2005年08月18日

間違っているのか古いのか=自分

もう何度も書いているのだけれど、ウチの息子の不登校の解決≠学校に行くこと、なんだと思ってる。
漢字が覚えられないから授業が判らない。だから学校に行くのヤダ。
ならば、覚えられないと言えるだけの時間を費やしているかと言えば、「3回も書いたって覚えられない」のだそうだ。

学校に行く行かないをどーこーする前に、たった3回書いて「オレってダメなんだ」って思っちゃうことの方が問題だ。
それ以上の努力を無駄だと思っていることの方が問題だ。
たった3回書いたくらいで漢字が覚えられるのなら、学校なんて行く必要ないじゃんよ。
でも彼は「お利口さん」じゃないといけないのだと思っている。自分は3回書いたら覚えられる筈だと思っているのかもしれない。自分の姿が見えてない。

ナゼだろう・・・
生まれ持ったもの=1/3 親の姿勢=1/3 保育園の時の位置・扱い=1/3
本当は半分以上は、保育園の時に必要以上にチヤホヤされたことだと思ってる。
でもそれに気付かないで、それをチョットは自慢に思っていた親も共犯だと思うから、等分した。
でも、決して学校の中で優秀じゃなかった私にしたら、出来ないことがあって当然だと思う。
苦手なことがあって当然だと思う。
大切なのは、それをいかに克服してやろうかとか、テキトーに流すにしても自分が「まぁいいや、こんなもんで。」と納得できるところまでの理解を試みるような、そんな姿勢じゃないんだろうか、って思う。
結局のところ、不登校の解決ってさぁ、不登校なんてどーでもいいの。
不登校によって見えてくる、我が子の「それでいいのかい?!」を解決したいだけなんだ。
でも、それすらも「個性」だから、そのままありのままオンリーワンで良いんだろうか?



長男1号が入学式翌日に
「“む”って字が書けないボクはバカだから、学校行かないぃ〜〜〜」
と泣いて転げまわった。
「バァ〜カ。バカだから学校行くんでしょうに。最初から書けたら学校要らないの!」
と言ったのは私だ。
子ども達の中で、「学校は勉強を教えてもらう場所」という認識が無いの?
そう考えてしまうのは「子どもの特性」なの?
学校っていうのは、自分の知識を人にヒケラカシテ優越感に浸る場所なの?
それとも、子ども達がそう思ってしまうようなナニカがドコカに在るの?

そのナニカが何かは判らないけど、親が学校で勉強することを先取りして教えて、塾に通わせて、当然のように学校の成績が優秀なのだろうけど、それが今時の学校、なんだろう。
それが学校という場所に居続けるための必須条件なのかもしれない。
私のように「バカでもい〜じゃん。学校は勉強を教わるところなんだから。」なんて考えの親は、絶滅危惧種なのかもしれない。
「おかーさん、ここ教えて」と言われて、確かに1号が低学年の時はケンカしながら教えた。
でも高学年になってから、「これじゃいかん!」と思った。
「センセーに聞きなさい。何のためにセンセーがいるのよ。」
なんて答えるようになった私は、超絶滅危惧種なのかもしれない。

「個性の時代」「個性を伸ばす時代」にあって、出来ないこともほどほどはガンバルこと、を子ども達に身を以って覚えて欲しいなんて思っている私のような親は超絶滅危惧種Maxかもしれない。
学校に行くことがイヤなことだからこそ、学校に行かれるにはどうしたら良いのか自分で探求して欲しい、間違ってもいい=「お利口さん」じゃなくてもいいから行動を起こして欲しい、なんて思う私のような親は、すでに絶滅しているのかもしれない。

「怒られることを恐れるな」的なことを自分の体験談を交えて子どもによく言うんだけど、そんな子どもは学校には居辛いに決まっている。
でもそんな居辛い場所に居続けることもまた、身に付けて欲しいと思う。

なんて欲張りな親なんだろうと思う。
でも、そうやってあなた達のお父さんもお母さんも生きてきたのだから、そして今幸せなのだから、多少の困難や苦労は乗り越えられるのだから、ガンバレ!って思う。
這い上がって来い!って思う。

