゛ぅ〜」とか聞こえるのも、キーボードの感触も、実はそんなものは存在しなくて、私の意識(脳?)が勝手にそういう感覚を認識しているかのように思わせているだけなのかもしれない。

五感を疑ったとき、行き着く先には「虚無」があった。

ken師匠のところで出会った彼が言っていた「虚無」とはこういうことなんだろうか?
だとしたら、「虚無との戦い」とはどういう意味なんだろうか?
それとも全然違う方向性のことを言っていたのだろうか?

今となってはそれを知る術は無いけど、思わぬところから「虚無」に行き着いたことに私は少々戸惑っている。

現実や実体なんてものは何もなくて、実は私が勝手にそう思い込んでいる、、、なぜかは知らないが、私の脳とか意識というものが私にそう思い込むようにしているだけなのかもしれない。
だとしたら、ken師匠のところで出会った彼もまた、存在などしないということになる。

存在しない、ということは無意味なことなんだろうか・・・

私自身も含めて、この世には何も存在しないのかもしれない・・・この世なんてものも存在などはしないのかもしれない。
でも私はなぜかココにいる。
私自身の正体も、この世の正体も、誰にも確かめる術はないモノではあるけれど、それでもなぜか「私」「ココ」にいる。

自分を含む全てのモノがナニモノカが作り出した虚構だとしても、私は私の五感がもたらす情報を「現実」として受け入れるべきなんだろう。
「実体なんてあるのかどうか怪しいものだ」と疑いながらも、「実体がある」という「事実それ自体」を受け入れるべきなんだろう。
今のところは・・・

人間が「事実それ自体」を覆しながら進歩してきたとしたら、五感からの情報のみで確認できる「実体がある」という「事実それ自体」が覆る日が来ないとも限らない。
そんな日が来るんだろうか?
その日まで、人間は生存していられるんだろうか?

と、なんだかSFな気分の今日この頃だったりする。

大丈夫か?自分フリーダイヤルあせあせ(飛び散る汗)
というか、私の脳内現象ふらふらー(長音記号1)
posted by チャマ at 21:59| Comment(2) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
よくあることとは思うんですが・・・私もよくあります(汗
Posted by うちゃ at 2006年05月20日 08:48
うちゃさん、いらっしゃいませ。
コメントありがとうございました♪

実はこのエントリを書いた時はまだ全部本を読み終わってなくて、読み残した部分に私が書いたことへの茂木さんのお考えがありました。と思います・・・(汗

そのうちエントリします。。。
チョットいま、松葉杖生活なもんで椅子にずっと座っているとキツイんですよねw
Posted by チャマ at 2006年05月26日 00:33
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