2005年08月06日

問題解決という経験

何か大きなトラブルを抱えた時、すンごい失敗をしちゃった時
「これが夢だったらいいのにのなぁ〜」
って思う。多分、そう思ったことがあるのは私だけじゃない筈。
でも悲しいかな、絶対に夢でなんかないのは自分が一番良く判ってる。
若いころは・・・イエイエ、今でも、「お願い、チョーノーリョクでもマホーでもなんでも良いから、無かったことにして!」って思う。
本当に思う。心底思う。切実に思う。結構マジになって脳みそあたりに力を入れてみたりする。
でも、やっぱりそんなこと、私には出来る訳がない。

問題があまりに大き過ぎると、そんなことを願わなくても、なんとなく夢の中にいるような感覚にならないだろうか?リアル感が薄れてしまわないだろうか。
そんなのは私だけだろうか?
なんとなく感覚が鈍いような、もう一つはっきりした認知が出来ないような、まるでTVを見ているような、ヘンなカンジになる。
動物は捕獲され喰われるときに快感らしきものを感じるらしいけど、それに近いことが私の体内にも起こっているのかもしれない。現実逃避、という防衛機制なのかもしれない。
そして、なぜか時間の流れはゆっくりしているようで、でもむちゃくちゃ速いような気がする。
すごく動揺しあり焦ったりしている自分と、思考が停止しちゃったみたいにボーっとしている自分が同居する。
自分の中や外のいろいろな物事が上手く連動している現実世界とは違って、そんな時はみんなてんでバラバラなんだ。

問題が徐々に解決に向かって行くのと同時進行で、徐々に現実世界に引き戻されていくような気がする。その問題解決だって、最初の頃はどこか夢の世界に居ながらやっているような気がする。
それまで麻痺していたどこかが「痛い」・・・実際に体のどこかが痛いというんじゃなくて、心が痛いとか、そんなカンジの痛い・・・という感覚も、徐々に感じてくる。
ハッ!と現実に戻った瞬間、地獄のような苦しみを感じる時もある。
なんだかよく判らないけど、「ウワァ〜〜〜〜」っと叫びたくなる時がやってくる。
その瞬間が正直恐い。
そのせいだろうか、どこかでこの「夢の世界」から出ることを嫌がっている自分がいる。
出なくてもなんとかなるだろうことを知っている自分もいる。
でも、出なくちゃダメだって言っている自分もいる。


私は大抵の場合、ウツロな夢の世界から出る。
それは話に聞いた産まれる苦しみ、狭い産道をとって産まれ出てくる赤ちゃんの苦しみに似ているのかもしれない。
赤ちゃんが「オギャー!」と産声を上げるように、「ウワァ〜〜〜〜!」と叫ぶ。
実際に叫ぶ時もあるし、心の中で叫ぶ時もある。
だからどちらかと言えば、体育会系の、困難は乗り越えるタイプの人間なんだと思う。
そしてそういう下地を作ったのは、そうやって生きてきた母の姿が大きいのだと思う。
そうすることを余儀なくされた育った環境が大きいのだと思う。
でもきっと、ウツロな世界から出なくても生きては行かれる。
なんとかなるのだろうって思う。
でも、私にとっての大切な人たちが私がウツロな世界にいるがために苦しむことは耐えがたい。
たったそれだけの為に、私は狭い産道を通ってウツロな世界から出る。

現代社会では、そんな体育会系のノリはウザイとか、暑苦しいとか、泥臭いと言われることなのかもしれない。
あえて自分が苦しむようなことはしなくても良いのかもしれない。
例え私がウツロな世界に居たとしても、それが個性であり、オンリーワンであり、みんな違ってそれで良い、と言われることなんだろうから。
「無理しなくて良い」世の中なんだろうから。

でもそんな考え方は、私の「個性」を構成する一因である私の「思考の方向性」とは相反する。
そんな今時の社会と反する私もまた、オンリーワンなのだ。
「社会が変われ」と同じように、「私のナニが悪い」もまた認められる現代社会ということなのだ。
大変な時代になっちまった、ってことじゃない?