こんなことは子どもの人権を無視した育児なんだろうか?
親の押し付けなんだろうか?
「学校になんて行きたくない」⇒「いいのよ、行かなくて」
「漢字なんてやりたくない」⇒「いいのよ、得意な算数だけやってれば」
そうやって子どもの個性を伸ばしてやることが、良いんだろうか?
「寿司のネタだけ食うなんて、他人様の家に行くのに裸足なんて、他人様の家でのど渇いただのお腹すいただのなんて、そんなお行儀の悪いこと許さん!」
なんてことを言っていてはいけないんだろうか?

こんな子育ては間違っているんだろうか?
こんな子育ては古いんだろうか?
だからこそ、子ども達は学校という次世代を担う新しい人種の中で生き辛いのだろうか?
時々、こんなことを思う。

そして時々
「ウチにはおとーさんが2人いて、おかーさんがいないのかもしれないなぁ」なんて思う。
posted by チャマ at 01:04| Comment(12) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
お久しぶりです。前回から時間がたって、その間いろいろ考えてました。私とチャマさんとでなにか微妙なずれがあって、それは何だろうとおもったのですが、今日のブログを拝見してなんとなく思ったことを書きます。失礼にあたったら、ごめんなさい。
「むっていう字が書けないから行きたくない。」といったとき、子供は「む」が書けないことより他になにか言いたかったのでは?と思います。だっていくら子供でも純粋にそれだけで学校に行かないことはないですから。たとえば「む」が書けないことで、周りから笑われてすごくつらかったとか、先生に聞くタイミングがわからないことで不安になったとか、または、お母さんに「む」の練習を見てもらいたいとか・・。言葉の裏に絶対何かあります。それが何かを確認する手間って大事だと思うんです。
 「むが書けなくって困っちゃうんだね。」と切り返していれば、また違ったかも。相手がさらに怒ったり、泣いたりしたら、それは相手の気持ちに沿っていないことを言っちゃったということだと思います。
 子供にいったん寄り添って、それから自分の意見を少し出す。年齢の低いうちは言いたいことがうまく表現できません。高校生でもよくあります。泣いたり、おこったりするのは表現の未熟さの現われだし、いつまでも続くとしたらそれは問題が未解決だというサインと思っています。
 我が家は子供が思春期で、反抗的な態度が普通ですがw、お母さんに心配かけたくないって絶対思っている。だから、お母さんに言われたことが自分ではいやだったり、つらかったりすると、持って行く先がない。
 大人でも表現力を磨くこと、大切だと思っています。心で思っていることをどのように伝えるか、相手のことを理解しているとどう示すのか、むずかしいです。お母さんの果たす役割ってすごく大きいと思っていますし、それゆえに自分が母親として迷うことも多いです。
 
Posted by ゆみまま at 2005年08月18日 10:22
ゆみままさん、コメントありがとうございます♪
全然失礼なんかじゃないですわぁ〜。
おっしゃる通りなんですもの。

「む」が書けない、ただそれだけのことで「学校に行かない」と言った背景にはいろいろなことがあります。1号が過去から引きずっていることとその日そのことで彼が感じたことは、ず〜っと繋がっています。そしてそれは今にも繋がっています。
それは「む」という文字が書けるようになったから解決する、というようなものではないんですよね。
子どもは表現する能力が未熟です。自分が抱えている問題を的確に他者に伝えられないこともですが、自分自身でも確固たる理解はしていないでしょう。
でも、そのもっと奥にある根本的な、本当の問題には漠然と気付いています。
ゆみままさんがおっしゃるように、息子の問題は「む」が書けないことではないんです。
そんなことは単なる「きっかけ」と言えば良いでしょうか?

