2008年11月24日

アイデンティティを考える・・・ちょっとだけ学問風編

自分のアイデンティティの探求に振り回された今年一年。
とは言っても、ああ、これってそーゆーことだったのか、と解ったのはつい最近の話。
泥沼の中にいる時は、アイデンティティだのなんだのなんてこれっぽっちも思い浮かぶ訳がない。

なんとなく嵐が過ぎた感がある今だからこそ、アイデンティティなんていうオジョウコな考えが浮かんでくる訳です。

はて、アイデンティティとはなんでしたっけ???

こんな日常生活を送っているので、放送大学を自主休学中している状態のワタクシではありますが、それでもほんの僅かばかり、単位を取得した科目はあるのであります。

その中に生涯発達心理学もあったのですが、然しながら、もう一つアイデンティティってなんぞや?というものが、感覚的に理解出来ないでおった次第です。

そう、私はこれでも女性として生れ落ちておりますので、女性の脳みそをもっております。
ってな訳で、感覚的な理解が必要になってくる訳です。

そして今回、幸か不幸か、図らずしてアイデンティティの拡散に伴う探求と形成を身を以って意識できたことで、やっと理解することが出来たような、そんな気がします。


アイデンティティを辞書で引きますと、「自我同一性」とか「自己同一性」と出てきます。

例えば、私は甘いものが好きな人間だ、ということが、いつでもどこでも自分で解っている、ということになります。

甘いものが好き、という評価は、比べる対象がないことには評価しようがありません。
自分の中では他の嗜好と比べて、自分の外では他の人に比べて、ということになります。
自分の内と外から、安定して確認され支持されていることが大切です。

青年期に著しくアイデンティティの探求や形成が行なわれることはよく知られていますが、実は幼児期にすでに「ボクちゃんはなにもの」という形成は成されています。
誰が親で誰が兄弟で誰が他人で・・・という、どちらかと言うと対外的な位置づけについての「ナニモノ」なのかもしれませんね。

小学校の高学年くらいになるまで、人間は「自分はこういう人間」ということを考えない(考えられない?)のだそうです。
全ての言動の源は、社会から教えられた規範と自分の中にある衝動のどちらか、ということになるのでしょうか?

歩きながらモノを食べるのはマナー違反・・・規範
でもそれをやっている友達がいて、自分もやってみたい・・・衝動
そしてどうするのかは、自我が決めることです。
規範と衝動との折り合いをどうつけるかで、行動は決まります。
フロイトが言うところの、スーパーエゴとエゴとイド(エス)の関係、ですね。

大人だったら自分の行動を取り上げて自ら評価し、認識し、「自分はこういう人間」という理解をするのでしょうが、小学生くらいではまだ、一つの行動(自我による選択の結果)について「自分」を評価することはしない、ということになるのでしょう。
彼らが自分を評価する際の基準は自分の中にはなく、彼らの外からの評価でしかないのでしょう。
だからこそ、自分の中にある優先順位の優位にいる人間にはより従順なのだ、とも言えるのではないでしょうか。

アイデンティティを形成するために、まず「今まで」からの脱却を図るのだそうです。
評価の基準が他者の規範から自分の規範になる、ということなんでしょうかね。
そして、自分が持つ規範もまた、これまで親や周りの大人から教えられたものから、友だちや仲間と共有できるような規範へと変わって行きます。

自らを解体しながら、自分ってナニモノ?という探求もまた始まります。
そうやって見つけ出された「自分」は、最終的には受け入れなければなりません。
そりゃあなた、ダメな自分よりもダメじゃない自分、出来れば「さすがオレちゃん手(チョキ)わーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)」と思える自分の方が受け入れ易いに決まってます。

自分に対する自分の評価が、周りにいる人たち、それも一人や二人よりも社会全体(または大半)から認められるような評価と一致すれば、それは文句なく「これがオレちゃん」という認識になります。
良い評価であれば受け入れるでしょうし、好ましく無い評価であれば様々な手段を講じて、なんとか受け入れ易いよう、受け入れられるようにするのでしょうし、どうしても受け入れ難い自分からはトコトン逃げよう(認めない)とするのでしょう。