学校なんて行かなくても良い、と言ってしまうのは簡単だ。
学校なんてあってもなくても、人一人を形成する上では大して変わらない。
社会がどんな社会だろうと、学校なんて行かなくてもなんとか生きていかれるだろうよ。
人生っていう長いスパンで見る時、学校に行くことが経験なんじゃない。
問題を解決することが経験になるんだ。

人生の時々に、その経験が役に立つんだ。
「学校」なんてモノだけで人の人生を考えてしまうのは、あまりに狭い了見だと思う。
学校なんてモノを過大評価し過ぎてる。
問題が大きければ大きいほど、例え時間がかかってもその問題は解決することを経験するべきだと私は思う。
ウチの息子にとって、たまたまその問題が不登校だ、というだけのこと。

彼の中で「行きたい」と思う気持ちがある以上、それは「登校すること」が彼にとっては問題の解決になるんだろう。
それを「行かなくても良い」と周りの大人が刷り込んでしまうことは、問題の解決にはならない。
それどころか、彼の貴重な経験を取り上げてしまうことになる。
それが大人のするべきことなんだろうか。

社会がどうであろうと、人間はその中でしか生きられない。
サラリーマンだろうと社長だろうと農業だろうと漁業だろうと傭兵だろうと扶養家族だろうと、どんな形であれ、産まれちゃった以上は例え不本意であっても生きていかなくちゃならない。
学校や学歴なんてものを必要としない生き方はあっても、問題解決を必要としない生き方は無い。
だからこそ、不登校の解決に学校なんて、社会なんて関係ない、と言いたいんだ。
大人は社会のシステムを教える前に、どんな社会でも共通に生きて行く為に必要なことを子ども達に教えなくてはいけないんじゃないのかな?
それを無視して社会システムに沿ったことを教えても、何の意味があるんだろうか?


と、毎回毎回同じことばかり書いているのだけれど、結局のところ、カンセラーなんて商売が繁盛するのは現代人がいかに自力で問題解決が出来なくなっているかってことを証明してるんじゃないだろうか。その上、カンセラーに問題解決のためのヒントや解答を求めるクライエントって多いんじゃないかって思う。カウンセラーも大変だ。
カウンセラーの本分はタダ話を聞いてくれるだけだぞ。
ヒントならまだしも、解答なんて口にするカンセラーはカウンセラーだからこそ、そこら辺の占い師よりも性質が悪いと思うけどな。
いいのか?そんな人に自分の人生預けちゃって・・・
小難しい理論よりも、学歴よりも、もっとしっかり生きるための力をつけようよ。
なんて、思う。


posted by チャマ at 01:38| Comment(2) | TrackBack(0) | 不登校を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 チャマさん、こんにちは。
 
 ずいぶん前に神戸で行われた教育相談全国大会で聞いた話です。
 どうしても学校に行けない、と子供が言い出したとき子供の持つエネルギーが大きいと、刺激(適応指導教室に参加したり、保健室登校などの方法を考えたり)の効果が出るけれど、エネルギーと刺激のバランスが取れていないと逆効果である・・・
 でも当事者だけでは冷静に判断できないときもあります。それを手助けするのがカウンセラーです。ということでした。
 震災直後の大会で、神戸市は急遽カウンセラーさんを多数配置し、子供たちのケアを行っている時期でしたが、私の県ではまだ学校カウンセラーが配置されておらず、うらやましく思った記憶があります。
 
 子供の成長のためにはこれもしなくちゃ、あれもすべきだと考えがち。でも、「今」全部してしまわなくてもいいんだと思いました。

 じゃあ学校がもたらしてくれるさまざまな問題(試練?)とそれを解決していくチャンスを学校以外で子供がどうやって手に入れるのか?

 う〜ん、選択肢が思いつかないときや考えるのに疲れたときはやっぱりカウンセラーさんの力を借りるのがいいのかなぁ。

  
 
  
 
Posted by ゆみまま at 2005年08月06日 06:47
ゆみままさん、コメントありがとうございます。

カウンセラーに力を借りる。
カウンセラーが手助けをする。
その程度が問題だと私は思うんです。

カウンセラーはカンセラーであるが故に、刺激を与える人間であってはならないと思うのです。
クライエントはクライエントであるが故に、カウンセラーに直接の刺激を求めてならないと思うのです。

などと思うのですが、この当たりはエントリにしたいと思っています。
って、前に頂いたコメントを素にしたエントリもまだ書けてないのですけどね(涙)
夏休みゆえに、バタバタとしておりまして、ナカナカ考える時間も書く時間もないのでございます。
しばしお時間を下さいませ。
取り急ぎ、カンセラー関連を先に書きますので(汗)
Posted by チャマ at 2005年08月07日 20:53
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