それらを踏まえて、ここからが私の問題になる訳です。
いろいろな選択肢があります。ご家庭の数だけ、こういった場合の親の態度があるのかもしれませんね。
私は息子達に自分で見つけて欲しいんです。
どうしたら学校という居辛い場所を克服できるか、を。
どうしたら学校で感じている「雑踏の中の孤独」と上手く付き合えるか、を。
でも、こういう考え方って、今では死滅しつつあるような気がするんです。
今時の人間である自分の子ども達に、ただ消え去るのみの老兵の生き方を押し付けてゴメンよ〜!なんて、思っちゃうんですよね・・・
ガンバレガンバレって思いながら自分から動くことを待っているんですけど、生活している中では即決を迫られることもあったりして、「それもまた乗り越えてちょーだい」って思う反面、やっぱり顔を覗かせるのが「かわいそー」なんですよね。
はぁ・・・つくづく成長できない親です。
Posted by チャマ at 2005年08月18日 12:39
子供だって一人の人間です。なぜそれを認めてあげないのですか?

自分が頑張ってきたからお前も頑張れ、それは親の人生観の押し付けです。

チャマさんは母子家庭の子ということでさぞや頑張ってこられたのでしょうね。

けれどもお子さんはあなたではないのです。あなたと違う人格で違う人生を歩んでいく人なのです。

なぜそこまで強くならなければいけないのですか?弱い人間は生きていてはいけないということ?だったら病人や障害者、年寄りは頑張れないからだめということ?

アダルトチルドレンという言葉をご存知ですか?
親あるいはそのような存在の人たちに心を傷つけられ、その傷をもったまま大人になってしまった人たちのことです。

心理学の交流分析という分野でも6〜8歳までのうちに、親などとのかかわりの中から、人生脚本
を作ってしまうといわれています。

親とのかかわりって思っているよりずっと子供に大きな影響を与えるのです。

お子さんは、おかあさんに「頑張らずに気楽にのんびり生きようよ」ということを教えているのかもしれませんよ。

私も子供に教わりました。そんなんで世の中渡っていけるかと思うかもしれませんが、いけるんですよ。絶対大丈夫です!

なんかあちこち書き込みしてごめんなさい。
Posted by てりい智子 at 2005年10月26日 18:26
てりいさん、3タテのコメントありがとうございます。

>なんかあちこち書き込みしてごめんなさい。

いえいえ、おっしゃることは終始一貫されていて、私のように迷えるおばちゃん羊にはある種の尊敬すら覚えます。

>なぜそこまで強くならなければいけないのですか?弱い人間は生きていてはいけないということ?だったら病人や障害者、年寄りは頑張れないからだめということ?

頑張り違い、されてませんか?
病人や障害者、お年よりは頑張っていないのでしょうか?
彼・彼女等だって、頑張っているのですよ。
最大限、人の手を借りずに生きるために、リハビリをしたり、寝込んで足腰が立たなくならないように生活全般に気を使ったりしているではないですか。
それは彼・彼女達にとって苦痛を伴うことであったり、自制を必要とすることであったりするのですよね。
そういった場合、無理なことはしなくても良いのでしょうか?そんなことはかわいそうだから、やらなくても良いのでしょうか?
いったいどっちが可哀想なんだ、って話じゃないですか?
例えば、寝たきりになった方が楽チンでいいや♪なんて思っているのなら、そんながんばりは必要ないのでしょう。
でも、まだまだ自分の思う通りに動きたいんだ!と思う人ががんばっている姿を見て、「がんばらなくても良いのよ。」なんて言いますか?
そんな頑張りは、盲人にがんばって晴眼者と同じように行動しろと言うのと、同じ頑張りですか?
寝たきりは嫌だけど、リハビリしたり生活を自制するのも嫌だ、という人間がいたら、てりいさんはどうされるのでしょうか?

私は必要以上に不登校が批難されることがあってはいけないと思いますが、必要以上に擁護されることもまた、あってはいけないと思います。
不登校・登校拒否を容認する余り、美化してしまうことはとても危険なことだと思います。
あの時の苦しかった気持ち、なんとも言えない嫌な気持ちを、全て社会や学校や親のせいにしてしまうことは違うんじゃないだろうかって思います。
それこそ、怒りの矛先が違うように思います。
じゃぁどこよ?と問われると、よく解らないのですけどね・・・多分人によって違うんじゃないだろうかって思います。
だからと言って取りあえずの間に合わせで良いものでもないと思うのですよ。
身体症状やら、緊急を要する時の間に合わせとしてなら効果も発動するでしょうけど、ずっとそうやっていて良いのかい?って思うのです。

>けれどもお子さんはあなたではないのです。あなたと違う人格で違う人生を歩んでいく人なのです。

おっしゃる通り、親と子は全くの別人です。
ですから、(別のエントリへのコメントですが;)

>お子さんの本当の気持ちわかっていますか?