自分を解体しながら再編し、そしてまた解体し、再編し・・・

彼らの年代は、それまでに無かったいろいろな機能が目覚める時期でもあります。
それらは全て、彼らの意識の外で起こっていること。
まさに彼らの体の中は、混沌としたカオス状態、なのでしょうね。

アイデンティティの拡散と再編は、何も青年期に限ったことではありません。
その年代以降、人間はことある毎にチョコチョコと行なっているのだそうです。

特に、私くらいの年代は中年期危機と呼ばれていて、青年期と同じくらい、もしくはそれ以上に大きな転機を迎え易いお年頃なのだそうです。

確かに、、、、
以前、プログラマーをやっている人が、その会社では「みんな、40歳を過ぎたあたりで転職するか管理職として会社に残るか分かれるんだ」、とおっしゃっていました。
周りを見渡しても、案外「ああ、アイデンティティの再編成中なんだなぁ」と思える同世代が多かったりします。
「人生変えるなら今が最後のチャンス」
と思えなくも無い、そんなお年頃だったりもします。

青年期のアイデンティティの形成には、周りや社会からの支持が大きな役割を果たしますが、中年期のソレには、そのような支持がなくても「そんなの関係ねぇ〜」とばかりに形成されてしまうこともあるように思います。
周りや社会の支持がなくとも、「それもまた自分」と受け入れられる器の大きさが、中年期には形成されている、とでも考えれば良いのでしょうか?

そんな器の大きさを持たない青年期の彼らは、周りや社会からの支持には過剰に過敏になっているのでしょう。
そんな支持は、何も大きな括りの一般社会だけではなく、自分の周りの仲間社会であったりもします。
だからこそ、彼らは「人と違う」ということに必要以上に過敏になるのかもしれません。

そしてまた、意識の外とはいえ、常に自分に注目している自分がいるのですから、人の視線というものに対して過剰に過敏になっているのでしょう。
「誰もアンタなんて見ちゃいないって・・・」
そんなことはお年頃の彼らの耳には入りません。

本当に難しい年頃です。

そんな難しい年頃を、これまた難しいお年頃の親が見守っているのですから、なんとまぁ難しいお話なんでしょう。。。

もうちょっと学問的な書き方をしたかったなぁ、なのですが、アイデンティティについては話が長いんですよね・・・
あっちにもこっちにも話が飛ぶし。。。

意識の外で起こっていたらしい青年期とは違い、終わってからとは言え「ああ、アイデンティティの問題だったんだ」と意識の内で解った中年期の今では、それぞれのテキストに書かれているアイデンティティに関する記述も、「あ〜、そうそう、そんなカンジぃ〜」と思えます。

私は二週間前の出来事をもって、今回のアイデンティティの形成は終了したんだろうと思っていますが、果たしてどうなんでしょうね・・・

でも、少なくとも、自分の中でスッキリした部分があります。

仕事に関しては、まぁ前よりは上手くやってます、ってカンジですが、何せホラ、突然の不況でしょexclamation×2
自分の内側問題で四苦八苦しているようなおばちゃん派遣なんていらないんだろうなぁ、って我ながら思いますよ。
それに、私が派遣社員だった頃は限定された職種でしか派遣って出来なかったから、それなりに時給も良かったけど、今じゃあなた、フツーにバイト並みの時給ですからねぇ・・・
全然無いよりは良いですけど、どうせフルタイムで働くなら、もうチョット考えないと・・・
息子たちにもお金がかかるんですよ。
何せ義務教育とは違って、やっぱ高校は公立でもお金がかかります。
それに、どこが不登校だったんだろうか?ってくらい、朝も早よから夕方暗くなるまで学校に行っている野球少年も、やれ遠征だやれユニフォームだやれグラコンだ・・・部活って授業の一貫じゃないのかぁちっ(怒った顔)手(グー)

ああ、中年期クライシス・・・爆弾どんっ(衝撃)
posted by チャマ at 15:17| Comment(0) | TrackBack(0) | いろいろ考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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