と問われれば、解りません。
自分だったら…と置き換えたり、ン十年間の対人経験から想像することしかできません。

てりいさんはわかっていらっしゃるのですか?
コメントに書かれていることを拝見すると、何でもお見通しってカンジなんですが?
Posted by チャマ at 2005年10月26日 22:02
早速のコメントありがとうございます。
チャマさんは間違っているとは思いません。
ただ気づいていないだけだと思います。

チャマさまのようなお母様はたくさんいると思うので私もここに書かせていただきます。

障害、お年寄りのことなどをあげてしまったのは混乱を増長させてしまったようで申しわけありません。

人の弱い部分を否定してはいけない、ということをいいたかったのです。

うつ病に「頑張れ」は禁句なのはご存知ですよね。
こんなに頑張っているのに、さらに頑張れというのか、と自殺するケースが多いそうです。

私がいいたかったのは、頑張って不登校を乗り越えて学校へ行けと子供にいうのは、「頑張って東大へ行け、私たち親はそうやって頑張って今幸せなんだから」といっていることとなんら基本は変わらないということです。

それとこれとは話が違うという反論がきそうですが、子供に取って見れば、自分の生き方を自分で決めることがなく、親に押し付けられているという点では同じことですよね?

本当に好きなこと、やりたいことって人に言われなくても勝手に自分から頑張ると思いませんか?
よくやるなーと人に言われるほどやっても辛いどころか楽しかったりしますよね。

自分の経験や人生観を教えるのはいいことだと思うのです。それは子供にもとても参考になります。

けれども押し付けるのは違うと思うのです。
お母さんはこう思うけど、あなたはそれを参考にして自分で選んで生きていっていっていいんだよ、といってみてはどうですか?

子供は親が大好きです。だから親の望むようにしようと喜んでもらおうと思うのです。

そのことによってどうしても子供にとって親は絶対的な存在になりがちです。

長年生きてくると自分の人生を肯定したくなるのは誰しも同じです。

けれども子供と自分は違う人間なんだ、ということを忘れてはいけません。

たしかにチャマさんはとても強く、頑張ってこれまで生きてきたのでしょう。

それはすばらしいことだと思います。自分を褒めてあげていいことだと思います。

子供時代の自分を思い出してください。

お母さんに心配かけまいとかんばってきたのではないですか?
取り巻く環境に不満がありませんでした
か?
もっとお母さんに甘えたかった、とかそういう思いはありませんか?

うちも母子家庭なので『頑張れ』の無言のメッセージを送っていたかもしれないと、子供にきいてしまいました。(笑)

人間とは、親から自分にされたのと同じようなことを子供にするものなのです。

これは臨床心理の分野になるのかと思います。
アダルトチルドレンといいます。

この概念自体新しいです。日本に紹介されたのは1989年です。ですから知らなくて当然です。

うつ病、自傷行為、拒食症、パニック障害などの精神的症状の原因はすべてこれが根本にあると思います。

親と子供が癒着していては、子供が自分の人生を生きれません。

チャマさんが、子供の頃の自分自身を癒したとき、子供のありのままを受け入れられるようになるのかもしれません。

子に頼まれる前に手を出すのではなく、大きな気持ちで見守ることができるようになると思います。

そしてSMAPの曲も受け入れられるようになると思います。

「生きていてもいいことなにもない」なんてそんな小さなお子さんが口にする言葉じゃないですよ。

お子さんが少なくとも家庭で、親に自分を受け入れてもらえていれば、家が大事な逃げ場になることができます。

死を口にすることはないでしょう。

けれどもその家庭でさえ、自分を受け入れなければ、子供はありのままの自分を受け入れてくれる場がなくなるではないですか?

受け入れてくれるところは天国ということになってしまうのですか?

お子さんを抱きしめてあげてください。まだ小さいのでそれができるでしょう。

今まで辛かったね、頑張ってきたんだね、と声をかけてあげてください。

チャマさんはとてもお子さん思いの愛情の深い方だと思います。

お子さんはメッセンジャーのようなものです。
チャマさんにもう一度自分を振り返ってみることを教えているのかもしれません。
Posted by てりい智子 at 2005年10月27日 13:26
てりいさん、どうしてなんでもかんでも不登校を基準に考えてしまわれるのですか?

>私がいいたかったのは、頑張って不登校を乗り越えて学校へ行けと子供にいうのは、「頑張って東大へ行け、私たち親はそうやって頑張って今幸せなんだから」といっていることとなんら基本は変わらないということです。

息子が乗り越えるとしたら、それは「不登校」なんて特定されたモノではなくて、「自分がやりたい、なりたい、したい」と思うならば、そういう行動を自らが取れるようになる、ということです。
「自分の好きな時間に中間教室に行き、好きな時間に帰って来たい」と思うならば、自分の足で歩く。歩くのがイヤなら送迎してくれる人間の都合に合わせる。
そのどちらもイヤだ、というのは、不登校云々以前の話だと思っています。
彼が乗り越えるべきは、ソコだと思っています。

人間って、理想的な環境に置かれなければ学べないものでしょうか?
今の学校のような環境に置かれても、そういう環境だからこそ学ぶことだってあるのではないでしょうか?
そこから「逃げたい」と思ったら、そうしても良いのではないですか?
そこに居たいと思ったら、居れば良いのではないですか?

私は息子が「行きたいんだ」と口に出す限りは、「行きたいのだ」と理解しますし、その言葉の後押しをするつもりでいます。
「行きたくない」と口に出したら、その時はその言葉の後押しをするつもりでいます。
「ああ、こういうもんなんだなぁ」ということを、息子が体得してくれれば、それで良いと思います。
時間はかかると思いますが、それを待てるのは親しかいないんじゃないでしょうか?
Posted by チャマ at 2005年10月28日 21:42
てりいさんがおっしゃることの多分全てを通過して、現在に至っております。

赤の他人であるてりいさんが、これまでの切れ端でしかないブログに書かれたことを読んだだけでお考えになられるようなことを、親である私が考えないと思われるのですか?

てりいさんのコメントのような一言一言が不登校の親を追い詰めているのだということを、シューレにお子さんを通わせて何年にもなるてりいさんご自身がよくお判りかと思っていましたが、そうではなかったようですね。
あなたのコメントは、「不登校の親は親として失格なのだ」とレッテルを貼る人たちのソレと全く同じですよ。
お気づきにはなりませんか?
Posted by チャマ at 2005年10月28日 22:54
チャマ様が攻められているよう感じさせてしまったこと、大変申し訳なく思います。

そういうつもりではなく、
>「怒られることを恐れるな」的なことを自分の体験談を交えて子どもによく言うんだけど、そんな子どもは学校には居辛いに決まっている。
でもそんな居辛い場所に居続けることもまた、身に付けて欲しいと思う。

>なんて欲張りな親なんだろうと思う。
でも、そうやってあなた達のお父さんもお母さんも生きてきたのだから、そして今幸せなのだから、多少の困難や苦労は乗り越えられるのだから、ガンバレ!って思う。
這い上がって来い!って思う。

という文章に対するコメントでした。
したがっておのずと、不登校に繋がる話題になり私の考えを述べさせていただきました。

これがチャマ様の本心だとしたら、お子さんに口で、「やりたいようにしていいんだよ」と言っていることと相反する無言のメッセージを送っているのではないかと思ったのです。

>人間って、理想的な環境に置かれなければ学べないものでしょうか?
>今の学校のような環境に置かれても、そういう環境だからこそ学ぶことだってあるのではないでしょうか?
>そこから「逃げたい」と思ったら、そうしても良いのではないですか?
そこに居たいと思ったら、居れば良いのではないですか?

私は不登校を容認しているので、もちろん「逃げて」いいと考えております。
ただ行かない時点でお子さんの答えは出ていると思うのです。

30年前のチャマ様、そして今のお子さんの姿が真実だと思います。
直感的に学校はおかしなところ、と感じているのだと思います。
その感覚は大切です。

学校以外の子供の居場所がこれからどんどん増えていくことでしょう。
またそうあらねばなりません。
私やチャマさんのように、行政の押し付けたシステムに子供が苦しむ、親もまた苦しむ、もうたくさんです。

民主主義の国なのだから、民主的教育があって当然だし、選択の機会を国民に与えるべきです。

チャマ様も子供とともに成長していくのですね。

どうぞこれからもお子さんの気持ちに寄り添って
お子さんを大切にしていってください。
Posted by てりい智子 at 2005年10月29日 11:01
てりいさん、前略です

>これがチャマ様の本心だとしたら、お子さんに口で、「やりたいようにしていいんだよ」と言っていることと相反する無言のメッセージを送っているのではないかと思ったのです。

「やりたいようにしていいんだよ」の、やりたいこと=学校に行きたい、なのですよ。
だったらそーしたら、ってことです、何度も書きますが。

>ただ行かない時点でお子さんの答えは出ていると思うのです。

これに関しては、別のエントリをご覧下さい。
探している時間が無いのですが、不登校を考えるカテで書いたように思います。
行かない時点では、彼等はまだ答えが出ていないのだ、結果としてそう見られてしまうだけなのだ、というのが、放送大学で心理学をチョコっと学んだ時点での私の見解です。

>私やチャマさんのように、行政の押し付けたシステムに子供が苦しむ、親もまた苦しむ、もうたくさんです。

ウチの子限定で、行政に押し付けられたシステムが原因ではないと思います。
どんな集団の中であっても、いずれ彼は同じような事態に遭遇しただろうと思っています。

>民主主義の国なのだから、民主的教育があって当然だし、選択の機会を国民に与えるべきです。

これに関しましても、以前エントリにチラリ書いたと思います。
今の世の中、選択の機会を悪い機会にしていまう親がいるのが現状です。
さて、その問題はどうされますか?
社会は不登校だけを中心に成り立っている訳ではありませんからね。
様々な問題が押し合いへし合いしているのです。

>どうぞこれからもお子さんの気持ちに寄り添って
お子さんを大切にしていってください。

てりいさんにそう言われると、ついつい「寄り添い過ぎても、大切にし過ぎても、子どもにとって決して良いことばかりじゃないですよ。」なんて言いたくなりますね(苦笑)
こんな天邪鬼にお付き合いくださって、ありがとうございました。

これからチョイと仕事に行かねばなりませんので、もしコメントして下さるのでしたら、お返事が随分と遅くなると思いますが、悪しからず、ということでお願いします。
Posted by at 2005年10月29日 15:14
ごめんなさいぃぃぃ↑は私チャマのコメントです。
名無しさんではありません。
って、フツーに御解りになるかとは思いますが・・・
汗!!!
Posted by チャマ at 2005年10月29日 22:40
>「やりたいようにしていいんだよ」の、やりたいこと=学校に行きたい、なのですよ。

この件に関しては、上記ゆみままさんとのコメントと私の意見は重なります。
>「むっていう字が書けないから行きたくない。」といったとき、子供は「む」が書けないことより他になにか言いたかったのでは?と思います。

言葉を額面どおり受け取るのではなく、その裏を考えてみる、ということは私も、ゆみママさんの考えと同じです。

>今の世の中、選択の機会を悪い機会にしていまう親がいるのが現状です。
それは決して悪いことではないと思います。
変えて行くよう働きかけをしていく機会ができた、もう一度考え直す機会ができたとも考えられます。います。

他のログにも書いたように、今までの日本の教育は後進国のものだったのです。
それは教育史をみればわかることです。

>どんな集団の中であっても、いずれ彼は同じような事態に遭遇しただろうと思っています。
これは同意します。その可能性はあります。なぜなら、労働のシステムが変わる時が来ているからです。

これまで、学校は職業ではなく会社員のプロとなるように働きかけてきました。プロフェッショナル、スペシャリストを育てるということをしてこなかった。これは竹中財相もTVで言っていました。これからはプロフェッショナルの力が必要だ、と。

けれどもオタクのような一つのことにのめりこむ人間を、多くの人は変わり者扱いしてきたと思います。

大人は就職することしか子供に望まない。そのような労働形態以外の労働を提示できないでいるのが現状です。

イタリアに友人が多くいるのですが、イタリアでは企業する人を、頭のいい人、という言い方をします。
日本は頭のいい人といえば大企業、官僚に入るという道筋ができているので、認識は大きく違います。
起業する人は能力、実力、スキルのある人という考えです。

90年代初めこの国の失業率は非常に高かったです。今の日本と一緒です。
私の知り合いも有機農業をやりながらアグリツーリズモという新鮮な料理を提供するという民宿のようなものを始めました。

男性は28歳まで徴兵制度があるから、という理由もあり、30才ぐらいまで就職しない人がたくさんいます。
大学の卒業認定が日本よりはるかに難しいというのもあります。
親元でぶらぶらしているのは普通のことなんです。

イタリアには「働かなくても死にはしない」ということわざもあるくらいです(笑)!!

新しい労働形態について大人も考えなくてはいけません。就職だけがすべてではない、と。

ニートやフリーターは直感的になんか違う、と感じているのでしょう。これは自分のやりたい労働ではない、と。
そのほうが正常な感覚だと思います。

彼らの存在が世の中を変えるのです。彼らは革命の子供たちといえるでしょう。

チャマさんのお子さんも、私の子供も、新しいタイプの子供なんです。
Posted by てりい智子 at 2005年10月30日 11:30
えっとですね、後半部、というか、ほとんどなんですが
>他のログにも書いたように、今までの日本の教育は後進国のものだったのです。
それは教育史をみればわかることです。

以下の文章に関してましては、ご自身のブログなりホームページなりで発信しては頂けないでしょうか?
それをTBなりしていただけると助かります。
私のブログやコメント欄は、てりいさんのお考えや知識を社会に向けて発表・発信して頂くためにあるのではございません。
くれぐれも、重ね重ね、お願い申し上げます。


で、私に関係されると思われる部分についてです。

>言葉を額面どおり受け取るのではなく、その裏を考えてみる、

そんなに子どもが信用なりませんか?
その裏を考えすぎることは、子どもにとって負担だったり余計なお世話だったりするかもしれない、なんてことはお考えになりませんか?
いつでもどこでも、自分と関わる人間が言葉の裏の裏を読んで対応してくれるとは限らないのでしょうに。
そういうのを、過保護とは言いませんか?

>>今の世の中、選択の機会を悪い機会にしていまう親がいるのが現状です。
それは決して悪いことではないと思います。
変えて行くよう働きかけをしていく機会ができた、もう一度考え直す機会ができたとも考えられます。います。

やんわりと書いたつもりでしたが、逆に真意が伝わらずに申し訳なかったと思います。
悪い機会にしてしまう親、というのは、育児放棄とか子どもを虐待する親のことを指しています。
過去にココで書いていることですが、学校制度がそれらの抑制に貢献しているという現状があります。
不登校の側から立った学校制度・教育の改革を叫ぶことを否定はしませんが、子ども達の身に起こっているもんだは不登校ばかりではありませんから、それこそ一方的な視点からの変革を「正しい」としてしまうことは危険ではないのかい?と思います。

ウチの子どもが新しかろうと古かろうと、どっちでも構いませんが、子どもはてりいさんがおっしゃるような新しいタイプの子どもばかりではないんじゃないでしょうか?
新しいタイプの子どもが優遇されるようになった時、別のタイプの子どもはどうするんでしょうね。
自分や自分の子どもが味わった苦い水を、他人になら平気で飲ませても構いませんか?
社会が変わらなくても良い、学校が変わらなくても良いなんて思いません。
でもね、あまりにも不登校に重心を置いた今のそういう類の声には、私は賛成できません。
あまりにも自分勝手が過ぎます。
Posted by チャマ at 2005年10月30日 20:21
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